説教 2020年11月

2020年11月22日

「主の祈り③御名が讃えられますように」マタイの福音書6:9-10 吉井春人 先生

<聖書箇所   マタイの福音書6:9-10>

9  御名が崇められますように

10 御国が来ますように

 

<説教要旨>

「今日一日をどうか災いから守ってください」という祈りならわかりやすいかもしれません。ところが、あなたのお名前が褒め称えられますようにという祈りは、わたしたちのもともともっている性質から湧き出てくるというわけではなく、このような祈りは、特別な賜物であり、特権であるのだといえます。

 

 原文のギリシャ語であるハギアゾー (hagiazoh)は、崇められるとか、聖とされるという意味であり、漢字としては、聖書の「聖」が引き当てられます。

 特別に扱われますように、に近いのですが、たくさんあるもののなかで優れているという意味ではなく、創造主であるお方が、もともともっておられる特別な性質が、とくべつに褒め称えられますようにとい う意味です。

 注目したいのは、わたしたちがそのように祈ることを求めておられることです。

 

 絶対君主が支配する時代から、国民が主権者である時代となり、君主たちが神と同列におかれていた時代は過去のものとなりましたが、日本は、天皇を神とする時代があり、たとえば、戦時下では、天皇の住まいであった宮城にむけて礼拝してから、キリスト教礼拝を含めたすべての行事をおこなっていました。

 

 日本には、全知全能の神ではなく、天皇に栄光を期すことを強制する時代があったのでした。

 明日の11月23日は、勤労感謝の日ですが、もともと、新嘗祭という皇室行事がもとにあり、収穫された初穂を、天皇に食べていただくということで、食べていただくのは恐れ多いので、なめていただくのが「新嘗祭」でしたが、戦後、国民主権に移行して、勤労感謝の日となりました。このあたり、米国で、11月第四目標日の今週おこなわれる「感謝祭」は、もともと、キリスト教会でおこなわれ、天地の創造主に感謝する行事でした。

 ほんとうの神さまへの感謝なのか、偶像への感謝なのか、あたりまえですが、両者の違いはあきらかです。

 主の民に、「神の名が聖なるものとされるように祈りなさい」と求めておられることの要となるのは、主がもっておられるご栄光のなかに、わたしたちを招いておられるところにあります。

 絶対君主の場合、忠誠を示さなければ罰せられるが、忠誠をつくし、忠実さを示せば、それと引き換えに、国民に安全と平和を保障するというのではなく、主がもとめておられるのは、ご自分のもっておられる勝利と栄光のなかにわたしたちを招き入れたいという願いが込められているのでした。

 ご自分がかちとられた十字架の勝利と栄光のなかに招かれる出だしが 、主の栄光のみ業に心をとめて、主の名を褒め称えることです。 そのための材料は、主がおつくりになった、天地のなかに、それこそ溢れています。ダビデは、詩篇の中でこのようにいいます。

 

 詩篇 8:3-9

3 あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、 4 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは、人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。 5 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 6 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。 7 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、 8 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。 9 私たちの主、主よ。あなたの御名 は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。

 

 天体や植物動物に心をとめて、作り主のみ業を褒め称えることができたら幸いです。御名を褒め称えさせるために、動植物をおつくりになったのです。

 

 使徒パウロは、ローマ人への手紙のなかで次のようにいいます。

 

 ローマ人への手紙 1:20

 

 神の、日に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる「数えてみよ主の恵み」という聖歌があります。

 自分の生活に、主への感謝を見いだすことができるのは幸いです。

 しかし、わたしたちを取り囲む、主のお造りになった世界のどれひとつにも、毎日の生活のいたるところに、主をほめたたえる材料はあるのです。

 

 本日は、「み名が聖とされますように」という箇所にくわえて、「あなたの国が来ますように」とい う箇所も加えました。

 主の祈り全体が統一された意味をもっていて、それでも、とくに、「御名が聖とされますように」と「御国が来ますように」とは切り離せない関係があるとみられます。

 わたしたちが目指すのは、主のお名前に栄光がきされ、賛美されることであり、そしても、その御支配により、み国の力が、主の栄光で満ち満ちた姿の実現を願うのです。

 

 災いのただ中で、キリストを信じない人であれば、運命に翻弄されることを嘆くか、「神も仏もあるものか」と嘆きます。

 しかし、キリストを信じるものたちも、主の御支配が完成されているのを見ていません。コロナ禍の時代の今だとしたら、神などどこにいるのかとなるでしょう。

 

