説教 2022年1月

2022年1月30日

「主イエスの伝道と名声」マルコの福音書3:7-12   小高政宏牧師

<説教要旨>

 はじめに

 

 今日のテーマは「主イエスの伝道と名声」です。前回、ある安息日に主イエスがユダヤ人の会堂で片手のなえた人をいやされました。その結果、パリサイ人たちはヘロデ党の人々と、どのようにしてイエスを殺そうかと相談を始めました。そのため「イエスは弟子たちと共に湖の方へ退かれた」のです。パリサイ人たちゃヘロデ党の人々の敵意、殺意が高まっていたからです。主イエスはユダヤ人の会堂から逃れてガリラヤ湖の方に退却したのですが、大勢の群衆がやってきました。

 本日の箇所はその続きです。ここから3つのことに目を向けたいと思います。

 

①イエスの所に集まった人々の思し、

②小舟を用意したことによる多くの人々との関係

③汚れた霊に対する戒め

 

1.集まって来た大勢の人々の思い

 主イエスのもとに、大勢の人々が集まって来ました。たくさんの群衆がどこから集まってきたのかが記されています。主イエスが活動の拠点にしておられたのは、イスラエルの北の方、ガリラヤ湖があるガリラヤ地方です。今日の聖書箇所の7節「イエスは弟子たちと共に湖の方へ退かれた」というのは、ガリラヤ湖のことです。まずこのガリラヤ地方から、多くの人々が主イエスのもとにやってきました。さらに、南のユダヤ、エルサレム、イドマヤ。またヨルダンの向こう側というのは、東側のペレアやデカポリスという地域。ツロ、シドンは地図の北の方、地中海に面した都市です。こんなに広い地域から主イエスのところにたくさんの群衆が集まってきました。

 彼らは、イエスのしておられることを聞いて、集まって来たのです。主イエスの評判がまたたく間に、広い地域に伝わっていたのです。このおびただしい群衆がイエスのもとに集まって来たのは、10節「それは、多くの人をいやされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押しかけて来たからである。」

 主イエスはいままでに多くの病人を癒されました。これまでに読んできた所にもいくつか

の癒しの出来事が語られていました。その他にも沢山の癒しの奇跡が行なわれました。彼らが「イエスのしておられることを聞いて」とあるのは、病気の癒しの奇跡のことを伝え聞いたということです。それでいろんな苦しみや悲しみの中にいる人々が、救いを求めて主イエスのもとに集まって来たのです。

 「病を癒すことができるすごい方がおられる」「この方なら、どんな病でも癒していただけるかも知れない」「自分をこの苦しみから助けていただけるかも知れない」。こうして、病や、さまざまな苦しみ、悩み、悲しみがある人達が、主イエスの奇跡の御業にあずかろうと一縷の望みをかけて集まってきたのです。パリサイ人とヘロデ党がイエスを殺そうとしていることを集まった人たちも知っていたはずです。しかし、恐れることなくやって来たのです。

 

 この、必死にすがる思いを、わたしたちも知っていると思います。

 さまざまな苦しみ、悩み、病を抱えた時、そのことが自分のカでどうにもならないとき、より偉大な力に、解決や、癒しを必死に求めようとします。この主イエスを押しつぶすほどの勢いで殺到する群衆に、わたしたちも自分の姿を見いだすのではないでしようか。

 人には多くの願いがあります。よりよく自分の人生を生きることが出来るように、自分の望みどおりの生活をしていくことが出来るようにといつも願います。不幸な現実から抜け出したり、耐えられないと苦しみから解放されたいと願います。それは誰しもが当然願うことであり、本当に切実な、心からの願いに違いありません。とくに、自分のカではどうにもならない現実が目の前にあるとき、人間の力を超えた存在に、願いを叶えてもらおうとすします。それは、人間の自然な思いです。それに対して、主イエスはどのようにしてくださるのでしようか。願った通りにしてくださったのではありません。

 

2.小舟を用意する、人々の願いと主イエスの教え

 さて、主イエスは、これらの群衆に対してどのようになさったのでしようか。

 主イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた群衆に押しつぶされないためです。主イエスは小舟に乗ってガリラヤ湖に少し出て、押し寄せる群衆から距離を取られたのです。そして、主イエスは岸辺に押し寄せている群衆に、舟の上から教えを語られたのだと思われます。いやしの御業は行いません。

 主イエスは「福音」を告げ、罪びとを救い、天国に導くために、神に遣わされて、救い主として世に来られました。神の御心を人々に伝え、すべての者を神に立ち帰らせるため、人々の救いのために来られたのです。

 一方、群衆は、今の苦しみからの解放を求めてきました。しかし、主イエスが人々に与えようとしておられるのは、神との正しい関係です。罪を赦され、新しい人として、神の恵みによって生かされてようになるためです。しかし、人は神を神とせず、自分の思いのままに生きようとします。まるで自分の人生を支配しているのは自分だと思い、自らが神となって、神に逆らって歩もうとしてしまうのです。

 しかしそうではなく、人の人生は神が支配なさるということを、主イエスは教えてられます。だから、神の思いを知り、神が望んでおられることを知りなさい。神を愛し、隣人を愛しなさい、と言われるのです。

 そのために、主イエスは人々に語りかけられます。語りかけることは、その相手と関係を築こうとすることです。そうして、神からの語りかけを聞いた者が、答えることを待っておられるのです。主イエスはここで、人々に神との関係、神との交わりを与えようとしておられるのです。

 しかし、押しかけた群衆は、神との関係よりも、病気のいやしを求めています。「神」を求めているわけではありません。今の自分の願いや思いを叶えてくれる、自分に役に立っ力を求めているのです。彼らは、求めに応えてくれるのなら、苦しみが取り除かれるのなら、神さまでも、祈祷師でも、異教の偶像の神でも、何でも良かったのかも知れません。

