説教 2020年12月

2020年12月27日

「主の祈り④み心、天でも地でも」マタイの福音書6:10     吉井春人 先生   

<聖書箇所> マタイの福音書6:10 

10 みこころが天で行われるように地でも行われますように。

 

<説教要旨>

 ギリシャ語原文では、「御心がなりますように。天でも地でも」

 非常にシンプルな表現です。

 それにしても、「み心」ということばは、あたりまえですが、クリスチャン用語であり、世間一般で通用することばではありません。信仰のない人たちとのコミュニケーションではつかうことができないのです。

 一方で、お互いがクリスチャンの場でも、「み心」という言葉について、「主の名をみだりに唱えてはならない」とモーセの十戒にもあり、御心という言葉をつかうことひとつをとっても、聖書の知識や信仰と敬虔さに裏打ちされていることを求めておられるのでした。

 

 主の御心がなされますと願うとき、御心がおこなわれる天と地においては区別や差がありません。つまり、天では完全にみ心がおこなわれているけれども、地上で御心がおこなわれることは希だという意味ではなく、いつでも、どういう場合でも、御心がおこなわれているという意味なのでした。

 

 天地創造は、全部が御心において作り出されました。

 光があるように願われたから、光ができたのであり、主が、人が造られるように願ったから、人は男と女に造られたのでした。

 いえ、むしろ、主のお考えなしに何事も起こりえないというのが聖書の教えであり、全知全能の主が、髪の毛を数えておられるとか、一羽のすずめさえ、主の許しがなければ地に落ちないなどといわれ、使徒パウロは、「私たちは、神の中に生き、動き、存在している」と語っているのでした。

 全部、人が何を願うか、何を望むかと関係なく、世界のどこにも、御心において働いていない場所はないのだとしたら、つまり、人が願うところや願わないところと関係なく、御心が働いているのに、なぜ、「御心がなりますように」と祈るべきだと教えられているのでしょう。

 原文を意訳すると、「あなたの御心が天でおこなわれているように、わたしたちが住んでいるこの地上でも、御心がなされますように」となります。

 

 主が御心を地上でおこなわれているとわからせないのは、内側に残っている罪の影響からきているのです。

 全く罪がない天国においてなら、どんな障害もなく、主の心がわかるはずです。

 

 私たちが願っても願わなくても、休みなく心臓は動いています。心臓が止まるのは、主のゆるしによって、私たちが地上の生涯を終えて、死の時がもたらせられたときでしょう。

 ですから、主が天でも地でも、ご自分の御心をおこなわれるとき、わたしたちが願うということは必要ありません。

 いったい、わたしたちの願いとは、主のみ業が引き出されるための「引き金」のように働くのでしようか。

 

 決して、そういうことはありません。

 むしろ、使徒パウロによれば、

 

 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。 ピリピ人への手紙2:13(共同訳)

 

 主にある願いをお与えになるのも主であり、それを実現させるのも、自分ではなく神であるというのです。

 それにも、かかわらず、私たちに教えられた祈りのなかに ご自分のみ心を尊び、み心が行われてるようにいのり求めさせておられるのだとしたら、私たちを救いに召されているお方が、私たちに、主にある勝利と、勝利によって与えられる栄光を預からせたいと願っておられるからではないでしようか。

 

 それでは、地上でみ心がおこなわれていると、わたしたちに確信があるでしようか。

 

 主に祈りかたを教えていただける前は、弟子たちにも「困ったときに神に頼む」「万事休す」万策尽きたとき、神仏に祈り求めるというところに留まっていたと思われます。

 困ったときに主により頼むのであり、クリスチャンになったとしても、それは同じです。毎日、祈っていたとしても、あるときは、特別な祈りとして願い事を捧げるのです。

 聖書記事に紹介されている、主と出会った人たちには、病を癒やしてもらうために来た人が非常に多かったでしよう。

 わたしは、主は、そのような自分勝手とみえるような願いにでも、耳を傾けられると確信しています。。

 ところが、「困ったときに神に頼む」に潜んでいる問題は、困っているときには、神により頼むのに、実現してしまうと、感謝もしないという神さまにたいしての恩知らずを平気でおこなってしまうところでしよう。

