説教 2021年6月

2021年6月27日

「アブラハムの改名」 創世記17:1-8 15-21     小高政宏 牧師

<説教要旨>

 はじめに

 今日は、アブラハムが名を「多くの国民の父」と改名する時のことから学びます。神はご自身のお名前を示して、アブラハムに新しい名を与えました。そのことによって、アプラハムを「多くの国民の父」となる使命が確認されたのです。神は、以前にアブラハムに与えた契約を再び思い起こさせ、イシュマエルではなく、イサクを与えることを告げました。イサクは血のつながるだけの子とは違う信仰の子のことです。サラも改名し、イスラエルの民、信仰の民の先祖となっていくのです。

 17章は新しい名前が与えられたことと割礼を行うように命じられたことの二つが中心ですが、この二つは切り離すことのできないーっのことであり、新しい信仰の歩みにとって大切な教えです。

 

1.全き者であれ

 アブラムが99歳のときとあります。妻のサライが自分の女奴隷ハガルをアブラハムに与え、争いがあり、三人はそれぞれ苦しみ、ハガルは逃げて行き倒れになろうとしたとき、主の使いが現れ、戻ってイシュマエルという男の子が与えられました。それから13年間の空白がありました。この13年間の出来事は何も記されていません。その間アプラハムの一族はそれなりの平安な時を過ごしたのではないでしようか。アブラハムと妻サライそしてハガルの間の葛藤は、根本的には変わっていません。しかし、人生には少しの苦しみはあるものだとあきらめ、皆それぞれ13年間を過ごしたはずです。しかし、平凡な日々のうちに、何時の間にか主から心が離れ、安定した生活に埋没していたのではないでしようか。

 そして、99歳という年齢のとき、主の言葉がありました。それはアブラハムの平安な人生へのチャレンジです。もう一度新しい生活を始めるべき時がきたことを、主が示されたのです。主は彼等のことを良く知っておられ、約束を再確認して、新しい信仰生活ー、と導かれたのです。 

 「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者あれ。」と三つのことを言われました。

 ここで、神ははじめてご自身の名を「全能の神」エル・シャダイと言っています。神はすべ

てのことを自由になすことができる。そして、神は約束を必ず実現されると言う事です。神はこの世界のすべてを造り、導いている。山も海も太陽も作り、歴史のすべてを導いておられる。国を造り、滅ぼし、王を立てる。そういうカのある方である。ですから契約は必ず実現します。

 そして、「あなたはわたしの前を歩み」と言われました。私たちが何かをするとき、神の前でしていると自覚しているでしようか。神を忘れてしまっていることが多いのではないでしようか。

 この世には、私たちを見つめているいろいろな目があります。広く世間の目があります。職場での立場や学校における先生の目、友人の目、家庭における家族の目、そして、自分が持っている自分自身の価値観の目もあります。それらはいろいろであって、神の目ではありません。それらは全て人間の目です。私たちは、人間の目の前で、人間の目を気にして、その評価によって、喜んだり悩んだり、誤解されたりして生きています。そういう私たちに対して、神はご自分の名前を示して下さり、人間の目ではなく、神の目の前に生きるようにと教えられたのです。

 「全きものであれ」と言うのは、完全と言う事ですが、罪が少しもなく神と同じ様に正しくすべてのことを行うという事ではありません。罪がないということは不可能です。それにも関わらず、神は「全き者になれ」と言われました。どういう意味なのでしようか。創世記6:9「ノアは正しい人であって、その時代にあっても全き人であった。」とあります。その時代の人が神を知らずに生きているとき、神の言葉に信頼して生きたからです。大きな箱舟を作りなさいというみ言葉を信じそのとおりにしました。

 また、マタイの福音書5:48「だから、あなたがたは天の父が完全なように、完全でありなさい。」とあります。この場合は、愛において、人間の限界ある愛、自分を愛してくれる人や、自分に都合の良い人への愛だけでなく、神の愛を知るものとして、神の愛に生きなさい、という教えです。自分の決断を迫られていると思う時、神の前にその教えに従うということです。

 

2.名を改める

 主はアブラムに名前を改めるように指示されました。神のほうから再出発させるために恵みとして名前を変えてくださったのです。まもなく一人の男の子がサラを通して与えられる。その子は一人に終わらず、その子の子孫を通して星の数のように増え広がり、人々の上に立つ王も多くでる。それに相応しい名前を与えられたのです。

