説教 2021年12月

2021年12月26日

「主を待ち望む」詩篇37:1-9   小高政宏牧師

<説教要旨>

 はじめに

 

 今年最後の主日礼拝となりました。今年一年を振り返りながら、新しい年に向けて、聖書から励ましをいただきたいと思います。皆様、今年一年を振り返り、どのような思いをお持ちでしようか。交わり会でお一人お一人にお話しして頂きたいと思いますが、今日は年末で忙しい時ですから、交わり会は行われません。新しい年になって、落ち着きましたら、新年の抱負と共に、お聞きしたいと思います。よろしくお願い致します。今日の聖書の個所は、自分の苦しい時の歩みを振り返り、どのように歩んだらよいかを教えていくところです。

 

 今日は三点を特に覚えたいと思います。

 まず第一は、自分の歩みを振り返る時、外側の成功や失敗よりも内面のことに目を向けることです。そうする時、失敗が大きな恵みへの備えであり、信仰者として一回り大きく成長していく機会であったことなどが分かります。第二は、私たちの人生にはどのような中にあっても神の守りと導きがあり、善を行うことができるということです。第三は、神の恵みを受けて信仰豊かな人はますます豊かになり成長することです。

 

1.自分の内面への問いかけ

 詩篇37篇は、ダビデが若い時、青春の全部と言ってよい長い期間、サウル王に追われて逃亡し続けた経験を背景に書かれたものです。自分の力だけではどうしようもない状況の中で、主に頼り続けることで生き抜いた。そして、突然のように王となる道が開けた。「主が成し遂げてくださった。」ダビデの逃亡生活は、ずっと苦しい時が続き、いつまでですか、と問い続けける時が続いた。一難去ってまた一難という苦しみの連続であった。しかし、突然のように王になる道が開かれた。そして、後に苦しい時を振り返ると、あっという間であったと感じられた。そして、成功の秘訣がなんであったかを人々に証し、苦しみの中で、主を待ち望んだことが大きな恵みを受ける備えであったことを教えています。 

 

 1 悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。

 

 ふつう大きな成功の秘訣といいますと、努力や忍耐を考えるのではないでしようか。ダビデの若い時の逃亡生活は、いつもサウル王に対する恐れと怒りがあったと思います。自分は何一つ逆らうようなことをしていない。すべて王のために役立っことをした。それなのに 自分は殺されそうになり、逃げ回らなければならない。恐ろしい、怖いという気持ちと憎しみの両方が心の中に渦巻いていた。そして、それに耐え続けた。不正を行うものに対して、ねたみを起こすなとあります。自分のみじめさを思うとき、平安に生きている人、楽をし得をしている人に対して、ねたむのがふつうの思いです。しかし、ダビデは自分があのつらく長い逃亡生活を守られたのは、腹を立てず、ねたまなかったからだと第一に語っています。

 

 これは、ダビデが一時の感情に支配されない大きな道を知っていたからできたことです。それは、主を第一とする生き方ができたからです。単なる処世訓ではありません。自分の内面を深く見つめることができたからです。神の前に自分は罪びとである。そのことを心底知っており、主はそういう自分を守ってくださると信じ続けたからです。

 

2.困難をチャンスとしてとらえ、善を行え

 2 彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように涸れるのだ。

 

 目に見えるところで考えれば、私を苦しめて得をしている人はずっと安全に栄え続けるように見える。しかし、悪者は草のように枯れてしまうのが事実です。ダビデは逃亡しているとき、サウル王がものすごく強く、絶対的なものに見えた。ところが、ペリシテ人との戦いに負けて、自分で命を絶った。

 私たちは、この肉の眼、この世の価値観で見れば栄えている人々であっても、信仰によってみるとき、悪者は滅びる、その栄えは一瞬に過ぎないということを信じなければいけません。私たちは主にあって永遠のものを信じなければならない。そうすれば絶望はない。悪を見て怒り、ねたむのではなく、主によって何をすれば良いかが示されます。ダビデは、逃亡生活のなかで、たくさんのことを学びました。

 

 そして、主が今できるようにしてくださっていることに心を向ける必要があります。それが善を行なうことです。悪者に腹を立てて、何もできなくなるのではなく、主のほうに目を向けて、今自分がすべきことを主から示されて、それを全力でしていく。

ガラテヤ6:9には、「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」とあります。

 

 3節では、「主に信頼し、善を行なえ。地に住み、誠実を養え」と勧められます。「地に住み」とは、その場から逃避することやすぐに天国の恵みだけを信仰の目標にする代わりに,へ こでの自分の生活の場を、主が与えてくださった場として積極的に受け止めることです。「地に足をつけた生活」という言葉がありますが、クリスチャン生活も同じです。ただその地を神が備え与えていることを覚える点が違います。