 その証拠に、自分の願いを受け入れてくれなかった主イエスを、最終的に人々は捨てるのです。今は押しつぶされるくらいの群衆に取り囲まれている主イエスが、十字架につけられるときには、最も近かった弟子たちも誰もおらず、たった一人になられたのです。

 

 人々の求めと、主イエスが与えようとしておられるものは違う、ということは、主イエスは病の癒しや、苦しみからの解放を、何も与えて下さらないのでしようか。それらのことを求めるのは、 間違っているのでしようか。そうではありません。主イエスの癒しや奇跡は、病の癒しや、苦しみの解決するだけではなく、主イエスが、神に遣わされた神の子であること、まことの神のカを持ち、苦しむ人々に神の愛を示し、天国の恵みを示す「しるし」として、行なわれているのです。

 ですから、まず主イ土スは御言葉を語り、神との交わりを築こうとなさるのです。これが、人間にとって最も必要なものであり、最も良いものだからです。

 神との関係がなければ、一時的な癒しを与えられ、一時的な苦しみからの解放を得ても、また次の苦しみや病が襲ってきます。現在の表面的な状況が良くなったとしても、人生の根本的な苦しみや悩みは何も解決していないのです。

 群衆がそのように、主イエスが本当に与えようとしておられるものを受け取らず、神の力を 利用しようとしているだけなら、癒しが行われても、そこに本当の救いはありません。

 

3.汚れた悪霊どもに対して

 押し寄せた群衆は、神との関係こそ、自分たちが最も必要としているものである、ということに気付くことが出来ません。皮肉なことに、今日の聖書箇所にあるように、主イエスが「神のひとり子」であると知っていたのは、汚れた霊たちだったのです。

 

 群衆がどのように変わるかは、マルコ福音書の最後の方に記されています。主イエスは教えに反発する人々に捕らえられ、裁判にかけられます。そこで、必死に主イエスのもとに集まってきた群衆は、主イエスが自分の期待に沿わないと知ると、「十字架につけろ」と叫びました。

 神が人間を愛し、救うためにこの世に送ってくださった御子イエスを殺してしまったのです。これが、神から離れ、滅びに向かって行く人間の姿です。しかし、主イエスは、これらの人々の罪も、すべてご自分の十字架の死によって赦されるのです。

 

 主イエスが集まった人々にみ言葉を人々に語っておられるとき、「汚れた霊どもは、イエスを見るとみもとにひれ伏して、『あなたこそ神の子です。』と叫んだ。それを聞いた主イエスは、自分のことを知らせないように、厳しく戒められた」。

 群衆の中には、汚れた霊に取り付かれた人々もいました。汚れた霊に取り付かれると、自分の言葉ではなくその霊の言葉を語り、自分の思いではなくその霊の思いによって行動するようになってしまいます。ですからここで、汚れた霊どもがひれ伏したとか叫んだというのは、具体的にはその霊に取り付かれた人がひれ伏し、叫んだのだと理解されます。

 

 その汚れた霊が主イエスの前にひれ伏し、「あなたは神の子だ」と叫んだというのは、彼らが主イエスの正体を、つまり神の子であり、人々の救いのためにこの世に来られた方であることを知っていたからです。主イエスに触れようとして押し寄せて来た群衆たちは誰一人として、そのことに気付いていません。汚れた霊どもが、主イエスの前にひれ伏して、「あなたこそ神の子です」と言いました。それは、汚れた霊どもが主イエスを礼拝したのでも、信仰を告白したのでもありません。主イエスが自分たちをその人から追い出すことを防ぐためです。悪霊どもは自分を守るために、主イエスに従うようなふりをしたにすぎません。ここで、主イエスと汚れた霊どもと戦うために、厳しく戒めたのです。

 そして、悪霊どもとの戦いは十字架の死と復活の時まで続きます。御子としてのご生涯の全体によって、主イエスは私たちを、汚れた霊の支配から解放して下さるのです。

 

 お祈り

2022年1月23日

「人知を超えた愛の恵み」エペソ人への手紙3:14-26   小高政宏牧師

<説教要旨>

 はじめに

 本日は、礼拝に続いて山形宣洋兄と片岡汀姉妹の婚約式が執り行われます。簡単に婚約式について、お二人はもうすでに学ばれていることですが、証人となる皆様と共に、その意義を振り返りたいと思います。そして、お二人を祝福するために与えられた聖書の個所を共に分かち合いたいと思います。

 

1.婚約の意味

 

(1)婚約式は、結婚を決意した男女が、神と人との前に、誓約する式である。牧師の司式で、証人のもとに、両親や家族、友人などが出席して行い、社会的に公表し、結婚の準備を進めていくためのものです。

(2)一時的な感情や強いられてではなく、一人の男女として覚えるべき聖書の教えに基づくものです。四つの聖書箇所を覚えたい。

 ①創世記1:26-28

 26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

 

人間の尊厳と使命・・・神のかたち支配をゆだねられた男と女に造られた

 ②創世記2:7

 7 神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

 

霊的な存在、神との交わりを持つ自律的な存在として、考えや行いに責任を持つ

 ③創世記2:18

 18 神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

 

結婚による助け合いと使命の分かち合い

 ④創世記2:24-25 

 24 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。25 人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった。

 

 a.父母を離れる

 ・精神的に自立し親離れ子離れしている

 ・社会的な責任を果たせる

 ・信仰者として、神との関係を持っている

 b.妻と結び合い

 ・お互いを理解して、支え合いたいと思い、実際に二人の交わりが喜び

 c.ふたりは一体となる

 ・肉体的、性的な一致、精神的な一致、信仰的な一致

 

工ペソ3:14-21の学び

 

2.神の前にひざまづいて祈る

 