 改名という制度は、世界中にあります。日本には昔元服と言う制度があった。成人すると、子供のときの名前を改め、姿形も大人の姿にした。落語家や歌舞伎の役者などでもあります。姓名判断という占いの一種がある。名前はその人を指し示す記号としてだけではなく、その人の将来の恵みや災い、立場や使命や性質人柄などを表します。

 聖書には、ヤコプ(踵をつかむ)がヤボクの渡しで夜中神と格闘して、イスラエル(神と戦う、神と共に励む)と言う名を与えられた。新約聖書では、シモンがペテロ(岩)。

 アブラムは「高貴な父」と言う意味でした。それをアプラハムに改めなさい、と指示されました。アブは「父」と言う意味、ラームは「高い」という意味です。そして、ハモーンは「多くの人や物」と言う意味です。それを足すと、「多くの人々の高貴な父」と言う意味になります。それから、妻のサライも「サラ」と改名して、出産に備えるように言われました。サライは「わたしの王妃、王女」と言う意味ですが、それが「サラ」にという「わたしの」が取れてただの「王妃、王女」と言う意味になります。夫のアブラハムが多くの国民の父となり、妻のサラもその妻として多くの国民の「王妃」となると言う意味が与えられたのです。

 

3.信仰の子の父となる

 アブラハム夫妻は名前を改め、自分たちに子が与えられると言う主の言葉を聞きました。しかし、アブラハムはよく理解できないでとんちんかんな反応をしました。「ひれ伏し」は最も りくだった敬虔な姿勢です。しかし、アブラハムの心の中は違いました。神の言葉を有り得ないことだ、ばかげていると冷ややかに笑ったのです。彼の常識が信仰を弱くしてしまった。この時のアブラハムは「男の子」とか「子孫」と言っても、自分は100歳、妻は90歳になる。子供が生まれるはずがない。私たち夫婦はカルデヤのウルを出たときから24年になる。もう子供を与えられる可能性は無くなってしまった。少しでも可能性があれば信じるが、もう願う気持ちも無くなっていた。主がおっしやる「子」と言うのは、先にハガルによって与えられたイシュマエルのことではないか。心の中でそう思った。イシュマエルは成長し13歳になっていた。

「主がイシュマエルを守り、恵みのうちに将来を祝福して下さいますように」と、願った。

「どうか」と神に願っているが、神の約束に対する失望とあきらめからでた言葉です。そして、イシュマエルについて熱心に頼みました。それはもう子は与えられないという神への失望から出た言葉です。

 主は、このアブラハムの思いをご存じであった。そして、はっきり違うと、告げました。主はあくまでも、アブラハムと妻サラの間に男の子が産まれる、名言されました。

 19~22節には、

 ハガルの産んだ子イシュマエルについては願い通り、多くの子孫を与える。彼は12人の族長を産む。彼を大いなる国民とする。

 しかし、サラが来年の今頃、あなたに子を生む。その子イサクと、「わたしの契約」を立てる。イシュマエルとイサクの違いは、ここにあります。アブラハムとの契約の担い手となり信仰を受け継ぐものと、そうでない者との違いです。アプラハムが「多くの国民の父」となるのは、自分の信仰を受け継ぐものの父となることによってです。「信仰の父」とならずに「多くの国民の父」となることはできません。アブラハムは平安な生活の中でその事を忘れかけていました。 この世の安定と自分の財産を受け継ぐものが与えられれば良い、と思うようになっていたのです。しかし、アブラハムの人生に与えられた使命は全く違う。ただみことばに従ってカルデヤのウルを出たのも、ロトと別れてやせた高地を選んだのも、奪われた財産と人を取り戻したのも、「多くの国民の父」となるための準備であった。約束の地は信仰がそこで育ち引き継がれていく地のことである。そうでなければ、約束の地は生活する場にすぎず、多くの人達が移動して増えたにすぎません。

 アブラハムは自分の人生はもうこれくらいでいいだろうと思い始めていたのではないでしょうか。しかし、神の目には全く違った。まさにアブラハムの人生はこれからが使命を果たすときであり、信仰の父、神の友、祝福の基となっていくのである。この世の恵みだけで満足し、神の約束による恵みを忘れてしまう。神の約束による恵みなど不可能なことだと思い、あきらめてしまう。アブラハムですらこのときにまではそうだった。しかし、本当に必要な恵み、永遠の恵みは神の約束による信仰によってだけ与えられる恵みです。ただアブラハムの財産を管理して一族を守ることだけならば、イシュマエルでよいはずです。しもべの中で一番信用されていたダマスコ出身のエリエゼルでも良いはずです。