 そして、願いが実現した暁には、神様からの賜物であることをすっかり忘れて、自分の栄誉だと勘違いしてしまうところがみられるのです。

 創世記によると、バベルの塔を作ったニムロデという漁師は、最初は、「すべて、主のおかげだ」と語り、周囲の人も、そのように語っていたようです。

 ところが、いつのまにか自分の栄誉や権力を、自分のものであると思い込んでしまったようです。ニムロデが神のことを忘れていたわけではないでしよう。ところが、実際に権力をもってしまうと、自分が神であるかのように何でもできると勘違いしてしまったようです。

 極端な例ですが、キリストを殺害するために、学者たちから聖書を学んだヘロデのような聖書の読み方はしないまでも、主に喜ばれる祈りが与えられるため、まずは御心を悟れるように、祈るべきではないかと考えます。

 御心と一つになった祈りがあり、同時に、主のみ前に主の御心にかなわない広さがあるということも、知らされている必要があるでしよう。 

 

 地上の豊かさを与えるのは、主のみ業です。それゆえに、貧しさもまた、主からの賜物であると教えられています。

 地上の豊かさは、「御心が実現するように」より、自分の野心のために、主の名の傘のもとに身を寄せるようになります。貧しさは、主の憐れみのみ心を追い求めさせるのですが、主が何を願っておられるのかより、祈りを自分の願いを実現するために開かれた道だと考えてしまい、必要がなければ祈らず、主に感謝も捧げないようになります。

 

 主の御心を追い求める祈りとは、いつも罪との闘いを伴うのです。

 ニムロデの場合は、御心が実現するようにではなく、自分の願いや自己実現のため 「御心」を開くように願っていたのでした。

 主は、もともと罪深く、不完全な人にたいして、罪から解放された完全な祈りを期待しておられるのではありません。

 あなたには罪が残っているので、祈る資格がないなどとはいわれていないのです。

 収税人を軽蔑したパリサイ人のように、隠れた罪を残したままの祈りが受け入れられないと教えられていません。 

 

 ただし、私たちは罪深いので、自分がよく見えず、御心が何であるのか、分からないまま祈りの時を過ごすのであり、罪があるまま、そのまま主のみ前に出るべきなのでしょう。

御心にかなった祈りをどこから学ぶのかといえば、わたしたちは、聖書から学ぶべきであるといえます。

 

 とくにダビデの詩篇は、祈りの宝庫であり、しかも、主が喜んでくださる祈りの宝庫でもあります。詩篇を学び、暗記するほどに自分のものにできて訓練されたら、どれだけ祈りが主のみ心にかない、主の心が実現されるための器とされることでしょうか。

 

 主は、十字架にかけられる前の、ゲッセマネの祈りでこのように祈られました。

 

 「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(マルコの福音書14:36)

 主においてさえ、「わたしの願い」がいつも「みこころ」と一致しているわけではなく、主は死を恐れておられました。それでも、ご計画を受け入れて、みこころがおこなわれますようにと祈っているのです。

 

 クリスマスの季節、過去に主が来られたことを初臨、そして、やがて来られる約束があり、それを再臨と呼ばれます。

 主が地上に来られたとき、もちろん時があったのです。ご計画に従って、主イエス様はべツレヘムにお生まれになったのです。

 けれども、主が来られるまで、どれだけの主の名をもとめる人々の祈りがあり、主よ来て下さいという祈りがあったことでしよう。

 そして、再臨を待ち望むわたしたちにおいても、それは同じです。

 再臨を待っ私たちには、マラナタ「主よ来て下さい」という祈りが与えられます。 (Ⅰコリント16:22)

 主が来られるために、ふさわしく、地上に正義と平和を満たしてくださり、主の教会を、花嫁と呼ばれるのにふさわしく整えてくださいという祈りが与えられるわたしたちは幸いです。

 

(了)