説教 2021年8月

2021年8月29日

「イシュマエルの追放」創世記21:8-21     小高政宏 牧師

<説教要旨>

 はじめに

 私たちは人生で、自分の知恵やカではどうにもならなくなり、悩むときがあります。そういう時、信仰者はどうしたら良いでしようか。逃げることもできない。責任を転嫁することもできない。そうかといってそのままにしておけない。こういう時、どうしたら良いでしようか。今日の聖書箇所は、アブラハムが直面した悩みに対して、どんな解決が与えられたかが教えられています。

 

1.サラの怒りと主張

 まずどんな悩みに直面したか、その背景をみたいと思います。神の恵みによって与えられたイサクが健やかに育ち、乳離れするときがきました。大体3歳くらいの時です。当時は乳幼児死亡率が非常に高かったので、乳離れのときが来るとお祝いをしました。そのお祝いのとき、サラは女奴隷の子イシュマエルがイサクをからかっているのを目にしました。

 小さい子どもの場合、上の子は下の子が母親に大切にされているのを見ると、嫉妬して怒ります。自分が小さいとき大切にされたことを忘れて、下の子よりも自分が大切にされていないと思うからです。イシュマエルはこの時16~17歳ですが、イサクをからかう気持ちの中には、イサクが大切にされていることへの嫉妬がありました。しかも自分は女奴隷の子であり、イサクは正妻の子です。今までは族長アブラハムの子として特権的な立場にいた。しかし今は、身分の上からもイサクの方が上になる。そういう事はしもべたちの態度から分かります。そこで、表立っていじめることはできませんが、からかい意地悪をしたわけです。イシュマエルに冷静にふるまいなさいといってもまだできない。そして、冗談半分のようにイサクをからかった。

 この様子を見たサラはがまんならなかった。「このはしためをその子と一緒に追い出してください」と言った。一族のよろこばしい宴会の席が、この言葉で白けてしまったのではないでしようか。 

 この部分だけ見ると、サラは感情的な思慮のたりないわがままな女にしか見えませんが、決してそうではありません。サラは、箴言31章に書いてあるような「しつかりとした妻」です。

 「夫に信頼され、夫によいことをして悪いことをしない。家族のためによく働き、知恵深く、力と気品を身に付けている。」

 そういうサラが自分に子が与えられないことから思い違いをした。そして、そのことがサラの心に重くのしかかったまま16~17年たった。そして、長い間の積もり積もった思いがこの時爆発した。

 イシュマエルのしていることを見て、今までハガルに対してもっていた憎しみが抑えられなくなった。「このはしため」とハガルのことを言っています。サラが本当に憎んでいるのはイシュマエルよりもハガルです。その怒りは主人が奴隷に対して怒るようなものではない。奴隷に対する怒りであればあくまで自分が優位に立っての怒りです。しかし、この時に怒りは女対女、人間対人間の怒りです。ハガルは小さい時から不幸の連続でした。ずっと奴隷でしたけれども心は奴隷になりきっていない。人間としての誇りを失っていなかった。サラはハガルの心の中まで支配できなかった。

 もちろんハガルはイスラム教の祖先になる女性ですから、ほかの奴隷とは違っていたと思います。ふつう奴隷生活が長いと、希望を失い将来のことを考えない。精神的に動物のように扱われてもその時が平安であればそれでよいと思ってしまう。ハガルがそういう単なる奴隷の女であれば、サラはハガルに深い憎しみを持たなかったに違いない。ハガルはイシュマエルを産んだ女に過ぎず、あくまで奴隷である。しかし、ハガルはそうではなかった。

 ハガルはサラの召使の中で一番よく働き、健康で、忠実であり、サラのお気に入りであった。ハガルという名は「逃げる」「逃亡者」という意味で、エジプト人です。アブラハムの一族はカナンの地に来てまもなく飢饉があってエジプトに行きました。その時に、与えられた奴隷です。同じ奴隷でもほかの国にやられる奴隷はより不幸です。奴隷としての安定がなく、どうなるか全く分からないままに生きなければなりません。しかし、ハガルは一生懸命に前向きに生き、サラに仕えてきました。ことばも習慣も違う主人に仕えて、一番気にいられるようになったのです。それだけでも立派です。サラは安心してハガルをアブラハムのところに入れて子供を得ることができると思ったのです。しかし、そうではありませんでした。