私たちは信仰によるアブラハムの子孫です。自分たちの子の世代に対して、アブラハムと同じ使命を与えられています。この生活の安定や仕事の成功を望むだけでなく、信仰を受け継いでいかなくてはなりません。イサクの誕生には25年かかりました。一世代です。子は親とは違った環境で生きていきます。価値観も生きる条件も違います。それでも信仰は最も価値あるものであるはずです。そのことをしっかりと伝え、信仰の子を育てる使命を教会としても、親としても負っています。祈り、いろんな形で努力したいと思います。

 

お祈り

2021年6月20日

「ハガルを励ます主の使い」 創世記16:7-16     小高政宏 牧師

<説教要旨>

 はじめに

 きょうの個所には、アブラハムの家庭が憎しみと対立の場となり、そこから女奴隷ハカルは逃げ出し、主の使いに励まされたことが記されています。家庭内の争いや対立には勝利者はいません。みんなが傷つき不幸になってしまいます。最も弱い立場にあるハガルは、耐えきれずに逃げ出しました。このようなことになったのは妻サラが女奴隷ハガルにアブラハムの子を産ませ、その子を自分の子にしようとしたことによってです。アブラハムもそれを受け入れました。ですから、サラだけの問題ではなく、夫婦ともに神様の約束の実現を待ち切れなくなって、自分たちの知恵で子を得ようとしたことが原因です。その結果、悲惨なことになってしまったのです。

 忠実で謙遜な召し使いであったハガルはみごもると、態度が大きく変わった。自分こそがアブラハムの世継ぎを宿しているのだと思い、高慢になり、女主人サラを見下すようになりました。そして、サラは、ハガルに嫉妬し憎み苦しめました。サラは夫アブラハムにも敵意を向けます。サラは自分を正当化して、他の人を非難し、怒り狂って感情を抑えられない。

 アブラハムも無責任で解決のために何もしないで、サラに好きなようにしなさい、と言うだ けだった。サラはハガルをますますひどくいじめた。このままでは、三人とも傷つき争い滅んでいくしかなくなった。ハガルはどうしようもなくなって逃げます。エジプトのほうに向けて、どこまで行けるか知れないが、とにかく辛さに耐えかねて逃げた。神の使いは、もっとも弱く逃げていくハガルに、行き倒れ寸前に、荒野の泉のほとりで現れて下さった。

 きょうは、神がハガルにどのように、愛を持って配慮し、導いてくださったか、3つを学びたいと思います。

 

①弱さの中にいるとき、「どこから来てどこに行くのか」と語りかけてくださる。 

②身を低くして帰りなさい。

③将来の祝福とそのための忍耐と勇気の必要

 

1.どこから来てどこに行くのか

 私たちは人生でいろんな壁にぶつかります。そういう時、責任転嫁をして、逃げようとしてしまいます。ハガルのしたように、逃げなくても、サラのようにほかの人を攻撃し、アブラハムのように無責任になってしまいます。情報がたくさんあり多様な現代社会にはいろんな逃げ場があるように見えます。そして、人間の知恵で何とかなると思ってしまいます。

 主の使いは、「あなたはどこから来て、どこにいくのか」と尋ねました。この問いは、神を見失い、自分の目の前の人間関係しか見ることができないハガルに、もう一度自分と神との関係を思い起こさせるための言葉です。ハガルの心には、女主人サラが嫉妬し、憎んで、自分を限りなくいじめるので、逃げるしかない。胎内の子の父であるアブラハムも自分をかばってはくれない。だれも助けてはくれない。絶望し、ただ苦しみから逃れたい、そういう思いだけだった。

 主の使いのことばに、ハガルは「私の女主人サライのところからにげているところです」と答えました。ハガルは自分がアブラハムの子を胎内に与えられて高慢になった。そのためにサラに嫉妬されいじめられた。自分は女奴隷であり、そこから逃げることしかできなかったと、告げます。しかし、「どこに行くか」については答えることができませんでした。

 

2.謙遜の勧め

 主の使いは、ハガルに「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」と言われました。どこに行くかは、うしろを見ていてはわからない。どこに行くかを教えるために、まず身を低くすることを命じました。苦しい時にはその苦しみにだけ目を向けるのではなく、ヘりくだり謙遜にならなければならない。ハガルと胎内の子が苦しみから逃れ、祝福を受ける道はどこに逃げてもありません。それでもハガルは逃げてきた。どんなにつらかったか。しかし、主の使いは、主人のもとに帰るという道を示してくださった。女主人サラのもとで「身を低くし、謙遜に仕えることが、主のみこころなのである。もと来た道を帰り、神が私たち一人一人に定めた持ち場を受け入れなければならない。主は、もとの場に帰ることによって、苦しみから救いどこに行くべきかを占めてくださるのです。