 嬉しい感謝の時ですが、祈りをもってお祝いしたいと思います。汀さんにとって、とてもしっかりした信仰の人を婚約でき事を感謝します。二人がこの調布南教会に来てくださったとき、汀姉妹は教会学校の奉仕があり、先に来られていました。そして、後から山形兄弟が来られました。私が一番印象に残ったのは、話していく中で、お父さんが牧師をされている教会のことを教会と地域が一体となっている教会だと、紹介されました。そして、そういう教会で信仰生活をされ、宣教の働きをすることを目指しておられると、お聞きしたことです。実はそれは、私が長年理想としていた教会の在り方で何回も挑戦し、うまくいかなかったことです。その点で、本当にしつかりしておられる方だと思いました。汀姉もこの調布南教会で生まれ育ち、神学校に学んでいますので、同じような使命を持っておられ、出会いました。

 きょうの聖書の個所は、使徒パウロがエペソの教会の人たちを覚えてとりなしの祈りをしているところです。ユダヤでは立って祈るのが普通だったそうです。しかし、主イエスはゲッセマネの園で祈るときは「ひざまづいて祈りました。祈りの姿勢というのは、決められていません。立っても良いし、ひざまづいても良いし、椅子に座っても、歩きながらでも良いわけです。しかし、心を尽くして、長い時間じっくりと祈る場合には、自然とこのようにひざまづいて祈る形になるのです。

 

14 こういうわけで、私はひざをかがめて、15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。

 

 祈りは天の父なる神に対する呼びかけから始まります。昔ユダヤでは、神の名をみだりにロにすると、不信仰とみなされ、だれも言わなかったために、とうとう神の名の読み方がわから なくなってしまいました。それがイエス様を通して、だれでも神様のことをお父さんと呼ぶことができるようになりました。神を父と呼ぶことは、革命的なことでした。私たちは、慣れてしまっていますから、抵抗を感じることなく、天の父なる神様といいますが、イエス様は「当時の庶民の父親を呼ぶ呼び方でお父さん、パパとか、神に呼びかけるように教えられました。これは、神様と信仰者一人ひとりがどんなに深い絆で結ばれているかを示します。ちょっと知っているというような偶像の神とは違い、一番信頼できる一番親しい、しかも全知全能のただ一人の神、だれよりも自分を愛し、配慮してくださる神に祈るということです。異邦人もユダヤ人も、一人の父のもとにあることを覚えて、信仰者は一つ神の家族の一員であり、その神を父として、信頼して祈るということです。

 

3.内なる人が強められるように

 こうして第一の祈りが始まります。16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。

 

 内なる人の成長を第にするということが、とりなしの祈りの根本です。それはどういう意味でしょうか。これからの牧会の働きは大変だから、精神的にタフになるようにというのは当たらずしも遠からずです。いろんな困難や苦しみにであっても、乗り越えていくことができるように 強くなりなさい、と願いますが、その根本に内なる人の成長を覚えます。その時、信仰者は、主によって試練と共に脱出の道が備えられていることを知っています。内なる人というのは、一般には人間の心とか、精神という人間の内面性のことですが、信仰的にはキリストの十字架と復活によって罪を赦され新しくされた人のことです。キリストの救いによって、神の子とされた人のことです。

 

 コリント人への手紙第二4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

 

 最初は生まれたばかりの乳飲み子のように、御言葉の乳を求める。礼拝、聖書、祈りを通して、成長するものとなる。その時に聖霊の神の働きがあります。

 

4.キリストの御霊が心のうちに住まわれるように

 パウロは、内なる人が強められることによらて:神の愛を理解し、神の豊かさで満たされるように祈ります。17a こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。

 ソロモンが神殿を建てるとき、神は全知全能であり、人間が造ったものに住むことなどないと知っていた。しかし、新約聖書の時代には、教会は聖霊の宮とされた。そして、信仰者ひとりひとりも聖霊の宮です。コリント人への手紙第一3章 16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。17 もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。

 そして、私たちの心の中におられる聖霊に従って歩む時、御霊の実を結んでいく。

 

 ガラテヤ人への手紙5章 22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

 獄中のパウロは、絶望感、孤独、不安、恐怖、猜疑心が渦巻いていても不思議ではありません。しかし、そうならないように、内なる人の強さをもっことができた。それは御霊を通してのキリストとの交わりがあったからです。そして、そのパウロの内なる人の強さは、他の人の愛となって広がっていきます。

 

5.キリストの愛を知るということ

 第三の願いは、すべての聖徒と共にエペソ人たちがキリストの愛を知ることができるようにという祈りです。この願いは前の願いを土台にしています。私たちは御霊によって強められた 結果として、愛に根ざし、愛に基礎を置くことになります。愛のうちに歩むよう神の御霊によって強められるときにのみ、我々は神の愛の偉大さを理解し、人間のあらゆる知識を越えたことを知ることができるようになります。パウロはここでキリストが教えられたことは、ヨハネ8章 31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」ということです。

 

 パウロは、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、キリストの愛がどれほど広く、また長く、そして深く、また高いものかを考えてみるよう導かれ、そのすべてが神の愛で満ち満ちていることを知った。この愛が、神がキリストにあって我々に与えてくださった愛なのです。

 

 パウロは聖霊によって感動させられて祈ります。神はその愛を私たちが知ることを望んでおられます。私たちは愛を通してでなければ神を知ることができないからです。神は私たちを 御自身に引き寄せ、そうすることによって慰め励まし、祝福してくださるのです。

 