 サラは、自分はアブラハムの妻であり、今は子も与えられた。どの点から見てもハガルに劣るところはない。それが奴隷ごときと同じにされてたまるか。サラのハガルに対する嫉妬、負い目、嫌悪は16~17年続いている。それがこの時爆発した。「私はハガルとは違う。私は主人であり、完全に正しく、ハガルは奴隷であり完全に間違っている」。そういう思いを抑えられない。ふつう奴隷に対してそこまでの思いを持っことはない。自分の方が優位に立っている事でそれ以上は問題にしない。しかし、サラの心の中にそうでないものがあった。そして、 イサクがアブラハムの子としてイシュマエルとは違うことをはっきりさせるために、イシュマエルとハガルを追放することを要求した。

 

2.アブラハムの悩み

 アブラハムは非常に悩みます。この悩みはこの世の悩みを代表するような苦しみです。この悩みは、この時起こった事ではなく、もう16~17年前からずっとあり、解決できない問題であった。アブラハムがそれを積極的に解決しようとすると、かえって悪いことにしかならない問題であった。そして、成り行きにまかせてこの時を迎えた。

 当時の習慣では、何人もの妻をもっことは普通のことであった。妻に子がないときには、ほかの女によって子を得ることが普通であった。ですから、そういう常識にしたがって自分の生き方を考えたら、何も問題はない。妻のサラにも、ハガルに対してもこのままで良い、と言って従わせれば良いわけです。しかし、アブラハムは違った。妻サラに気兼ねしたからではなく、信仰者として悩んだのである。故郷を出てから25年、ずいぶん遠くにまで来た。そして、地上の常識ではなく、神の教えにしたがって自分の生き方ができるようになった。そのため、今自分が置かれている状態が決して正しいと思うことができなくて悩む。族長の権威をもって、サラもハガルも争わないようにし、イサクもイシュマエルも自分のところにおいておくこともできたはずです。しかし、そうしないで、アフ。ラハムは悩んだ。サラにもハガルにもイサクにもイシュマエルにも、皆が納得し、満足できる解決はない。しかし、ここのままにしておくこともできない。なんとかしなければならないが、どうすることもできない。人生ではこういうものを皆持っている。仏教では「業」と言う。こういう問題の解決はない。逃げようとするともっと悪くなってしまう。耐えて問題が消えていくのを待っしかないと教える。キリスト教ではどうするか。アブラハムだけが苦しむのではなく、サラもハガルもイシュマエルもイサクも苦しむ。その苦しみをこの時、アフラハムは自分で一心に受け止めた。そして、悩みに悩んだ。

 

3.神が解決を示された

①悩んではならない。サラのいうことを聞き入れなさい。イサクがあなたの子孫である。

②イシュマエルも一つの国民の父としよう、あなたの子だから。

ふつうどう思うでしようか。ハカルとイシュマエルがかわいそうです。しかし、ここに真の解決がある。この問題は人間の知恵では解決できない。悩みから逃げようとして解決しようとすると、だれかに一方的に責任を押しつけたり、いま以上に悪くしてしまうことがあります。しかし、神の示したことは一時的な感情に支配されたことではない。神の導きの中で人の思いを越えた解決が約束されている。その神にアブハムは信頼する。アブラハムはさらに頭が上がらないのではない。奴隷だからと言って動物のように扱ってよいとは考えていない。アブラハムは妻にも言えない心の中の葛藤を神がご存じであり、解決の道を示してくださったことに、心から感謝とし、自分は人生のすべてをかけてこのお方に従っていこうと決断した。自分のすべてをこの方ならささげて悔いはない。そういう思いを持ったのではないでしようか。

 22章で、イサクをモリヤの山に連れていって生け贄として捧げなさいという命令を聞くと、それに従順します。その決断は、この時の思いが下敷きになったことと思います。 

 

4.アブラハムの誠実さと神の計画

 翌朝早く、アブラハムは自分でハガルとイサクを送り出しています。ただサラの言葉に圧倒されて、無責任に追放するならば、自分で送り出したりしない。それはアブラハムにとって、一番つらいことです。ハガルよりもアブラハムの方がつらかったかもしれない。アブラハムには神に信頼すると言う拠り所があるが、ハガルにはないからです。しかし、この時のハガルも偉い。泣き言ーっ言わず出ていく。アブラハムはハガルにパンと水袋を肩にかけてやっただけです。しかし、ハガルはこれでは生きていけません。イシュマエルも私も死んでしまいます。そういう泣き事を一切言っていません。ハガルはイサクが産まれたときからこうなるのを知っていたのかもしれません。知っていてもどうすることもできなかった。つらい立場です。しかし今こうして奴隷から解放され、自由な人とされました。