 

 「誠実を養え」と言われています。この「養う」とは羊を「飼う」というときの、羊を守り、世話をして育てるという意味の言葉です。「誠実」とは「真実」とも訳される言葉で、仕事をするように 主の前に正しいと思えることを黙々と実行していく心の在り方です。私たちは自分の誠実さを、羊を飼うようにはぐくみ育てる必要があります。カルヴァンのキリスト教生活綱要には、「神の前に日々自分を振り返り、自分は高慢であった。あの時は愛がなかった。忍耐がなかった。勇気がなかった。」というように、ふつう人が心に求めないようなことに対しても厳しく問い掛け、神の子としての品性を持つように、毎日自分を十字架につけて、ああ主よ、お許しくださいといのることを教えています。

 

 信仰生活における救いは、三つの面を持っています。ひとつは、主の十字架と復活によって罪を赦され、新しい人とされたことです。そして、二つ目は、救われた信仰者が神の子として神の国にふさわしく清められ成長していくことです。そして、最終的に救われ天国の栄光に帰っていく。第一の十字架と復活の救いは皆同じめぐみで、絶対確実なものです。しかし、第二の神の子としての成長はひとりひとり違う。その聖化の道は厳しいが、神の子としての成長のためには、なくてはならないことです。そして、ねたむことなく、怒ることなく耐えることができるのは、神の子だからです。

 

3.地を受け継ぐ

 このことが4節では別の観点から、「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」と記されています。

 

 私たちは何かの成果や結果を生み出すことを喜びとします。しかし、期待した結果がいつも出てくるとは限りません。しかし、すべての働きを、主に対する奉仕として受け止めることができるなら、主が願いをなし遂げてくださる。そして、この勧めに伴うすばらしい約束は、主が心の願いをかなえてくださる、ということです。そして、こういう主が守り導き願いをかなえてもらったという体験が神の子としての成長を大きくします。これは、自分のやりたいことを、自分のわがままもすべて神が聞いてくださる、ということではなくて、主を喜びとしている人々の心 に、主がこ自身の願いを置いてくださることを意味します。主と自分の心が一つになっていれば、自分がこれがよいと願ったことは、必ず実現してくださるということです。

 

 5 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる。

 

 主は、私たちの心の誠実さを見ていてくださるという確信がなければゆだねることは出来ません。主にお任せすると言うことは、自分で決めて行うのではなく、信頼して任せることです。それは「後は野となれ山となれ」のような責任放棄でも、「流れに身を任せる」のとも違います。最終的に自分のすべて、自分の魂を、主が救ってくださると信じてゆだねることです。ですから救い主を信じる信仰があってできることです。

 初詣でお願いする時には、こういう自分と神との関係はないし、ゆだねることもない。どこまでも自分中心で神は自分への奉仕者であって、主ではない。

 

 人があなたを誤解し、非難するようなことがあったとしても、神はあなたの心の内側を正しくみてくださる。だから必要なことは、「主の前に静まり、耐え忍んで主を待っ」ことです。物事が思い通りに進まない時に何よりも大切なのは、「主の前に静まる」ということです。しかも、そこで求められていることは、すぐに、主からの答えや慰めが来ることを期待することではなく、何の変化も起きず、何も見えないなかで、なお黙って、主の答えを待ち続けるということです。先のことが見えない中で、主の答えを待っということが、「待つ」ということです。そして、これらの勧めを守り行なっている人に与えられる約束が書かれています。

 

 6-9 主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。主の前に静まり、耐え忍んで怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。

悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。

 

 「地を受け継ぐ」というのは、この世界で繁栄し、ずっとそれが続くと言うことです。しかし、この世のことだけでなく最終的には、地というのは、天国のことです。私たちは信仰者として恵みを受けますます成長し豊かになります。そして、神の子として天国の栄光を受け継ぐのです。この詩篇を読むときに、不思議な慰めと希望が生まれます。これこそすべての信仰者にとっての最高の慰めと希望です。

 

 今年一年の恵みを感謝し、新しい年の恵みをお祈りいたします。

2021年12月19日 クリスマス礼拝

「野の羊たちの喜び」ルカの福音書2:8-20   小高政宏牧師

<説教要旨>

 神様の独り子主イエス・キリストは、人間として、母マリヤからこの世にお生まれになりました。ローマ帝国の命令で住民登録をするために、ヨセフと共にユダヤのべツレヘムに行きました。しかし、宿屋がいっぱいだったので馬小屋で生まれました。生まれたみどりごイエスは布にくるまれ、飼い葉桶の中に寝かされていました。今日は、この誕生の出来事が、最初に羊飼いたちに伝えられたことから学びたいと思います。