6.頌栄、神を賛美する

 この祈りにおける最後は、エペソ人たちが「神ご自身の満ち満ちたさまにまで、満たされるように」ということです。そして、神を讃えることで祈りを結んでいます。本日学んだパウロの祈りは、「とりなしの祈り」です。この祈りは、教会についての教理的な教えを踏まえて、実際の信仰生活をしていくためのつなぎの役割を持っています。聖書の教えが実際の信仰生活でカとなるためには、とりなしの祈りがなくてはなりません。とりなしの祈りは、自分自身の必要のために祈ることよりも難しい。他の人に対する軽い同情や理解では、本当のとりなしはできません。聖契神学校の学びの時が二人の出会いの時となりました。神は二人を選び、結び合わせて下さるのです。到底このような導きは人の知恵や熱意だけではできません。神がしてくださったのです。神に感謝し、讃美したいと思います。そして、調布南教会の一同は、お二人のためにいつもとりなしの祈りを致します。

 

 お祈り

2022年1月16日

「片手のなえた人のいやし」マルコの福音書3:1-6   小高政宏牧師

<説教要旨>

 はじめに

 今日のテーマは、安息日になされた主イエスによる「片手のなえた人のいやしです。主イ工スは会堂にはいられました。そして、礼拝の時に片手のなえた人のいやしの奇跡をなされました。それをパリサイ人は、律法に違反したとして訴えようとしていました。

 今日はこの出来事から、三つのことを学びたいと思います。

①片手のなえた人をどのようにみるか

②主イエスの問いかけ「安息日にして良いのは、善を行うことか、悪を行うことか」

③安息日のいやしの奇跡は律法の成就

 

1.片手のなえた人への目

 この会堂に「片手のなえた人」がいました。そして、パリサイ人たちは主イエスが「安息日にこの人をいやすかどうか、じっと見ていました。それは主イエスを律法に違反したと訴えるためです。当時の律法では、安息日には、働いてはいけないことになっていました。死んでしまうような病気は別として、命に関わりのない病気を治療する行為は許されていませんでした。もし、主イエスがこの安息日に、片手のなえた人をいやせば、律法を破ったとして、訴えることができます。じっと見ていたとありますが、犯罪者をみつめる時のような視線を向けていたのです。彼らは、神様に目を向けていません。律法を守っていない他人を見つめていたのです。 

 今まで、安息日の会堂で主イエスは福音を語られ、多くの人を癒されました。その教えといやしの御業が、憎しみを生むことになったのです。パリサイ派と言われる当時の宗教的ェリートには、主イエスがおこなった力強いみ業が、彼らの律法の理解の枠では、理解できなかったからです。そして、自分たちを否定し、律法を破ることとして許せなかったからです。主イエスによって、自分たちの教えや立場が権威を失うからです。主イエスが神を冒涜しているように思われたのです。 

 

 パリサイ人たちは、この会堂にいた「片手のなえた人に目を向けた。いつもの安息日であれば、人の目につくこともなく、静かに会堂の隅に座っていたと思われます。このなえている片手というのは、ルカの福音書では右手となっています。右手はきき腕で仕事や生活のために使う方の手です。もちろん左手であっても不自由します。それは象徴的に見れば、私たちも日々の生活の中で、自分の思うようにできない。力が足りない、体力が足りない、知恵が不足していると思うような状態であるのです。私たちの弱さも、片手の萎えた人と同じに、当然のこととして誰にも注目されません。片手が不自由なことからくる困難や悩みに、誰も憐れみの思いをもって、手を差し伸べようとしません。

 このような中で、主イエスは片手のなえた人に、私たちは会堂の真ん中に立つように言われました。それは、会堂の中の位置のことではなく、信仰の姿勢のことです。後ろに座っていても真中に立つ人もいますし、真中にいても真中にいない人もいるのです。

 普段、人々がこの人にどのような目を向けていたのかはわかりません。しかし、この時、人々は確かにこの人に注目しました。しかし、それは主イエスを訴える口実を得るために パリサイ人が注目していたからです。このときもまた、前の時と同じように、この人を癒すに違いないだろうと、じっと見つめていたのです。

 

 「この片手のなえた人」がどのような人であったのかは記されてしません。年齢も家族も社会的な立場も分かりません。確かなことは、この人が会堂の隅にいたことです。このことは、当時の安息日の会堂における彼の扱われ方を表しています。彼は堂々とした態度で会堂の真ん中にいたのではないのです。当時、身体に傷害を負った者は不浄とされていました。

律法の支配する当時のユダヤ社会において、この人が宗教的にも見下されていたことは確かです。手がなえているということで、会堂の隅に追いやられていたのです。会堂で、彼の居場所がそこにしかなかったのです。そして、この人自身、手が萎えていることを心のどこかでひけ目を持ち後ろめたい思いで、隅にいることに置れきっていたのかもしれません。主イエスが会堂に入ってこられた時も、彼は自分から何か求めたわけではありません。声をかけたわけでもありません。いつも隅に座っているうちに、この人自身の信仰、主に求める思いも、どこかでなえてしまっていたのではないでしようか。

 

 主イエスは、この会堂の緊迫した雰囲気に中で、片手の萎えた人に向かって「真ん中に立ちなさい」と言われました。会堂の静寂を破って主イエスが語られた時、二つのことが起こりました。

一つは、片手のなえた人、会堂の隅にしか自分の居場所がなかった人が真中に引き出されたということです。真中に立っというのは、ただ物理的に真中の席につれてこられたことだけを意味するのではありません。隅にしかいることが出来なかった片手の萎えた人こそ、安息日に真中に立つべきものであることを示されたのです。人々が意識的か、無意識的にか、隅に追いやっていた人を安息日の中心に導いたのです。パリサイ人は、主イエスを訴える口実を得るために、じっと見ていました。

 もう一つは、主イエスは、人々の悪意の眼差しを逃げることなく受け止めたということです。「立って、真中に出なさい」の一言は、主イエスが戦う姿勢を明確に示された一言であるのです。隅に追いやられていた人を真ん中へと連れ出すと共に、主イエスはパリサイ人たちの心の内にある敵意に大胆に立ち向かうのです。