 ハガルは子供と一緒にエジプトの方に向かって歩き始めました。べ工ル・シェバはユダの南の荒野です。女と子供だけでこの砂漠を抜けることはできません。途中で干からびて死んでしまう。疲れ、水袋の水がなくなると、ハガルはイシュマエルを木陰に横たえました。イシュマエルは焼けっく暑さの中で乾きのために死に掛かっていた。ハガルはイシュマエルが死ぬのを見たくなかった。イシュマエルを横たえると、矢の届く距離のところにいって自分も座り込んでしまいました。そして、どうしようもなく泣きだしました。母の泣き声を聞いてイシュマェルも泣き出しました。

 それを神は聞かれました。そして、神の御使いが天から声を掛けられました。肉の父は捨てて何もしてくれなくても、霊の父は違う。助け導いて下さいます。絶望のぎりぎりのところで神は二人を守られた。ハガルの目が開かれました。そして、井戸を見つけました。今までハガルには見えなかった。一番必要なものを発見した。

 死のうとしていた者がみことばによって目を開かれ、命の水を見つけ、力を与えられて逞しく成長する。もし、イシュマエルがアブラハムの天幕で贅沢な生活をサラやイサクに気兼ねして過ごしていたら、強いーっの国の父となるような男にはなれなかったでしよう。もうアブラハムのところには、成長するために必要な条件がなくなるときであった。族長の子として育ち学んだイシュマエルには、砂漠の厳しさが必要であった。そこでほかの者に気兼ねなく争い、強くされていくのである。

 この様に、その時には私たちの心を痛め、耐えられないほどっらいと思われることであっても、後になって神からのものであることがはっきり分かるときがきます。ハガルとイシュマエルには冷たいと思われる神の決定は、実は関係する皆を自由にする恵みの導きでした。こうして、アブラハムはもうーっ荷をおろし、天の故郷目指して前進します。

 

お祈り

2021年8月22日

「イサクの誕生」創世記21:1-7     小高政宏 牧師

<説教要旨>

 はじめに

 きょうの説教は「イサクの誕生」についてです。私たちは新約聖書を知っていますので、実際に赤ちゃんが産まれることと、霊的な誕生である新生を区別します。しかし、旧約聖書の時代にははっきり区別して考えませんでした。イスラエル人は契約の民として、産まれたときから神の子とされ、新しく生まれ変わるという考えはありませんでした。

 きょうはアブラハムが長い間待ち望んでとうとう与えられたイサクの誕生について、霊的な誕生と新しい命の誕生の両方について聖書に沿って学びます。

①約束の子の誕生の時について

②命名と割礼、イサクの誕生は主イエスと信仰者の誕生のひな型

③主にあっての喜びと笑いについて

 

1.約束の子の誕生の時

 1節に「主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。」とあります。イサクの誕生の時は、「約束されたとおり、仰せられたとおり」とあるように、主の計画によって実現しました。しかし、アブラハムとサラの立場から見ると、待ちに待ちやっと実現したと思えます。神の計画は信仰者の目で見るとき、あまりにも遅く感じられのではないでしようか。神の約束を待っことで、信仰者は神との交わりを深め、真に必要なものが何かを知ることができるのです。

 アブラハムに子孫が空の星のように数え切れないほどたくさん与えられる、という最初の約束を与えられました。主は確かにみことばをもってはっきりと言われました。しかし、それがいつ実現するかについては言われませんでした。普通ですと、人の約束は長い時間が経つと曖昧になり忘れられてしまいます。しかし、神の約束は曖昧になるどころかますますはっきりしてきます。人間の約束も全知全能の神が間に立つときには、基本的に神の約束と同じです。しかし、人間の側の都合で神を忘れることもあります。人間が強ければ神も強く、人間 が真実であれば神も真実、人間がいい加減らなれば神もいいかげんになる。しかし、聖書の神は人間がどんなであっても、変わりなく約束はかならず実現します。その実現までに25年かけたのは、主のみこころであり、深い配慮でした。主はイサクを信仰の父の子として、神の約束を引き継ぐ者として与えるためでした。