 私たちが野の羊飼いの思いとなって、大きな喜びを受け止め主の誕生をお祝いしたいと思います。主イエスの誕生は、この世の片隅において起った出来事です。ユダヤの人々は喜び祝うどころか、そのようなことが起ったことを誰も知りませんでした。誰からも顧みられない中で主イエスは生まれました。飼い葉桶に寝かされたということがそれを示しています。主イエスの誕生は、母であるマリヤと夫ヨセフ以外の誰も知らない出来事となったはずです。しかし神様は、野の羊飼いを選び、この出来事とその意味を知らせました。

 

1.なぜ羊飼いが選ばれたのか

 生まれたばかりの赤ちゃんが、旅先の馬小屋で飼い葉桶に寝かされている。なんとも貧しくさびしい状態です。そこに羊飼いが来て、お祝いした。羊飼いは何日も野原で過ごしていますから、それこそ垢と埃だらけの汚い姿です。外側のきれいさ、形に表された豪華さなどどこにもない。しかし、救い主イエスの誕生を最初に知らされたのは、羊飼いたちです。なぜ羊飼いが選ばれたのでしようか。そのことを知ることによって、クリスマスをお祝いする姿勢が分かります。

 

 ルカの福音書は旧約聖書を知らない異邦人のために書かれた福音書です。異邦人にとってあまり羊飼いはなじみのない存在です。それなのに羊飼いが登場し、反対にマタイの福音書はユダヤ人のために書かれた福音書なのに、東方の博士たちが登場します。それは、異邦人に羊飼いの姿勢を、ユダヤ人に東方の博士たちの信仰の姿勢を知ってもらうためです。特に異邦人が羊飼いの姿勢を知るのは、信仰の長い伝統の中で失われずにあった原点に心を向けるようにとの配慮です。

 

 イエスの生きておられた時代に、「羊飼いという仕事」は、アブラハム、モーセ、ダビデの生きていた時代にあったような誇りはなくなっていました。ユダヤの国では羊飼いの立場は昔とは全く違ったものになっていました。

 アブラハムとロトが分かれるとき、甥のロトは低地を選び羊飼いから商人となり、さらに都市国家の有力者となり、この世の成功を求める道を選びました。しかし、アブラハムは山地のやせた土地で羊飼いを続けました。それはこの世を旅人として生きるためです。エジプトで総理大臣のような地位についてョセフに招かれたヤコプは、一族がエジプトで地位と富とを与えられる機会がありました。しかし、中心部から離れた土地で羊飼いとして生きる道を選びました。ダビデも羊飼いでした。羊飼いと信仰は深いつながりを持っていました。

 羊がほかの動物より優れたところは、従順だという点です。羊は羊飼いの声を良く聞き従うことで守られました。羊飼いは語りかけてくださる神のみ声に聞くことができる者の代表でした。

 

 イエス様の生きた時代には、羊飼いは貧しい子供たちの仕事でした。その子供たちは、律法を学ぶ機会がなく、証人になることができないなど市民的な権利が認められませんでした。信仰生活がきちんとできないので、信仰的に劣る者とされていました。しかし、彼らは神の目から見たとき、旧約聖書の預言を受け止めるものとして一番ふさわしい人たちでした。神の目には豊かな信仰的な資質を持つ人たちでした。今日の聖書箇所にはそんなことは書いてありませんが、罪人を救うために来られた神の子の誕生を聞くのに一番ふさわしかったのです。

 

 また、べツレヘムで飼われていた羊は、過越の祭りのために使われるものでした。その羊は、傷や欠陥がないものでなければなりません。そのため、べツレヘムという場所で、大切に育てられました。イエスは過越の祭りでいけにえの羊がほふられたように、エルサレムで十字架につけられました。そして、べツレヘムで過越の子羊が生まれ育ったように、主イエはべツレヘムでお生まれになったのです。ですから、べツレヘムの羊飼いたちに、イエスの誕生が知らされることは、大きな意味があったのです。それは信仰者の原点といってよい「心の貧しさ」を持っていたからです。だから、神はこの羊飼いを、イエスの誕生の出来事を最初に見る証人とされました。

 羊飼いたちは、貧しいもの、病める者、苦しむ者、しいたげられた者など弱い者の代表です。主イエスがこの世に来られたのは、こういう人たちの救いのためです。彼らには、何一つ先入観がありません。宗教的な立場に縛られません。律法学者や祭司のように権力者を恐れることもありません。ただ羊を飼って日々の糧を得て暮らしているにすぎません。

 「神は知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。(中略)有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」(Ⅰコリント1:27-28)

 キリストは誕生のときから、低い者の救い主だったのです。

 