 それは人の判断では絶望的な道である。しかし、主はその絶望的な道の中に希望への道を備えてくださる。主のみ言葉に縛られることで、自由が与えられる。主との交わりによって、その愛の励ましに触れることで、到底できないと思っていたことができるように変えられる。絶望の中に希望を見いだすことができるようになる。このハガルへのことばは、サラとアブラハムへの言葉であり、今日の私たち一人ひとりへの励ましの言葉である。だれもつらいときには逃げ出したくなる。しかし、主が共にいて下さるとき、困難のときが訓練のときとなる。大きな恵みを産むための苦しみのときとなる。

 日本の状況はだんだん豊かになり、自由や選択の幅が広くなるにしたがって、いつまでも精神的には、子供で大人になれなくなってしまったといわれます。「己を知る謙虚さ」「宿命を受け入れる潔さ」「不条理を生き抜く図太さ」が失われ、自分のプライドにこだわり、すぐ に怒り、積み上げてきたものを破壊してしまう。そうならないように、大人を取り戻さなければならない。それは主の約束を信じる信仰の力によってできることです。

 もし、私たちのうちで誰かが、ハガルのつらい状況を聞いて、主の使いのように言うことができるでしようか。少しの援助や逃げ場を考えてあげることはできるかもしれません。しかし、主の使いのように言うことはできないと思います。それでは、主の使いはどうして言うことができたのでしようか。

 

3.主の約束

 人が困難に耐えるために、一番大きな励ましとなるものは信仰と希望と愛です。主はそのことをご存じてあり、信仰と希望と愛の約束を与えられました。

 10節には、「あなたの子孫はかぞえきれないほどになる。」と、子孫の繁栄の約束が与えられた。

 11節では、子孫の繁栄をさらに具体的に、今ハガルの胎内にいる子について、「男の子を産む。その子の名をイシュマエル(神は聞いて下さる)と名づけなさい。神があなたの苦しみを聞き入れたから。そしてイシュマエルの将来の姿について、12節で、「野生のロバ」のようになる。飼い慣らされることを嫌い、荒々しく、すばしこい。「すべての人に逆らい」とあります。イシュマエルの子孫は、12部族になり、イスラム教のマホメットの先祖となります。

 

4.ハガルの信仰による応答

 このように語りかけて下さった主に対して、ハガルは「エル。ロイ」と呼びました。13節の後半に、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」言ったことが書かれてあります。神様が自分を見つめて下さったことを知った。自分が本当にかえりみてくださる方と出会うことができた。それによって、今まで間違った仕方で見つめていた他のものから目を離すことができたのです。他のものとは、自分自身の誇り、自尊心、プライドです。それらを見つめることが、人を軽蔑すること、見下げることを生みます。彼女の目は、自分を誇り、その 裏返しとして人を蔑む目で見ていたのです。それが愛をもって自分を見つめておられる神様との出会いによって、その神様を見つめる目へと変えられたのです。彼女が新しく歩み出す力を与えられたのはそのことによってです。

 自分に優しい言葉を掛けて下さった主をハガルは「エル・ロイ」(見てくださる神)と呼ぶ。

自分は神の後ろ姿を見てもなお生かされている、という感謝の思いを込めて言ったのです。そして、ハガルが主に会うことを許されたことを記念して、そこにあった泉を「べエル・ラハイ・ロイ」、「生きて見ておられる方の井戸」と名付けました。

 ハガルはアブラハム一家に仕えて、神のことを日常の生活やいろいろな機会に知ったはずですが、「主なる神」への認識は浅かったと思われます。それがこのときの体験を通して、「自分を顧みて下さる神」「生きて見ておられる神」と、アブラハムの家で知った神を自分の神として深く心から告白することができるようになったのです。

 アブラハムは、ここでは何も出てきませんが、背後で祈っていたに違いありません。そして、神がサラの怒りを鎮め、ハガルがいることができるように整えてくださったに違いありません。ハガルが逃げ出す前のように、サラが怒っていたとは記されていません。こうして、ハガルは男の子を産みます。そして、アブラハムは、その子供の名をイシュマエル(神は聞いて下さるという意味)とつけました。