 

2.安息日にして良いのは、善をおこなうことか、悪を行うことか

ここで、主イエスは、安息日についての問いかけをしています。「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」。安息日の本質を問う問いであり、心の中にある思いを問いただすものでした。 この時、人々は、律法に縛られる中で、本来の安息日のあるべき守り方からかけ離れていました。律法主義の奴隷となり、人々は自分の体面をたもつために礼拝を捧げていました。

 

 ここで、いのちと訳されている言葉は魂を意味する言葉です。ですから、ここで、単純に命が救われるということや、肉体的な病気が癒されるということだけを意味しているのではありません。魂を生かすか殺すかということをも言われているのです。この時、会堂の人々の魂は生きていなかったのです。パリサイ派の人々のしていることは、安息日において、魂を殺してしまうことでした。本当に生き生きとした心で、安息日を過ごせなくなってしまっていたのです。そのような中で、本来、安息日の会堂で中心となるべき、癒しのみ業を必要とする人が隅に追いやられ、悪意を持った高慢な人たちが満ちていたのです。

 

 体面など考えなければ、この質問に対する答えは、簡単です。安息日に、善を行うことや命を救うことの方が、大切だということは分かり切っています。そして、病気の人をいやすということは悪ではなく、善であるということも分かっていたはずです。しかし、主イエスの問いにだれも答えないのです。

 

 黙っている人々を、主イエスは怒って見回したとあります。主イエスは、何も答えないで、ただ聞いていただけ人々を、怒りをもってこ覧になりました。ただ怒っていただけではありません。かたくなな心を悲しまれました。私たちが頑なになる時に、私たちは黙ります。何も語ろうとしなくなります。しかし、主イエスは、そのような人々の姿を悲しまれたのです。 

 神よりも人間の評価に目を向け、主イエスを律法を守らない人として訴えようとする人々の頑なな態度を悲しまれたのです。主イエスは人々の心の頑なさを悲しみながら怒って見回されたのです。これは人間の罪に向けられた主イエスの怒りと憐れみの眼差しです。

 

3.手を伸ばしなさい

 そして、悲しまれつつ、この手のなえた人に「手を伸ばしなさい」といわれたのです。この 人は言われた通りに手を伸ばすと、手は元通りになりました。これは奇跡の御業です。奇跡は、人間のカではできないことです。全知全能の神の力を示すとともに、神の愛を示すものです。会堂にいた人々が忘れていた愛を示しました。あきらめきっていた癒しを成し遂げたられたのです。信仰の力と恵みを、はっきりと示されたのです。

 この出来事の後、パリサイ派の人々は、会堂を出て行き、ヘロデ党の人々と、どのように主イエスを殺そうかと相談し始めました。主イエスとパリサイ人の対立は徐々に深まってきました。そして、この時の出来事によって、主イエスを殺そうという思いが決定的になりました。パリサイ人たちは、ヘロデ党の人々と手を結んだことが記されています。ヘロデ党というのは、時の支配者へロデ・アンテイバスの親派のことで、政治的指導者とも言うべき人々でした。それに対して、パリサイ人はローマ帝国の支配に妥協していたヘロデ党を憎んでいました。しかし、主イエスを殺すために手を結んだのです。主イエスを殺そうとする思いが、いかに強かったかを示しています。

 

 私たちは、手のなえた人が会堂の真ん中に立たされ、癒されるような礼拝を目指したいと思います。また、主イエスに悪意の眼差しを向けて、殺意をもって会堂を去ったパリサイ人も私達の姿でもあります。一方で、私達は「片手の萎えた人」でありながら、パリサイ人のようになって、救いを求めていながら主イエスに近づけずにいつまでも隅にいるのです。私たちは石のような「頑なな心」を持っています。自分の正しさを主張して、他人に悪意の眼差しを向ける姿です。これらは二つとも人間の現実、私自身の現実です。

 主イエスは安息日に、このような私たちの現実の中に来られるのです。そして、主イエスは律法を成就される奇跡を行われたのです。

 会堂を去っていった人々が抱いた殺意は後に実行に移され、主イエスを十字架につけられました。しかし復活されて、罪に死んでいる私たちの罪を赦し、新しい人としてくださいました。安息日の礼拝は、私たちを赦し新しくし、力を与えて下さる場なのです。

 

お祈り

2022年1月9日

「安息日の意味と恵み」マルコの福音書2:23-28   小高政宏牧師

<説教要旨>

 はじめに

 本日の箇所のテーマは安息日です。安息日は神がこの世界を六日間で創造し、七日目は休み、すべてをよしとされたことに起源があります。一日や一月、一年などは、自然の動きから分かりますが、一週間は神の世界創造を知らなければ理解できません。神様がこの世界を作られよしとされた喜びを分かち合う日が安息日です。

 しかしそれだけでなく、罪を犯し、エデンの園を追放されてからは、神と喜びを分かち合うとともに、救いにあずかるという面が重視されます。この世の戦いに疲れ追われて逃げている。傷や病気をいやされ、恐れや不安を乗り越える知恵と勇気をもらう。愛や忍耐する力を与えられる。そして、再び立ち上がるための時としての安息日です。

 エジプトでの奴隷状態から解放され、神の民、自由な人間として生きていくために、十戒が与えられました。その第四戒は安息日についてです。イスラエルの民はエジプトで奴隷とされ苦しめられ、休みのない、つらい生活を強いられていました。主はそこから彼らを救い出し、安息日を守りなさいと教えられました。安息日の目的は主によって与えられた自由を神の民として覚えることです

 