2.羊飼いたちの応答 

① 御使いの声を聞く

 羊飼いたちは、語りかけて下さる御使いのみ声を聞くことができました。モーセはパロの

娘の子として王宮で最高の学問を学んで育てられましたが、王の一族の一人としてではなく、羊を飼って40年過ごしました。そして、ある日ホレブの山にいったときに神のみ声を聞きました。

 主イエスの誕生のとき、羊飼いたちは「野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。」そこに、主の使いが来て、主の栄光が回りを照らしました。羊飼いたちは、ひどく恐れます。なぜなら、天国の栄光の前に、自分たちは穢れた喪のと持っていたからです。しかし、10節「御使いは彼らに「恐れることはありません。今、私はこの民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」」

 羊飼いたちは、神様との出会いを求めていたわけではありません。当時のユダヤの人々と同じように、主なる神あったわけではありません。

 そのような羊飼いたちがある日突然神様によって選ばれて、語りかけられた。それは驚きであり、戸惑いであり、迷惑な話でもあったでしよう。しかし、主の使いは、恐れ戸惑う彼らに 喜びを知らせに来ました。この「喜びの知らせ」というギリシャ語は、「福音」と同じです。

 11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。

 恐れが喜びとなって、飼い葉おけに寝ておられるみどりごである救い主を見に行くようになった

 

② 招きに応じる

 夜中に、馬小屋で赤ちゃんが生まれた。飼い葉桶に寝かされている赤ちゃんが、長い間ユダヤの国の人たちが待ち望んできた救い主だ、と言われても、信じて見に行く人は行かなかったと思います。メシヤはダビデのような立派な王様であるとみんなが思っていたからです。クリスマスにもっと楽しいものがあるところに誘われたら、喜んで行くでしよう。しかし、誰も信じないようなことを信じて、羊飼いたちはみんなで相談して、さあ行こうと言う事になった。

 羊飼いたちは、「急いでいきました」。

 

③ 讃美する

 羊飼いたちはどのような言葉で神様をあがめ、賛美したのでしようか。それを示しているのが、14節の、天の大軍による賛美の歌です。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」自分のための救い主が与えられたというしるしを示された羊飼いたちは、この天の大軍の賛美の歌に声を合わせたに違いありません。 

 「天においては神に栄光、地においては人々に平和」という賛美は、主イエス・キリストによって実現する神様の救いをほめたたえる者です。神様の独り子イエス・キリストによって、神様の栄光が、そのご支配が示され、実現するのです。神様の栄光が現れる時、羊飼いたちがそうであったように、罪人である人間は恐れないではおれません。神様の栄光とご支配は、罪人の裁き、滅びを意味するからです。

 しかし神様は、独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって、すべての罪を全て赦し、滅びではなく永遠の命の約束を与えて下さったのです。神様が私たちとの間に、罪の赦しという平和を打ち立てて下さったのです。この平和が「御心に適う人々にあるように」と言われていますが、罪人である私たちは誰も、「御心に適う人」ではありません。その私たちを神様は、主イエスの十字架と復活によって赦し、「あなたは私の心に適うものだ」と宣言して下さったのです。私たちがどういう人間であるかによってではなく、独り子の命を与えて下さった神様の愛によって、私たちは「御心に適う人」とされ、神様との間に平和を与えられているのです。神様との間に与えられたこの平和によって私たちは、人間どうしの間にも平和を築いていくための努力していくことができます。地の平和がそこに与えられていくのです。主イエス・キリストの十字架と復活こそ、天における神の栄光と、地における人々の平和を結びつけ、実現していく救いの恵みなのです。

 

④ みことば通りであることを見て、それを人々に知らせた。

 もうーつのことに注目したいと思います。17節に、「それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。」とあります。

 そして18節には、「それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。」とあります。飼い葉おけに寝かされている乳飲み子を見るという、彼らが共に体験していることが、あなたがたのための救い主の誕生のしるしであると告げたことを聞いた人々は驚き、そのしるしをどう受け止めたらよいのかと戸惑いました。

 羊飼いは、社会的な信用がない人々でしたが、当時の常識では受け入れられない、救い主の誕生を伝えました。羊飼いたちが聞いた天使のみ声は再現できませんし証拠もありません。しかし、伝えました伝道は、自分の人格がしつかりしており、人から信用されているときだけできるのではありません。キリスト教の十字架や復活の不思議な教えは伝えにくく、うまく説明できないことです。しかし、羊飼いたちは伝える者となったのです。

 