 きょうはハガルになったつもりで、主の使いが語りかけてくださった言葉を覚えたいと思います。主は、エル・ロイ……見て下さる神です。そして、今生きている場所は、べェル・ラハイ・ロイ……「生きて見ておられる方の井戸」です。そして、イシュマエル…神は聞いてくださる方です。

 

お祈り

2021年6月13日

「人の分別と信仰の力」 創世記16:1-6     小高政宏 牧師

<説教要旨>

 はじめに

 きょうの聖書箇所には、アブラハムとサラが陥った過ちが記されています。あまりに人間的な失敗です。妻のサラの申し出によって偉大な信仰者アブラハムがこんな事でと思いたくなるような失敗をしてしまいました。

 信仰者のすべての罪は十字架の贖いによって赦されました。しかし、生きている限り人は罪を犯します。救いは三つの面を持っています。まず信仰義認です。自分を罪人と認め、十字架の贖いによって、すべての罪を赦される。そして、罪に死んで新しい人とされる。これは、ただ信仰によって一回だけのことで、みな同じである。

 次は聖化です。信仰者となってもこの世に生きる限り、弱さをもち続ける。神の子として、神の教えを基準として生きるようになりますが、罪がなくなることはありません。罪を犯し、悔い改め許され、少しずつ神の子として相応しく清められる。どのくらい成長したか、清くなったかということは一人ひとりみな違います。

 三つめは栄光化です。個人的な死の後、この世界世の終わりにイエス・キリストが再臨し、最後の審判の後、天国の栄光を受けることです。

 きょうは、信仰の犯す罪を人間の分別と神のみ言葉への姿勢という面からみていきたいと思います。エデンの園でアダムとエバが最初の罪を犯した時と同じことが繰り返されています。

 

1.しっかりとした妻の失敗

 きょうの失敗は故郷を後にして、カナンの地に住んでから十年後のことです。アブラハムの一族の生活は安定していました。しかし、一つだけ「跡取りとなる子がいない」という事が悩みでした。前回、神は何を望むかと言って下さった。その時、率直にアブラハムは「跡取りになる子がありません」と答えました。すると、「天の星を見なさい。あなたの子孫は空の星のように多くなる。」と言われました。また、アブラハムの子孫がエジプトに下り奴隷となり、400年後にこのカナンの地に戻ると言う事も示されました。それで、アブラハムもサラも納得したはずです。神の約束を待てばよかったのです。

 しかし、いくら待っても子供は与えられませんでした。神が約束を破るはずがない。神は破ったら、二つに切り裂かれた動物のようになると誓って下さった。何かが違う。毎日そう考えているうちに、妻のサライのほうがハッと思いついたのです。

 神は夫アブラハムに子が与えられると言われた。しかし、その子は私の産む子だとは言われなかった。私からではなく、ほかの女から子が与えられるのではないか。もう私が子を産むのは無理だ。きっとそうに違いない。そして、召し使い中で一番気にいっているハガルをアブラハムのところにいれて子を産ませ、その子をわたしたちの子としよう。そして、大発見をしたかのように思って、夫のアブラハムに話しました。

 サラは、箴言31章に書いてあるような「しっかりとした妻」です。「夫に信頼され、夫によいことをして悪いことをしない。家族のためによく働き、知恵深く、カと気品を身に付けている。」そういうサラが思い違いをした。自分の事だけを考えていたら、自分のほかに夫に妻を与えるはずがない。サラは夫のアブラハムを愛するがために、このようなことを思いついた。家族への配慮が間違いをもたらした。普通は、家族への愛は信仰と対立しません。信仰が深ければ深いほど家族への深い愛の配慮ができるはずです。ところが、この時は、違った。

 こういうサラの体験は、信仰生活をしていく中でだれでも直面します。そして、一生いろんな形で続きます。夫に対してだけでなく、子供に対しても、親に対しても、こういう場面に直面することがあります。特に、神の教えが自分の信仰からあまりに離れしているように思われるとき、もっと現実的な対応をよしとしてしまう。どうしたらよいかと言うと、み言葉への理解と信仰者の交わりの中で良い証しを聞き、知恵を身に付けて行くしかない。神学の理論では二つが違うことは分かっても生きていく中で、実際にできなければ意味がない。生きた信仰生活の証しが必要である。

 