 私たちは、自分からはなかなか休むことができません。それは休暇が取れるとか取れないということではなくて、本当の意味での魂の安息は自分で得ることができないからです。それは私たちが、いろいろなものに支配され、奴隷状態になっているからです。霊的な安息は、私たちを捕え奴隷としている様々なカから神様が解放し、救い出して下さることによって与えられます。安息日はその神様による解放の恵みにあずかり、休みをいただくための日です。週に一日、自分の仕事、様々な働きを休んで、神様による解放、救いの恵みを覚え、礼拝を捧げることによって、自分では得ることのできない神の平安を与えられ、神の子としての生きる使命と力が与えられるのです。

 

 それから、自分だけの安息だけでなく、信仰の仲間や周囲でかかわる人たちの安息のためでもあります。家族であったり、共に生きている人々にも休みが与えられていきます。私たちが休むことができないでいると、周囲の人々もまた休むことができないのです。肉体的な休みにおいてもそうだし、魂においてもそうです。魂の安息を得ていない人は、周囲の人々をも疲れさせます。真の安息を与えられている人こそが、周囲の人にも安息を与えることができるのです。そのように、私たちにも、また周囲の人々にも、真実の休みを与えるために 神様は安息日を与えて下さったのです。

 安息日についての教えは、今日の説教原稿の終わりにまとめておきましたので、ご覧下さいますようお願い致します。

 

1.パリサイ人の批判

 パリサイ人が主イエスと弟子たちを監視して、批判しました。その批判は、ある安息日に 主イエスと弟子たちが麦畑を通っておられた時に、弟子たちが麦の穂をつんで手でもんで食べたことでした。それを見て「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言ったのです。パリサイ人の目からは、安息日の律法は絶対的な権威を持った決まりで、主イエスと弟子はそれをきちんと守らない、失格者であると批判したのです。

 彼らは、よその人の麦畑で勝手に穂を摘んで食べたのがいけないと言っているのではありません。それは律法において許されていました。空腹な時には、人の畑の作物を取って食べてもよい。しかし、自分が食べる以上に採ってそれを売ったりすることは許されていません。畑の所有者はそれを許すことによって貧しい人、飢えている人を助けるべきことを神様は決められた。 

 

 パリサイ派の人々が批判したのは、弟子たちがそうしたのが安息日だったからです。安息日には、一切の仕事をやめて、礼拝を捧げ、休むことが定められています。しかし、麦の穂を摘むことは刈り入れという仕事に当り、手でそれをもんだのは脱穀という仕事に当るからです。ユダヤ人たちは、安息日の掟を非常に厳格に守っていました。それをしつかり守るために、安息日にしてもよいこと、つまり仕事には当らないことは何か、してはならないこと、つまり仕事に当ることは何か、細かい決まりがありました。安息日に歩いてもよい距離が定められていた。その他にも様々な細かいことが規定されていました。安息日には煮炊きをしないために、前の日に作っておいたものを食べるとかです。ユダヤ人にとって安息日は今でもこのように徹底して守るべきものでした。敵に攻められた町の人々が、安息日だったので一切抵抗をせずに全滅した、という悲劇的事実すらあります。ユダヤ人はまさに命がけで安息日を守ってきたのです。

 

2.主イエスの反論、供えのパンを食べたダビデのことを挙げて

 主イエスはこの批判を正面から受け止め、それに答えられました。「ほんのちょっと穂を摘んで食べただけだから、そんな非難することはないだろう。」などとごまかしたりはしません。主イエスは3、4節でこうおっしゃいました。「ダビデが自分も連れの者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、ともにいた者たちにも与えたではないか」

 これは旧約聖書サムエル記上21章にある出来事です。ダビデはこの時既に神様のみ心によってサムエルの国を支配しているのは現在の王であるサウルです。ダビデはそのサウル王の妬みによって命を狙われ、何も持たずに逃亡をしなければなりませんでした。そして、ダビデは祭司アヒメレクの所に行き、剣とパンを求めたのです。しかしそこには、律法で祭司しか食べてはならないと定められている供えのパンしかありませんでした。サムエル記には、祭司アヒメレクがそのパンをダビデに与えた。それを、ダビデ自身が取って食べ、ともの者たちにも与えたとあります。つまりイエス様は、ダビデが自らの判断で、祭司にしか許されていないパンを食べ、供の者たちにも与えたということを示しています。主イエスはここで、神様によって王として立てられていたダビデが自分の判断で、律法では食べてはならないとされていたパンを食べ、供の者たちにも与えたように、主イエスも、安息日の主として、弟子たちの空腹を満たしてやるために、安息日にはしてはならないとされていることでも行なうことができるのだ、と言っておられるのです。

 

3.安息日は人のためにある

 ダビデの事を持ち出すことで主イエスが何を語ろうとしておられるのか。ダビデは王様としての権威を与えられていたのだから、必要とあれば律法を超えて、それに反することだってすることができた、だから自分もまことの主として、安息日の律法に反することをすることができるのだ、ということではない。王様なら律法を破ってもよい、などということは聖書のどこにも記されてはいません。むしろ王様こそ、人々の先頭に立って誰よりもきちんと律法に従って、つまり神様のみ心に従って歩むべきだ、というのが聖書の教えです。

 

 ダビデがしたことは、律法を無視して勝手に行動した、ということではないのです。そうではなくて、彼がしたことは、神様のみ心に適うこと、神様が望んでおられることだったのです。神様はダビデをイスラエルの王として選び、立て、王位を与えようとしておられます。しかし今、サウル王によって命を狙われ、逃亡中です。そのダビデが空腹によって弱り、逃亡を続けることができなくなり、サウルに捕えられてしまうことは、神様のみ心ではないのです。それゆえに、ダビデが供えのパンを食べてカづけられ、命を救われることが神様のみ心です。そのパンがそのように用いられることを、神様は願い、また喜んでおられるのです。