⑤ キリストを礼拝した後、「神をあがめ、また賛美しながら」帰っていきました。

 地に足をつけた生活へと、働きの場に戻った。それは当然でしたが、「神をあがめ、賛美しながら」帰りました。当時、だれがこの様に神をあがめることができたでしようか。この時の羊飼いのように賛美することができたでしようか。社会全体が希望を見失い、日々の生活の厳しさに耐え切れないようになっていたとき、それを打ち破る光を見たのです。そして、神をあがめ、賛美したのです。神との正しい関係に立ったとき、仕事も人生も祝福されます。羊飼いはどんな祝福を得たのでしようか。

 マタイの福音書5 : 3「心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人のものだから。」とありますが、羊飼いたちは心の貧しいものとして、天の御国を自分たちのものとして信じたのです。

 

 お祈り

2021年12月12日

「マリヤの讃歌」ルカの福音書1:46-55   小高政宏牧師

<説教要旨>

 はじめに

 

 マリヤについて、みなさんはどのようなイメージを持っているでしようか。ふつうマリヤは、優しく、従順な、祈り深い女性、清純、謙遜、奉仕などのクリスチャンの品性を備えた女性の代表というイメージがあります。それは教会の公式の教えではないにしても、教会の歴史の中で定着したものです。プロテスタント教会は、カトリックのようにマリヤを神の子の母、無原罪で特別な存在と認めません。しかし、マリヤの信仰については、プロテスタント教会でも認めています。

 きょうの聖書箇所は、のマリヤの賛歌として有名なところです。「信仰告白」の模範だと言われています。マリヤは自由に自分の率直な思いを歌っていますが、その思いは、旧約聖書の信仰の女性たちの思いと一致しています。そして、すべての信仰者の思いを代表するものだからです。

 

 マリヤは自分が救い主の母になるという御使いガプリエルの言葉を聞いた時、決して恐れたり、疑ったり、不満をぶつけたりしませんでした。理解しようとして質問し、喜んで受け入れました。そして、同じような主の恵みを受け、年老いてバブテスマのヨハネの母となったエリサべツを訪問しました。その交わりの中で、この歌ができました。マリヤは、まだ結婚もしていないのに、なぜ妊娠をしているのか、姦淫の罪を犯したのか、そういう疑いの目にさらされ、村全体からの冷たい視線の中にいます。神様の特別な御業によって妊娠したのですが、周りの人々には、理解されません。そのような中で、マリヤは主を讃美しました。マリヤ自身、決して主の御業の全てを理解できているわけではありません。これから主が何をしようとしておられるのか、どのような仕方で導いてくれるのか、分からないことだらけです。それでも、マリヤは主の御業を崇めました。いや、崇めることができるように導かれたと言うべきかもしれません。

 

1 .自分に起こった不幸の受け止め方・・・自分を小さく神を大きく

 マリヤの賛歌は、初代教会において初期の頃から歌いつがれてきた賛美歌だと、言い伝えられています。マリヤの賛歌は「マグニフィカート」と言われます。「マグニフィカート」という言葉は、ラテン語で「あがめる」という意味です。語源は「大きくする」という言葉です。ギリシャ語ではメガルノーという動詞ですが、「メガ」というのは、「大きい」ということです。「メガフォン」などの「メガ」です。「マグニチュード」という地震用語なども、この「マグニ」から来ています。

 つまり「あがめる」というのは、相手を大きくすることなのです。自分よりも大きくするのです。私たちは、信仰をもっていると言いながら、自分を大きくしようとしたり、見せかけたりすることがあります。しかし、信仰は神を大きくし、自分はヘりくだり、大きくしたり、飾ったりしないようにすることです。

 46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。

 

 この言葉は、心の底からの喜びの告白です。孤独も不安も恐れも乗り越えたところから出てきました。それはマリヤが、神様を大きくし、自分を小さくしたから出てきた思いです。それからまた、マリヤの賛歌は、親戚の祭司の奥さんであったエリサべツとの交わりの中で歌われました。ェリサべツは年老いてから、バブテスマのヨハネの母となった女性です。彼女との信仰の交わりの中からできた賛歌です。人々の疑いと裁きの目の中にあって、信仰の交わりは、苦しみを半分に、喜びを倍にします。主の恵みは分かち合うことで、お互いを高め、励ますものです。

 

 今は不平が多い時代と言われます。多くの人はかなり恵まれている立場にあっても、感謝よりも不満のほうが多い。それは、たましいや霊において、神の顧みを知らないからです。マリヤの賛歌には『主』とか『神』とか、そういう言葉がたくさん出て来ています。マリヤは自分でも不思議だったと思います。なぜ、私が選ばれたのか、皆目見当がつかない。実際、マリヤは、イスラエルの国の中でも、異邦人のガリラヤと軽蔑される北部地域の、更に片田舎のナザレという村に住む、10代の田舎娘です。どこにでもいるような平凡な村娘でした。少なくとも、メシアの母に相応しいとはふつう考えられたようなものは、なにひとつなかった。マリヤ自身、もし、メシアの母として選はれるべきならば、神の都エルサレムの、王侯貴族の人たちが選ばれるはずだ、と信じていたことでしよう。しかし、神様はメシアの母としてこんな私を選んでくださった。そして、喜んでいます。