2.なぜアブラハムは止められなかったのか

 それではなぜ、サラの間違った申し出をアブラハムは受け入れてしまったのか。もちろん、 アブラハムがすぐにそれを受入れたとは思われません。はじめは「そんな事は不信仰だ」といったに違いありません。しかし、サラが自分の考えを熱心に言っているうちに、「そうかもしれない」となり、最後には、「そうか、そうに違いない。今までなぜ思いつかなかったのだろう。自分でなにもしないで、ただ待っていても仕方がない。」と思うようになったのでしよう。

 アブラハムにとって、子が欲しいという思いは非常に強い、人生の根本問題であって、子がない事で焦り、恐れていた。こういう時には、ふつう誘惑に負けない人であっても誘惑に負けてしまいます。

 当時の歴史的な資料には、妻が子を産まない時には、召し使いを入れて子供を得て、その子を跡継ぎにすると言う習慣がありました。古代バビロンのハムラビ法典にもそういう習慣があったことが確かめられています。アブラハムとサラもそういう習慣の中で生きていましたから、大きな抵抗がなかったのかも知れません。

 こうして、アブラハムはかってアダムがエバの声に従ったように、妻サライの声に従いました。

 

3.ハガルの高慢さがあらわれ

 ハガルはサラの召し使いの中で一番よく働き、健康で、忠実であり、サラのお気に入りであった。ハガルという名は「逃げる」「逃亡者」という意味です。エジプト人です。アブラハムたちはカナンの地に来てまもなく飢饉があってエジプトに行きました。その時に、エジプトの王から与えられた奴隷です。同じ奴隷でもほかの国にやられる奴隷はより不幸です。奴隷としての安定がなく、どうなるか全く分からないままに生きなければなりません。しかし、ハガルは一生懸命に前向きに生き、サラに仕えてきました。ことばも習慣も違う主人に仕えて、一番気にいられるようになったのです。それだけでも立派です。サラが安心してアブラハムのところに入れてこどもを得ようと考えたのです。 

 しかし、人間の考え通りに事は進みません。このような一夫多妻は、神の教えに反しています。そして、一つの失敗はさらに多くの罪と苦しみを生み出します。忠実で謙遜な召し使いであったハガルはみごもると、態度が大きく変わりました。自分こそがアブラハムの世継ぎを宿していると思い、高慢になり、女主人サラを見下すようになりました。

 

4.罪の広がり

 ハガルが変わると同時にサラも変わります。そして嫉妬、焼き餅、争いが始まりました。ボタンをはじめに一つかけ違えると、次々にかけ違いになってしまいます。サライは夫に八つ当たりします。

 自己正当化し、ほかの人を非難し、怒りの感情を抑えられない、愛が敵意に変わる。サラはアブラハムのためを思って自分を犠牲にしたと思っていた。感謝されると思ったのに、ひどい仕打ちを受けたと思い、一方的に相手を責め、冷静に自分を見つめることができない。もともとは自分が言い出した。それが根本的な間違いだが、その事に気付かない。神の約束をしっかりと受け止められなかったことがまちがいのもとです。神なしに、神の約束を実現することはできません。

 「主が・・ ・・・さばかれますように」と言っているが、自分勝手に主を味方につけて自己主張しているにすぎない。「しっかりとした妻」であるサラは信仰のない人以上に感情的になってしまった。

 このようなサラに対して、アプラハムはどうしたか。

 アブラハムもひどい。サラに好きなようにしなさい、ただ逃げるだけ。これが信仰の父と呼ばれるアブラハムのすることかと思われるような態度です。信仰の父アプラハムですら、こんなにだらしなくなる。

 サラはハガルをいじめた。エジプトでサラは王のそばめにされかかった苦い体験を忘れ、

パロと同じ事をした。ハガルがかわいそうではないか、と思います。この時は一番弱い立場にいるのはハガルですが、三人とも可愛そうだとも言えます。ハガルはどうしようもなくなって逃げる。エジプトのほうに向けて、どこまで行けるか知れないが、とにかく辛さに耐えかねて逃げた。

 

5.神の顧み

 きょうの聖書箇所ではなく、次回のところですが、こういう中で神が顧みて下さった。このまま進んだら三人とも傷つき争い滅んでいくしかない。罪の火がドンドン燃え広がり、三人を滅ぼしてしまう。神は、もっとも弱く逃げていくハガルに現れて下さった。

 神のときを「待つ」事ができないで、アブラハムとサラは失敗した。信仰において「待つ」と言うことは根本的なことです。信仰生活は、神のもとにいって最終的な救いに入れられる時を待つことでもあります。神の国を待ち望みながら、神の子として自分を整えていただくときです。