 ダビデのしたことは、表面的には律法に反することであるように見えます。しかし、その律法をお与えになった神様のみ心には決して反していません。神様がイスラエルの民に律法をお与えになったのは、民が神様の民として、その祝福の内に歩み、神様の守りと導きによって歩むためです。その目的のためにこそ律法はあるのです。表面的に決まりを守ることが目的ではありません。そういう意味で、ダビデと供の者たちがここで供えのパンを食べることは、律法の目的にあっており、さらにのちの人々が律法を守る模範となることでした。私たちが安息日の礼拝を守る基本精神がここに示されています。

 

 私たちも礼拝を捧げ新しい週の歩みに戻っていきますが、その繰り返しの中で神の子として成長し、天国へのたびを一歩一歩進めているのです。「人の子は安息日の主です」とイエス様は言われましたが、安息日の主は、ダビデを生かすパンを与えた人です。私たちに命のパンを与えてくださる方です。命のパンとは何でしよう。十字架で死んで私たちの罪の贖いをして下った主イエスの裂かれた肉と血です。また、神の言葉だといってよいでしよう。聖書の言葉には、神の子たちを守り、養い育てる力があります。

 

 27節で主イエスが「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言われているのは、安息日が定められたのは、人が神様による安息、救いの恵みにあずかるためなのだと言うことです。ところがパリサイ派の人々はその安息日を、逆に人から安息を奪い、人をさばくためのものとしてしまっていたのです。

 

4.安息日の主

 本日これから私たちは聖餐式で、パンと杯にあずかります。主イエスは十字架にかかって死んで下さり、肉を裂き血を流して私たちの罪の贖いを成し遂げて下さいました。その恵みを味わい、それによって養われるために備えられているものです。聖餐のパンと杯を味わうことによって、私たちは、魂の空腹を満たされ、まことの安息にあずかるのです。主イエスは 主の日ごとに私たちを礼拝へと招き、ただ神様の恵みによって与えられる安息にあずからせ、そして聖餐によって魂の飢えと渇きを癒して下さるのです。主は安息日ごとにみ言葉と聖餐によって豊かに養い、主の祝福と恵みとを与え、神の子として生きることができるようにして下さいます。私たちの主イエス・キリストは安息日の主なのです。

 

 お祈り

2022年1月2日

「主の祝福を求める」詩篇67:1-7   小高政宏牧師

<説教要旨>

 はじめに・・・・・・感謝と恵み

 今日は一年のはじまりの礼拝の時です。詩篇67篇から「祝福を求める」ことを見ていきたいと思います。この詩は収穫感謝祭や安息日の終りに読まれる詩篇でした。特に感謝という言葉がありませんが、皆で十分に感謝した後に歌われた詩篇です。農民にとって、収穫がどんなに嬉しいことか。自分の働きが報いられた。これからの1年食べ物に困らず生活が守られる。将来への備えができる。そのように、感謝が希望へとつながっている。

 私たちも新しい年の初めに同じように十分な感謝の思いをもって、「祝福を求める」祈りに導かれたいと思います。

 

 聖書で祝福という言葉は、どういう意味でしょうか。簡単に言うと、幸せです。神の愛による恵みをいただき、喜びに満たされることです。しかし、自己満足的な豊かさや成功や楽しみのことではありません。聖書の中には「祝福」と言う言葉はたくさんあります。それらを踏まえて、この詩篇から主の祝福を3つを学びたいと思います。

①天の神から神の子として頂く恵み、

②神が与えられた恵みを他の人に分け与える恵み、

③神の子としての訓練と成長による恵みです。

 

1.子が父に求めるように

 1節は、アロンの祝福と呼ばれる祈りを要約したものです。神からモーセに、兄アロンが大祭司としてイスラエルで奉仕する時に、この様に祈りなさいと教えられた祈りです。出エジプトの時以来、祭司はこの言葉によって、民のために祝福を祈り続けてきました。

 民数記6:24-26にあります。

6:22 ついで主はモーセに告げて仰せられた。23 「アロンとその子らに告げて言え。あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。24 『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。25 主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。26 主が御 顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』27 彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」

 ・神が守って下さる ・主が御顔を向けてくださる ・平安を与えて下さる、ということです。

 祝福を求めるとき、自分と神との関係を覚えて、神との約束を土台にして求める。神は私たちかに何が必要か知っておられます。この点で異教の神に御利益を求めるのとは違います。御利益宗教では自分の利益がはっきりしていて、健康でいたい、金持ちになりたい、出世したい、家が欲しい、というような願いを基準にして、どこの神社やお寺がいいということを聞い て、神様の利用価値が決まります。

 ところが、キリスト教では自分よりも先に神を考えます。神は御顔を向けて与えようとして下る祝福を与えて下さるのです。ですから、自分は祝福を受けるのにふさわしくないと思わなければなりません。そして、自分は罪人であったが、罪を赦され神の子として頂いた。神の子らしく成長し天のふるさとに帰るという目的が、神から与えられています。そのために必要なことを求めるのです。もちろん罪人としての性質がこの世に生きる限り残っていますから、自己中心的な的外れのことを求めます。それは仕方がないことです。

 

 しかし、そこから神に願い求めることを始めるのです。そして、だんだんと求める心が与えられていくのです。私たちが本当に必要な恵みを神様に求めると言う事は、簡単にはできません。どうしたらよいのでしようか。生活の必要やこの世の安定のことを無視して、霊的なことだけを祈れば良いというのではありません。大切なことは、神様との関係を深くし、そして、率直に求めることです。この世の自分に必要なものがきちんと求める中で、神が与えて下さろうとしているものを求めるようになります。それを繰り返していくことではないでしようか。

 

 神は私たちをイエス様を通して神の子としてくださいました。ですから、全く知らない人のところに行って、突然お願いを始めるのとは違います。神様の方から求めなさい、と言って下さっているのです。