 

2.力ある方が大きなことをした、主を恐れかしこむ者に恵みは及ぶ 

 しかしマリヤはここで、自分は神様のはしためです、とへりくだっているだけではありません。

49 力ある方が、わたしに大きなことをしてくださった。

 神様のみ前で低い者、卑しいはしためでしかない自分が神様に選ばれた。その偉大な力によって用いられて、神様の恵みのみ業を担う者とされた。マリヤはそこに自分の幸せを見ています。

 マリヤはエリサべツとの三か月の交わりの中で、救い主の母となることがどんなにすごいことか、理解していったのです。マリヤは、神を「力ある方」として言っています。賛美は、神がすでに良いことをしてくださったことを思って、自然に発生してくるものなのです。神がこんなに大きなことを私の生活にしてくださった。神がこんなに良くしてくださった。そう考えていると、このマリヤのように、たましいから、霊から、神をほめたたえるようになります。

 49 その御名は聖く、50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。

 この代々に及ぶあわれみとは、何なのか。 、ここには詳しいことは書いてありませんが、旧約聖書を踏まえて読むと、イスラエルの人々がずっと待ち望んできた「救い」だということが分かります。人は救いがどういうものか分からないとき、自分の願いの実現、苦しみがなくなる。狭い判断で、お金であったり、地位や名誉であったり、この世の成功や安定であったりします。しかし、それは一時的な幸せに過ぎません。その恵みが次の不幸や失敗を生み出す原因になっていきます。何が救いか、旧約聖書の時代に人々は求め続け、神は救い主が与えられることを預言されました。それは、イエス・キリストの十字架の死によって、罪を許され、神の子とされ、天の故郷に帰るにふさわしく成長するが救いです。永遠の命、天の御国の栄光を与えられることが最終的な救いです。

 

3.私たちも「幸いな者」に

 さてマリヤは自分に神様が目を留めて、恵みのみ業のために用いて下さることを喜び、感謝して、神様をほめたたえています。そしてまた、彼女が歌っているのは、自分の幸いだけではありません。マリヤの賛歌は、イスラエル共同体にとどまらず、すべての人にとって実現した主のみ業を語っているのです。自分に与えられた幸いが、これからも、神様を信じて生きる多くの人々に与えられていくことを語っているのです。マリヤだけではなくて、神様を信じて生きる信仰者たちは皆、「幸いな者」となるのです。「今から後、いつの時代の人々も、わたしを幸せ者と言うでしょう」というのは、マリヤのことが「幸いな者」として記憶されるというだけではなくて、今から後、いつの世にも「幸いな者」が現れる、その人々が、自分たちが受けている幸い、その喜びに最初にあずかった人としてマリヤのことを思い起こす、ということです。つまり私たちが、マリヤと共に幸いな者となるということなのです。マリヤの賛歌を読むことの意味はそこにあります。マリヤの信仰に感心しているだけでは、不十分なのです。私たち一人ひとりも、「わたしの魂は主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」と歌いつつ生きる者となることが、この賛歌の歌われた目的なのです。

 

4.悲しみ不幸が恵みに変わる聖なる逆転を信じる

 51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、52 権力ある者を王位から引き下ろされます。低い者を高く引き上げ、53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。

 マリヤが生きている時代は、主の救いのみ業が実現しているとは言えません。反対に高ぶった者がはびこり、権力ある者が力を握り、身分の低い者は虐げられ、飢えた人はいぜんとして飢えたままで、富める者は贅沢なものを腹いつばい食べていたことでしよう。主の救いのみ業がとても実現しているとは思えません。そのような中で、マリヤは主の救いがすでに実現したこととして歌うのです。この世と来るべき世では、価値も立場も全く逆転すると言われています。そのことを、マリヤは身をもって体験したのです。神の恵みを信じる信仰によって、この世の苦しみも不幸も恵みへと逆転するのです。神様が世の終わりにもたらしてくださる新天新地においては、この世のものは無意味なものとなり、失われてしまいます。そして、神の恵みがはっきりと目に見えるように現れます。信仰の恵みによって、身分の低い人々や飢えている人々が救われる世界が実現するのです。神様とその真理を必死に求める人こそが、その宝物を手にすることができるようになるのです。

 