 待つと言う事は、なにもしないと言う事ではない。神の約束が実現するときのために一番必要なことをすることが待つことです。恐れや不安のために逃げたり、もっと楽な方法で安全を得ることでもありません。待つことによって、神の子として成長していくのです。

 

お祈り

2021年6月6日

「神が結んだ契約」 創世記15:8-21     小高政宏 牧師

<説教要旨>

 はじめに

 神との関係が浅い時には、神に問いかけることはありません。アブラハムは神のみ言葉を信じて旅立ち、約束の地でいろいろなことを体験し、み言葉と目に見える現実との間で苦しみ、神に問いかけました。そのように、私たちが、信仰の歩みの中で、神様の恵みや祝福への疑いや迷いをもつとき、その疑いや迷いを、神に真剣に問いかけていくことが大切です。疑いや迷いの解決は神から与えられます。自分の心の中でだけであれこれ考えたり、人の目や常識に縛られている間は、何の答えも得られないのです。

 アブラハムは、神の約束の言葉に対して問いかけました。それは、アブラハムの信仰の歩みが始まってから、初めてのことなのです。その言葉は2節の「神、主よ。わたしに何をお与えになるのですか。わたしにはまだ子供がありません。私の家の相続人はダマスコのエリエゼルになるのですか」という問いでした。

 この問いに対して、主は、あなたの子孫は空の星のようになる、と言われ、アブラハムはそれを信じました。そして、「主はそれを彼の義と認められた」のです。今日の個所は、信仰義認の教えに続いて、神がアブラハムと契約を結ばれたことについての教えです。神の契約は信仰義認の教えを私たちにより確かなものとして示すものです。神の契約と信仰義認は表裏一体で信仰の土台です。

 

1.契約による配慮

 まず、神はアブラハムに、契約を結ぶための儀式の用意をするように言われました。動物をまっ二つに切り裂いて、その半分を向かい合わせに置く。鳥は小さいので切り裂かないで二羽を互いに向かい合わせにする。もしも契約の当事者たちが、それを破ったら、この動物のように切り裂かれてもよい。約束を自分が破るようなことがあったら、自分もこの動物たちのようにまっ二つに引き裂かれてもよい、ということを宣言するということです。契約を結ぶということは、自分をその契約に縛られた者とすることであり、破ったならば死をもって償わなければならないということなのです。主なる神様はここでアブラムと、そのような契約を結ばれたのです。

 その約束は、以前にも与えられていた、「あなたの子孫にこの土地を与える」ということです。その内容に新しさはありません。

 しかし大切なのは、神様が契約を結んで下さったということです。もしこの約束を破ったら、自分も引き裂かれてよい、命をかけてこの約束を守る、と神が宣言して下さったのです。これが、アブラムと神様との関係が新しい段階を迎えた、ということのもう一つの側面です。それまでにも約束の言葉は与えられていました。しかし神様は新たに、契約を結ぶことで、ご自身をこの約束に縛られた者として下さったのです。破ったなら死の呪いを引き受ける、と宣言して下さったのです。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」というみ言葉によって、神とアブラハムとの間に、正しい関係が打ち立てられました。それは人間の側からみると、自らの考えや判断によってではなく、神のみ言葉を信じるということです。私たちの信仰は、神様が私たちと契約を結んで下さる、という恵みに支えられています。神と私たちとの正しい関係は、人間の側からは神を心から信じる信仰によって、神の側からは、人間とを結んで下さる恵みの契約によるのです。人が信じて義と認められるのは、義としてくださる神によるのです。人間はこの信仰によって義とされます。そして神は人間と契約を結び義なる神としての関係を、アブラハムに覚えさせたのです。アブラハムは真剣に求め苦しんでいるのに、神は何もしてくださらない。約束だけでそれが実現するのかどうか、信じられなくなってきたという思いがあったわけです。それに対して、神が契約によって、真剣にアブラハムの願いを受け止め、必ず実現することを教えられたのです。

 

2.契約の厳しさと真実

 契約の厳しさを知らないときには、自分の考えや都合に合うことだけを約束し、都合が悪くなったら、変えればよいと考えます。自分と相手の都合で決めればよいのだからです。しかし、キリスト教の土台としての契約はそういう取り決めではありません。二人の取り決めだけでなく、そこに神という絶対者がおられ、その神の前での取り決めです。ですから、契約する二人がそれぞれ神と約束し、それに基づいて二人が合意することで成り立つわけです。ですから契約は、自分や社会の常識を超えた絶対者との関係において成り立つ。そのためにはどうしても自分が罪人であると言う、自分の絶対的な限界を知らなければならない。人間は約束を絶対に守るとは言い切れない。うそをついたりだましたりする性質を持っています。ですから、信仰によって義とされる以外に、主の契約を受け入れることはできない。罪びとのままでは、契約は最初から無効なのです。しかし、神が契約を結んでくださったのです。