 愛されている子は、自分の事だけを考えて、親を困らせるようなことを求めません。小さくてもそれなりに親のことを考えますし、自分になにが期待されているかも知っています。神の子らしく、父なる神の思いがどんなであるかを知っています。

 

 旧約聖書の時代はこの世の祝福を求め続ける時代でした。何度も何度もこの世の一時的な安定や豊かさを願い、神から離れてしまいました。イスラエルの民が、最大の祝福である救いを求めるようになるまでに、どれ程の試練を通らなければならなかったでしようか。

 祈りを通して、神との関係を築き、深めていく。そして、祈れば祈るほど、神の励ましをいただき、祈りが深められ、ますます祈るようになってし、く。神様は子を愛するお父様ですから、率直に悔い改め、願って良い。そうすれば応えて下さる。そういう関係を通らないで、本当の霊的な必要を求めることができません。

 

2.自分の祝福から世界の祝福へ

 2節「それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるた

めです。」。

 「地の上に」神の道が知られると言うのは、イスラエルを通して多くの人が神に近付く道が正しく示されるようにということです。「神の道」と言うのは、神の救いのことです。神に至る道とは、神による罪の赦しと救いへの道ということで、天国への道です。

 イエス様は、ヨハネ14:6「私が道であり、真理であり、いのちなのです。私を通して出なければだれひとり父のみもとに来ることはできません。」

 私たちに道は二つしかない。「人の目に真っ直ぐ見える道がある。しかし、その終りは死である」と箴言にあります。

 目にみえるこの地上の恵みの道は、滅びに至る道である。しかし、それは一時的なものにすぎないし、神の恵みの表面、一部分と言ってよい。ほんとうの祝福は、永遠の命と天国に続く祝福です。

 

 それに4節後半には、「国々の民」ということばが繰り返されています。天にまで届く祝福はこの地上の国々に広まります。イスラエルだけでなく、全世界に及んでいくと言うことです。

 この言葉は、出エジプト記が背景になっています。エジプトの奴隷の状態から解放されて、自由となった民がこれからどの様に生きたら良いかわからないでいたとき、「あなたがたはわたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。」と言われた。

 神の宝として、「聖なる国民」となり、「祭司の王国」の担い手になる。主である神がこのように目標を定められた。自分たちが、神様から祝福されるのは、自分たちが神の子らしくなっていくと共に、すべての民が同じ恵みにあずかるようになっていくためである。

キング牧師は、黒人差別に対して公民権運動の戦い中で、敵を呪い滅ぼすことを願うのではなく、共に主の恵みを受けるときを夢見ていました。私は、この3 ~ 4節を見て、「私には夢がある」というキング牧師の詩を思い出しました。

 

3.祝福への導き・・・・・・主の訓練と成長

 神は、アブラハムを約束の地に導く時に、「あなたの名を大いなるものにしよう、あなたの名は祝福となる」と約束されました。そして、具体的に多くの土地をあたえ、長生きし、子孫が空の星のように増え広がると言われました。この3つがこの世の祝福の代表であると言ってよいと思います。

 土地・・・商売繁盛や事業の成功、出世と同じ、長生きと子孫の繁栄・・・家内安全、健康長寿のことです。

 それだけ見ると、初詣で願うことと同じように見えます。実際クリスチャンであってもそういうことを願うことは大切です。しかし、信仰者の祈りはそれだけで終わらない信仰の深さと広がりをもっています。アブラハムは「祝福の基い」と呼ばれ、「信仰の父」とよばれ、「神の友」と言われます。

 

 祝福を求めると言うことは、神との関係で自分のための恵みを求めることと共に、受けた祝福を分け与えることの両方を意味しています。自分の信仰的な恵みと伝道の使命を覚えて、この詩篇を読みたいと思います。

 神にいつも感謝して親しい交わりをもっことのできる人は、自分が恵みに満たされると共に その恵みを分かち合うことができる人です。神の恵みを当たり前のこととして感謝を忘れる人 は、与えられた恵みが堕落や不幸のきっかけになってしまう。しかし、感謝することによって、更に使命が与えられ大きな恵みを与えられます。ですから、今の自分に感謝できるということは神の祝福です。そして、神の恵みは、不思議なことに分け与えても減らない。むしろ与えれば与えるほど大きくなる。そして、ますます本当の必要を知るようになる。

 

 4節「主が公正に諸国の民をさばき、地の国民を導かれる」

 7節「地の果てのすべての者が、神を恐れますように」

 と言う事から、主の祝福の中には、訓練があることを覚えたい。

 神によって練られ、金や銀が精練されるように純粋になることによって、本当に祝福を受けられる。ふさわしく祝福を願うようになる。祝福は、自分が変わらずに自分の回りのものが変わるだけでは不十分です。自分が変わることによって、永遠の命を受けることが一番の祝福です。

 

 6節を見ると、祝福がどういうものかを一番良く示すものは、作物だと分かります。これは霊的な祝福と同時に物質的な祝福でもある。いくら努力しても機械でりんごは作れない。どんなに実験しても米を作り出すことはできない。人間の見えないところで不思議な仕方で神様が働いてくださるから作物ができる。天気も水も栄養分もみんな備えられれば、それで野菜ができるのではない。その上それらが巧く用いられるように神が作物を考え出来るようにしてくださったからです。

 この詩ではイスラエルの民、そして、今日では信仰者は、地の産物の初なりと言えます。収穫の豊かさを示す初穂です。そのことを感謝するとき、信仰者の祝福によって諸国も救われます。信仰者は祝福の種です。その種が正しく成長して花を咲かせ、実を豊かに結ぶとき、国々の民は救いへとみちびかれていく。そのために、神の祝福の光がなくてはならない。主の祝福の光りが十分に与えられますように、お祈りしたいと思います。

 

 お祈り