 ローマ人への手紙 8:18-22

 18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示 されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。 19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。 20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。 21 被造物自体も、滅びの東縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れ られます。 22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。  23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

 

 すでに勝利のみ旗がたてられ、聖なる支配が実現することは約束されています。それは変更されることはありません。主が勝利され、主のを信じるわたしたちの勝利も約束されているのですが、現実となっていないのをみている状態を、「生みの苦しみ」に例えられ、主イエス様もそのように語られています。

身近な世界のなかに、主の心に反することを知らされたとき、「み国が来ますように」と祈るように促 されているのです。

 自分をワクワクさせてくれたり、憂さを晴らしてくれたり、楽しませてくれたりするようなものを、聖書や説教のなかに追い求めるのに慣れてしまうと、主の心が実現する神の国が実現するようにというより、自分の願いや思いや夢がかなうようにという自己実現を追い求めるという「的を外した祈り」になるでしよう。

 その祈り方について、「行き先は間違えていないが、選ぶ道を間違えている」とわかるかどうかがポイントです。

 

 自分のなかのセンサーが動くかどうか、感動するかどうか追い求めているほうこうが全部間違いとはいえないでしょう。正真正銘の幸福や平安は、結局、神から来るからです。けれども、感動やわくわく感など自分のハートを基礎にしてしまうと、的を外してしまうのです。

 あなたが向かつている方向は間違えていません。

 そうであれば、修正したらいいだけなのです。

 

 主の再臨が、いつなのか、どういう状態に来られるのか知らされていません。

 むしろ、わたしたちに知るのを許されていませんが、毎日の、仕事において、生活において、いたるところで、神の御支配が完全になるように、祈りつつ、主がもういちど来て下さり、再臨において、み国が再建されるための備えとして、主の栄光にふさわしく、自分の身の回りや家族ばかりでなく、世界のす

べてが整えられるように、いのり求めていきましょう。それがわたしたちに与えられた祈りの指針です。

 

(了)

2020年11月15日

「弱さが開く道」出エジプト記2:11-17     加藤正之 先生

<聖書箇所 出エジプト記2:11-17>

11  こうして日がたち、モーセがおとなになったとき、彼は同胞のところへ出て行き、その苦役を見た。そのとき、自分の同胞であるひとりのへブル人を、あるエジプト人が打っているのを見た。12 あたりを見回し、ほかにだれもいないのを見届けると、彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した。13 次の日、また外に出てみると、なんと、ふたりのへブル人が争っているではないか。そこで彼は悪いほうに「なぜ自分の仲間を打つのか」と言った。14 するとその男は、「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか」と言った。そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知れたのだと思った。15 パロはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜し求めた。しかし、モーセはパロのところからのがれ、ミデヤンの地に住んだ。彼は井戸のかたわらにすわっていた。

16  ミデヤンの祭司に七人の娘がいた。彼女たちが父の羊の群れに水を飲ませるために来て、水を汲み、水ぶねにみたしていたとき、17 羊飼いたちが来て、彼女たちを追い払った。するとモーセは立ち上がり、彼女たちを救い、その羊の群れに水を飲ませた。

 

<説教要旨>

 赤子モーセの殺害は、母ヨケベデには忍びなく3か月間だけ隠しますが、限界と なり、モーセを川に放ちます。しかし、こんな時エジプトの王女が水浴びに来て、赤子の泣く声を聞くとは。モーセに手を伸べます。ミリヤムの機転によって王女の息子として、しかも実の母親を乳母として、モーセを救うことになるのです。イスラエルの民の指導者にふさわしい人として3人の兄弟姉妹はヨケベデに立派に育てられていった(民数記26:59)。モーセとアロンとのあいだには3歳の差だけです(出エジプト記7:7)。しかし、モーセやアロンは、ミリヤムとの差は母親と子供ほどの差であった。しかし、それぞれが三人三様の別々の道を歩ませるのです。

 

 今、成人してエジプト人に苦しめられている同族の民を助けたくて、モーセはエジプト人を砂に埋めた。だが同族の民から訴えられてエジプト王に追われて、ミデヤンの地にたどり着く。これ以上逃げられない所へと神が追いかけて来た。同族のへブル人が私を訴えたので、その逃け延びたところで私をエジプト人だと人は言った。エジプト人を止めたくて逃げてここに腰を下ろしていたのに。若い娘たちが来て羊に水をやっている。すると羊飼いの男たちが来て娘たちを邪魔者としてあしらった。するとモーセは立ち上がり、彼女たちを救った。早く帰って来た娘たちを見て、娘たちの父親のイテロが、眼を大きくして「どうしてきょうはこんなに早く帰って来たのか」と、聞くと、娘達は「エジプト人が、私たちを助けてくれたから」と言う。モーセはエジプト人であることを止めることができなくなっているのかと思う。