 アブラハムは主にいわれた通りにしました。そして、猛禽、肉食の鳥がきて切り裂かれた動物を食べてしまわないように、アブラハムは追い払い続けました。そして、次の日、日が沈みかかったころ、アブラハムは深い眠りに襲われた。さらに、「そして、見よ。ひどい恐怖が彼を襲った」とあります。この暗黒や恐怖は人の罪を象徴するものです。

 そして、主はアブラハムに子孫がどうなるかについて言われました。アブラハムの子孫がエジプトに下り、奴隷とされ、その苦しみから解放されて、再び約束の地に導かれることを示したものです。どうしてこの時にずっと後の子孫のことを言われたのでしょうか。その説明はありませんが、このように子孫について具体的に予言されることによって、確実に子孫が与えられるのだと実感できるようにして下さったのではないかと思います。

 それから、子孫がただ恵みのうちに過ごすのではなく、苦しみを体験することを示すことによって、子孫が与えられることで何もかもうまくいくという甘い考えを断ち切る意味もあったと思われます。この世に生きる限り、試練はつきものであり、試練を通して真の恵みと栄光を与えられます。主はアブラハムに言われた。「あなたの子孫は、自分たちのものではない国で、寄留者となり、奴隷とされ、四百年の間苦しめられる。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕える。その国民をさばき、その後、彼らは多くの財産をもってそこから出ていくようになる。あなた自身は、平安のうちに長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。このように契約は一時的なものではなく、ずっと続くということを教えたのです。

 ここに戻って来るのは、四代目の者たちである、それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからであるとあります。安茂里人というのは、約束の地カナンの人々を代表していったものです。このように神様のご計画は、四百年以上のスケールを持ち、アブラハムだけでなく世界のすべてに及んでいます。四百年とは、イスラエルの民がエジプトで奴隷として苦しめられる年月です。自分の世代では終わらず、子や孫にまで至る、そういう苦しみの年月を経なければならない。しかし最終的には神様の恵みのみ業がなされ、救いが与えられていくのです。ここでは約束の地に戻るときまでのことが言われましたが、私たちは天国にまで導かれるのです。神はその間ずっとともにいてくださり、どの様な困難の中にあっても、必ず守って下さると言う事を保証して下さったのです。ですから、神の契約は救いの完成に至る神の計画から出たものなのです。

 

3.神の契約の実現

 眠ってしまったアブラハムは何時目覚めたのか分かりませんが、不思議なものを見ました。

 17節「その時、煙のたつかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれた動物の間が通り過ぎた。煙のたつかまどと燃えるたいまつは主を象徴するしるしです。実際に契約が結ばれたのは日が沈み、暗闇に覆われたころ、煙を吐く炉と燃えるたいまつが、引き裂かれた動物の間を通り過ぎたことによってです。神様ご自身が引き裂かれた動物たちの間を通って契約を結んで下さったのです。

 この契約の締結において、引き裂かれた動物の間を通ったのは主だけです。このことは大きな意味を持っています。アブラハムはそこを通っていません。この契約はまず神によってたてられ、神はご自身でこの契約をずっと守りつづけて下さったのです。一方アブラハムの方はこの時にはまだ契約の大きな意味は分かりませんでした。しかし、こどもが親のこころを理解していくように、だんだんと神の心がわかるように、信仰が成長していきます。そのように導かれました。

 その後のアブラムの子孫たち、つまりイスラエル12部族の歩みは、この契約を破り続ける歩みでした。イスラエルの民は繰り返し神に背き続けました。しかし神の方は、この契約をどこまでも守り、イスラエルの民への恵みの約束を貫いて下さったのです。そして、私たちは、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、神の約束が果たされたことを知っています。私たちの罪のために十字架にかかり、引き裂かれたのは、私たちではなくて、神の独り子主イエス・キリストでした。そして、主イエスを救い主と信じる者はみな救われる。罪を赦され、新しい人とされ、神の子として天国へと向かって生きていくことができるのです。それは信仰によって議とされるという約束を神が守り通してくださったからです。

 

 お祈り