 マリヤは世間の厳しい目の中で、孤独となり打ち砕かれて、人々の目からは隠されている真実を見ました。確実に主によってこの世に逆転が起こる。その主の御業に 目が行くように導かれたのです。それは、ただ単に、この世の終わりにイエス様が再臨される時にようやく実現するというのではありません。今この時から、自分に始まっているのです。そういう意味で、マリヤの賛歌は、イエス様を産む前のマリアの讃美であると同時に、多くの年月を重ねて老人となった時の、マリヤの歌でもあると思います。初代教会が20年、30年と年輪を重ねていく中で、マリヤもまた決して使徒ではありませんでしたが、イエス・キリストの証言者として、各地でイエス・キリストのことを証ししたに違いありません。特に、後からクリスチャンになった人たちは、もう老齢となったマリアの話を、大変興味深く聞いたと思います。マリヤは長い信仰生活の中で、繰り返し、その主の御業、教会の頭なるイエス・キリストの確かな御業を証ししていったことと思います。

 

 私たちも、神を大きく、自分を小さくし、救いを実現した下さった神が自分を選び 自分を用いてくださることを喜びたたえ、クリスマスをお祝いするようにしたいと思います。私たちはお互いの重荷を担い合いながら、主のおっしやったことは必ず実現すると信じ、神への賛美を、マグニフィカートをマリヤと共に歌いたいと思います。

 

 お祈り

2021年12月5日

「救い?救い!」列王記 第二5:1-15   岩崎光男神学生

<説教要旨>

 説教箇所の紹介

 皆さんおはようございます。今日の聖書箇所は旧約聖書にある列王記第二という書物です。今日の箇所には神様の民と言われるイスラエル人ではない外国の軍のリーダーが登場します。彼は軍のトップなので経済、物質的にも豊かで権力があり何の不自由もなく生活できたでしよう。しかし彼にはどうすることもできない大きな大きな苦しみをかかえていたのです。その苦しみとは?そしてその苦しみはどうなったのでしようか?実は神様にとっては彼の苦しみだけではなく別のもっと大切なことがありました。

 

 イントロ

 私たちは生活をする中で様々な苦しみがあります。幼い子どもであれば、苦手な食べ物を食べなけれはいけないことが苦しみかもしれません。学校に行っている人であれば宿題が苦しみと感じる人がいるかもしれません。他にも家族・友人・職場などでの人間関係、経済面、健康面など苦しみを経験された方がおられるのではないでしようか。私自身の過去にあった人間関係の苦しみをお話します。高校卒業後は別の学校に編入しました。クラスに馴染めず友達を一人もつくることができず孤独な時期がありました。また大学卒業後は、保育園で働きました。そこで上司から毎日のようにきついことを言われ、仕事に行くことがとても苦痛でした。これらはとても苦しい、辛いことであり、自分ではどうすることもできないことでした。

 

 私たちには自分だけでなく人のカであってもとうすることもできない苦しみがあります。

 

 聴衆にリンク

 そのようなことを経験された方がいるかもしれません。またもしかしたら今まさにそのような状況の中を歩んでいる方もいるかもしれません。それらは自分でも人のカでも多少のことはできたとしても解決するにはどうすることもできず不安や恐れがあり希望をもつことが難しいです。

 

 <例話>

 私は別の会社で仕事をしていた頃、また人間関係で苦しみを経験しました。入社して早々、チーム内の上司から悪口を毎日のように言われ、仕事に行くことがとても苦痛でした。私はこの苦痛を率直に神様にぶつけました。なせこのような人が私の上司なのかと不満さえもぶつけました。しかしある日、その上司の上司から声をかけられ別のチームに移動することができ、新しいチームではとても良い人間関係に恵まれました。神様は不満をぶつける私にさえも苦しみから助けを与えてくださいました。

 

 例話の要約

 神様は、どのような苦しみの中にいても苦しみを知り、 関わってくださいます。だからこそ、神様を信じていきましよう。

 

 <適用>

 皆さんは今、どのような苦しみを抱えておられるでしようか。

 神様は皆さんお一人ひとりの苦しみを知っておられます。皆さんはその苦しみや感情を正直に神様に祈ることができるかもしれません。聖書を読むことかもしれません。そうすることで苦しみに目や心を向けるのではなく神様を信じましましよう。神様は皆さんのその苦しみに関わってくださいます。

 

 メインポイント1の要約

 神は苦しみを知り、関わってくださる方だから信じていきましよう。

 

<T>でも神様は私たちの苦しみから助けてくださるだけではありません。苦しみから助けるだけであれば、場合によっては人でもできることがあります。

 

 メインポイント2

 2)全世界の神様は苦しみの時、私たちを罪から救ってくださる方です。だからこそ私たちは神様を信じるべきなのです。

 

 説明

 ナアマンはツアアラトが癒されただけではありませんでした。

 15節を見てください。

 そこで、彼はその一行の者を全部連れて神の人のところに引き返し、彼の前に来て、立って言った。「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。(15)