 神様を信じたからと言って、試練がないわけではない。言東がなければ、摂理の愛を知るとは限らない。どんな困難にも確信を見捨ててはならない。そんな時こそ、神様が私の最も近いところにおられることを知る。忍耐こそ神の国の栄光の宝となる。何かにすがって他者になったと思い込んでいる。エジプト人の衣を脱げば良いのか、ただミデヤンの娘と結婚すればエジプトの過去はぬぐえるのか。それとも、エジプトと遮断するために、アカバ湾の通過点を過ぎ去ることか。

 どんなに神の愛があるからと云っても、困難の中で希望を失うこうとはないとは断言できない。失望してどん底にうずくまることがないとは言えない。しかし、そんな時にこそ、失望のどん底で支えておられるみことばの約束を知る。神は決して私を見捨てることはないと言う絶対的な永遠の御国の栄光を、永遠の御国の栄光に輝いていることを知るべしか。絶対的弱さに立つとは、永遠の神の前に自己の無力さを悟ることか。悟れないことを悟ることか。

2020年11月8日

「何処から来て何処へ」出エジプト記2:1-10     加藤正之 先生

<聖書箇所 出エジプト記2:1-10>

1  さて、レビの家のひとりの人がレビ人の娘をめとった。2 女はみごもって、男の子を産んだが、そのかわいいのを見て、三か月の間その子を隠しておいた。3 しかしもう隠しきれなくなったので、パピルス製のかごを手に入れ、それに瀝青と樹脂とを塗って、その子を中に入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に置いた。4 その子の姉が、その子がどうなるかを知ろうとして、遠く離れて立っていたとき、5 パロの娘が水浴びをしようとナイルに降りてきた。彼女の侍女たちはナイルの川辺を歩いていた。彼女は葦の茂みにかごがあるのを見、はしためをやって、それを取って来させた。6 それをあけると、子どもがいた。なんと、それは男の子で、泣いていた。彼女はその子をあわれに思い、「これはきっとへブル人の子どもです」と言った。7 そのとき、その子の姉がパロの娘に言った。「あなたに代わって、その子に乳を飲ませるため、私が行って、へブル女のうばを呼んでまいりましょうか。」8 パロの娘が「そうしておくれ」と言ったので、おとめは行って、その子の母を呼んできた。9 パロの娘は彼女に言った、「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私があなたの賃金を払いましょう。」それで、その女はその子を引き取って、乳を飲ませた。10 その子が大きくなったとき、女はその子をパロの娘のもとに連れて行った。その子は王女の息子になった。彼女はその子をモーセと名づけた。彼女は、「水の中から、私がこの子を引き出したのです」と言ったからである。

 

<説教要旨>

 時はヨセフのことを知らないエジプト王の支配(出エジプト記1:8)の時代にさかのぼります。

 王はへブル人の人口の増加を危険視して、重労働を課し生まれる男の子をみな殺すように命じました。こんな時に「レビの家のひとりの人がレビ人の娘をめとった。」とあります。こんな時に、こんな時代に。生まれてくる子供はこの世がどんな時でどんな時代かは知りません。自分の運命も分からない男の子が生まれました。しかし、「神の目にかなったかわいい男の子」(使徒の働き7:20)が生まれたとあります。

 このレビ人は(出エジプト記6:18-20)父の妹ヨケベデがアムラムによって生んだ子であり、その名がモーセとアロンであり、この二人の姉がミリヤムであった(民数記26:59)。この姉の機転によってモーセを乗せたパピルスのかごに瀝青と樹脂を塗って防水し、ナイル川に放った。そして、行方を見守った。この姉ミリヤムには弟に対する張り裂けんばかりの愛情があった。そして、この愛情が勝った。これこそ、「後の世の人達の救い」につながった。

 エジプトの高貴な王女(10節)に対するミリヤムの物怖じしない態度にも驚かされた。同時に母ヨケベデが単なる乳母ではなかった。実の母親であり、後にあのエジプトの王の権力と対決する人間として、モーセを育てあげた偉大な母親であった。人には人の名状しがたい人生があった私は何処から来て何処へ行こうとしているのかを思うことさえあった。何故この道を歩まなければならないのか…。しかし、どんな不安があっても、私たちの主は言われていた。「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ1:4)

神には失敗は無かった。いや神には失敗は出来なかった。