 25年の間はどうだったでしようか。75歳で故郷を後に約束の地に出発した。その時に最初に多くの子孫が与えられると言う約束をいただいた。ロトと別れた後、ソドムの町が大きな国に略奪されたとき、318人のしもべと共に追いかけ、戦いに勝利して財産も人も取り戻した。その時、王の位も冨も得ることができたが、アブラハムは跡取りとなる子が欲しいと願った。

 神の約束の前にアブハムは、初めからしっかりとした信仰を持ってすこしも疑わずに信じ待ち望み続けたのではありません。疑いも失敗もしました。焦り、とうとう諦めて、86歳の時にサラの提案で女奴隷ハガルによってイシマエルが与えられた。99歳の時、一族皆が割礼を受けた。そして、100歳で約束の子イサクが与えられた。約束を与えられてから25年間、待ちに待った子供が生まれたのです。神の契約がだんだんと具体的なものとされ、信仰がより確かなものとされていったのです。

 何故すぐではなく、祈りながら待たなければならなかったのか。それは救い主の誕生のために必要だったからです。イエス様の母マリヤは、旧約聖書のサラとハンナの信仰を覚えています。主はサラがどんなに子が欲しかったかを知っておられました。ハンナは泣いて祈り求めました。それは本当の救いの恵みは信仰によって神によってしか与えられないことを知らせるためでした。

2節「サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。」

 この「その時期」というのは、主の使いが「来年の今頃」と言われた言葉の通りです。さらに大きく見ると、主の救いの計画の中でアブラハムとサラがその使命を担うことができるときであったのです。

 

2 .割礼について、イサクの誕生は主イエスと信仰者の誕生のひな型

 そのことは、人間的な喜びよりも主が命じたことを第一としていることから分かります。

3節「アフラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。」

4節「そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。」

 彼は子供をイサクと名付けました。それは17章19節で神様から示されていた名前です。アブラハムは神様のみ言葉の通りに子に名前をつけ、また「神が命じられたとおり、八日目に、息子イサクに割礼を施した」のです。彼が神様の恵みを心から喜び、感謝して、み言葉に聞き従った姿がここにあります。

 産まれてから8日目にアブラハムは割礼を施しました。これは神が命じられた通りとありますが、もうすでにアブラハムとその一族全部に命じられたことでした。99歳の時に神が契約に対して真実であることを確認し、契約のしるしとして割礼がアブラハムと子孫に命じられました。

 それは、神の民であるしるしであり、新約聖書の洗礼に当たるものです。洗礼はキリストの十字架の贖いによって、罪人である自分の罪がすべて許されたことを信じ、自分も十字架に死に、新しい人として復活したしるしです。神の家族の一員である神の子としての霊的な誕生のしるしです

 それでは、主が命じた割礼はどのような意味をもっているのでしようか。

①身体の一部を傷つけますが、血が流れ痛みます。その事で自分を犠牲にする覚悟を表明する意味を持っていました。アブラハムに示された割礼では、神の愛への応答としてのものです。それが一番はっきりと現れているのは、キリストの十字架においてです。イエス・キリストの十字架によって、割礼は洗礼に変わりました。 

モーセは、40年の荒れ野の生活のあと、燃える柴が燃え尽きないのを見て、主によって、忘れかけていたエジプトで奴隷になっていた自分の同胞を救うという使命を思い起こした。そして、エジプトに、妻と子を伴って旅立った。その途中、割礼を受けることを命じられて、施した。それを見た妻は「あなたは血の花婿です」と言って、エジプトに向かうモーセと別れて実家に戻った。

②傷つけるだけでなく、包皮の一部を切り取る事によって、身体をささげることに通じます。

イエス・キリストは自分の一部だけでなく、十字架上で命を捧げられました。

ヨシュア記5章に、40年荒れ野の生活の後、モーセやエジプトを出たとき20歳以上の人達は皆死に、新しい世代がヨルダン川を渡って、約束の地に入った。その時、まだ割礼を受けていなかった人たちすべてに割礼を受けさせた。そして、過ぎ越の祭りをして、もうマナは降ってこなくなり、約束の地で取れたものを食べるようになった。新しい生活が始まる区切りとなりました。