 ナアマンは聖書の神様を信じていない国に住んでいました。11節、12節を見ると彼は癒されるためにたくさんの高価な物を持ってきたにもかかわらず、「私に直接触らないどころかただ川に入れ、というのか」と怒り、とても傲慢で神様を侮辱しています。そんなナアマンは癒された後は、180度入れ変わり、聖書の神様こそが真の神様であり、17節では「主以外のほかの神々に全焼のささげ物やいけにえをささげません」と言っています。つまり聖書の神様だけを礼拝すると言っています。神様はナアマンの傲慢さ、不信仰という罪から救ってくださいました。神様を信じない者から礼拝者へと彼の人生が変わりました。

 

 説明の要約

 だからこそ、私たちも神様を信じて神様のみを礼拝していきましよう。神様は全世界の神であり、私たちの罪から救ってくださる方です。

 

 <例話>

 先ほど私の経験談の続きですが、この時、私もただ人間関係の良いチームに移動できたことだけではありませんでした。この経験の中で私も神様に助けを求めるのではなく、不平不満を言い、自分は被害者であって悪いのは上司だと決めつけていました。しかしチームが変わってから冷静に考えてみると、私こそ上司にクリスチャンとして愛の行動、思いは全くなく、神様を信じていない罪人だと気づかされました。そのことを神様に悔い改め、上司にも謝罪しました。そして仕事中も祈ることを始めました。神様はこの苦しみを通して私を悔い改めに導き、罪から救い、神様を礼拝する者へと変えてくださいました。

 

 例話の要約

 神様は全世界の神であって私たちの罪から救ってくださる方だからこそ、私たちは神様を礼拝しましょう。

 

 適用

 もしかしたら皆さんの中には今、苦しみの中にあって神様に不平不満を言って神様を信じられない方がいるかもしれません。周りの人に対して愛のない行動をとってしまっている人がいるかもしれません。私もその一人で苦しいことがあればすぐ不満や人のせいにしてしまいます。神様はそのような中にあって皆さんを罪から救い、神様を礼拝する者へと変えてくださる方です。神様との関係、周りの人たちとの関係を振り返ってみませんか。そしてこの神様を信じてみませんか。

 

 私たちはどんな苦しみの中にあっても、神様はその苦しみを知って助けてくださり、さらに私たちを罪から救ってくださる方です。だからこそこの神様を信じてしていこうではありませんか。

 

 キリストへ

 ここでイエス様に目を向けましよう。イエス様は全世界の王です。そのイエス様は苦しみの中にある人々にどのように関られたでしようか。当時、嫌われていたサマリア人しかも社会的に地位の低かった女性と関わりました。また嫌われた取税人、長血や盲人など健康上の苦しみを抱えていた人々に関わられました。しかも全世界の王であるイエス様の方から彼らに近づいて行かれました。苦しみの中、また罪人たちを助け救うためにご自分から近づいてきてくださるのです。そして私たちを完全に回復させることができる唯一のお方です。たとえ外国人であってもナアマンのツァラアトを癒すことも、彼を罪から救い礼拝者へと変えられたという彼の救いも王としてのイエス様のご支配の中にあることでした。私たちはこのイエス様を知っているからこそ、これからも神様を礼拝して歩むことができるのではないでしょうか。

 

 結論

 今日の説教タイトルは「救い?救い!」としました。最初の「救い?」とはナアマンのツァラアトという苦しみからの救いです。

 神様は全世界の神であって彼のこの苦しみからも救われました。確かにこれも救いと言えるでしょう。しかし神様にとっての救いはこれだけではありません。癒される前のナアマンは神様を信じず、怒り、傲慢な態度をとって罪の中にいました。しかし、神様はこの罪からも救い、彼は真の神様を礼拝する者へと人生が180度変えられました。これこそ神様の救いです。

 そしてイエス様は全世界の王であるにも関わらず、イエス様から私たちに近づき苦しみと関わり、救ってくださいます。私たちもさまざまな苦しみの中を過去に歩み、現在まさに歩んでいる人、そして今後も歩むことがあるでしょう。そのような時、イエス様に心を向けてみてください。イエス様は皆さんの苦しみをご存じで私たちを救い、礼拝者へと変えてくださいます。お祈りします。

 

 祈り

 神様、あなたは全世界の神様です。私たちは苦しみの中であなたを信じず、傲慢になってしまうことがあります。どうぞ赦してください。神様はそんな私たちを苦しみから救うだけでなく、罪からも救ってくださる方であることを感謝します。どうぞこれからの歩みの中で苦しみの時も、神様を信じ、あなたを礼拝していけますように。