3.主にあっての喜びと笑いについて一 

5節「アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。」

 ここでもアブラハムが年をとっていて、人間には不可能なことが神によって実現されたことが強調されています。人がこの世で知ることができない大きな喜びを与えられたのです。

6節 サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしよう。」 7節 また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる。』と告げたでしよう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」

 妻サラにとっては、この喜びと感謝はさらにどんなに大きなものだったでしよう。

 サラの喜びは「神様が笑いを与えて下さった」と言い表されています。アブラハムもサラも、一年前にイサク誕生の約束を告げられた時に笑いました。その笑いは、「神様、今さら何を言わられるのですか。こんな年になって、私たちに子供が生まれるはずなどないでしよう」という、神様のみ言葉を信じることができない皮肉な笑いでした。しかし今、神様の恵みによって本当に子どもが与えられ、約束の成就を体験し、心の底からの曇りのない感謝と喜びの笑いを与えられたのです。「イサク」という名前は「笑い」という意味です。神様の約束の成就の体験は、人にこのような笑いを与えるのです。

神が私を笑わせて下さった。と言った時のサラの喜びは、イエス様の母マリヤが神をたたえて読んだ賛歌と同じものだったのではないでしようか。

ルカ1:46-48「私のたましいは主をあがめ、私の霊は救い主なる神をたたえます。主はこの卑しいはしために、目を止めて下さったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も私を幸せ者と思うでしょう。」

 私たち信仰者は、このような笑いを神様から与えられています。私たちは、この世の現実がどんなに暗い、悲しいものであっても、心の中心に明るさ、笑いを持って生きることができるように、神が救い導いて下さっているのです。それが信仰者の人生です。

 いつかは知れないが必ず実現することとして、私たちは終末の約束に生きています。アブラハムにとってイサクが与えられることは、私たちが、キリストが再臨して天の御国の栄光に入れられることと同じ意味を持っていたのです。

 

お祈り

2021年8月15日

「同じ失敗を繰り返し」創世記20:1-18     小高政宏 牧師

<説教要旨>

 はじめに

 アブラハムに男の子イサクが誕生する前、二つの大きな出来事がありました。

 一つはソドムとゴモラの滅亡です。それからもう一つは、移ったゲラルの地で、アブラハムの妻サラを犠牲にする失敗です。しかもこの失敗は、25年前にした失敗と同じです。75歳のとき神の言葉にしたがって約束の地カナンに行きました。着いて少し経ったときその地が飢饉になりました。そのために食料を求めてエジプトに避難しました。

 その時、アブラハムはエジプトの王の権力を恐れ、自分たちの身を守るために、奥さんのサラに妻であることを隠して妹だと言ってくれ、と頼みました。そして、奥さんのサラはエジプトの王にそばめとして王宮に召されました。妻サラはどんな思いで耐えたのでしようか。しかし、主は、夫と一族のために、自分を犠牲しようとしたサラを顧みて守って下さいました。

 なぜ、25年たって同じ失敗を繰り返したのでしようか。きようは、私たち自身が失敗したときのことを覚え、罪に対する姿勢と妻の助けがどんなに大きな恵みであるかを覚えたいと思います。

 

1.なぜアブラハムともあろう人が

 アブラハムが失敗を繰り返したのは、まだ信仰が未熟だったからとはいえない。また、悔い改めが真実でなかったからともいえない。妻サラのことを思い心底悔い改めたと思います。そして、サラは少しもアブラハムを責めませんでした。

 むしろアブラハムのような信仰者であっても、失敗を繰り返すと言う事を覚えたいと思います。それぞれの人のもっ弱さや恐れは根深いものです。普段は見えなくとも、油断したり、困難な状況に陥るとその弱さが現れてしまいます。罪の性質は生きている限りなくならない。人生のその時々に、いろんな形で現れてきます。サタンはいつも隙を狙っています。信仰が進んだら、もう罪を犯さないということはない。進んだ信仰の人にはそれなりの試練や誘惑がある。そして、その罪との戦いでさらに清められ成長する。真剣に失敗を受け止めるとき、そ の試練には深い神の導きのための必要な理由がある。

この時のアブラハムにとって、この失敗は、主の祝福として男の子イサクを受け止めるための訓練であった。

 きょうの聖書箇所を見ていきましよう。

 アブラハムはカナンの山地に住んでいました。そこからネゲブに行ったとあります。アブラハムの居たところとソドムの町は50キロくらい離れていました。ソドムが全滅したことは、アブラハムの一族にとってショックでした。恐怖と悲しみに包まれたことと思います。ロトの一族がどうなったのかも知れません。精神的なショックだけでなく、実際に気候の変化で、飢饉が起こったのかも知れません。地震で地下から天然ガスが吹き出してきた。それに火がついて空から火が降ってきた。その火がさらに地上に沸き出した石油に移ってすべてを焼き尽くした。火は消えても、周辺に大きな影響を与えた。家畜が不安定になり、さらに飢饉になったのではないかと考えられています。そのため、以前と同じ生活をできなくなってしまい、あわただしく移動した。そして、カデシュとシュルの間のゲラルに移って住み着いた。そこで、その地を治める王の家来に見つかった。そこで、恐れのために嘘をついてしまった。

 男の子を来年与えられるという約束は、アブラハムにとってどんなに大きな喜びであったか。地に足が付かない。舞い上がっていた。細かい生活のことなどに注意が向かない。そういう時に、ソドムとゴモラの町が天からの火で滅ぼされた。その影響がアブラハムの住んでいた所まで及んだ。そのため移動しなければならなかった。祈りつつ主の導きにしたがって移動すれば、今回のようなことにならなかったはずです。しかし、そういう余裕がアブラハムになかった。

 

2.アビメレク王と神とのやりとり

 1節「アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住みついた。ゲラルに滞在中、アブラハムは、自分の妻サラのことを、「これは私の妹です。」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。」

 妻のサラはアビメレク王にそばめとされそうになった。その夜、王の夢の中に神が現れて、仰せられた。6節「神は夢の中で、彼に仰せられた。「そうだ。あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた。それでわたしも、あなたがわたしに罪を犯さないようにしたのだ。それゆえ、わたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。」

 神は信仰のないアビメレク王は彼なりに正しい心で行ったことを認め、罪を犯さないようにするために、告げたのです。それはアブラハムとサラが罪を犯さないようにするためであった。まもなく男の子を産む事になっているサラを罪と汚れから守り、祝福するためです。

 それからまた、アビメレク王がアブラハムを非難し罰をあたえないようにし、アブラハムを尊重し恵みを受けるように言われました。

 7節「今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。しかし、あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。」

 そして、解決する方法を示されました。サラをアブラハムに返し、預言者であるアブラハムに祈ってもらうように、と命じた。この時、アビメレク王の一族は病気になっていたのかもしれない。アブラハムの執り成しの祈りによっていやされたのである。

 

 アビメレク王の前のアブラハム

 アブラハムを呼び寄せて「何と言う事をしてくれたのか。あなたはしてはならないことを、私にしたのだ。」と問い正します。何も罪のない者たちに、嘘をついて罪を犯させることなど考えられない。どういうつもりなのだ、言っています。アビメレク王に立場で考えれば、当然な言葉です。

 それに対するアブラハムの答えを見ましよう。弱い信仰者の弁明の典型と言えます。

 11節「この地方には、神を恐れることが全くないので、人々が私の妻のゆえに、私を殺すと思ったからです。」と、言っています。彼に恐れから逃れようとして嘘をついたのです。その地域がまったく神を恐れなかったというのは、アブラハムの知る限りでは事実だったと思います。アブラハムは動揺し、つい本音を言ってしまった。自分だけが悪いのではなく、自分がそうしたのは、お前らが悪いから自分を守るために仕方なくしたのだと言う意味です。

 しかし、それはアビメレク王の態度をみれば、間違っていることが分かります。信仰者は自分たちだけが信仰深く、そうでない人は不道徳であると考えるが、それは高慢であり、間違っています。信仰のない人のほうが道徳的に立派なことがある。

 まず、アブラハムはカッとなって自分を正当化し責任転嫁しようとしたのです。それから次に事実を自分に都合よく話して自分の責任を軽くしようとします。12節「ほんとうにあれは私の妹です。」といって、自分のついた嘘がまだ真実だと認めてほしいというように弁解しています。しかし、この時に問題なのはサラがアブハムの妻であるかどうかと言う事です。本当に妹であったとしても言い逃れに過ぎません。確かに彼は半分の真実を話しましたが、半分の真実は嘘に等しいということが、ここでわかります。

 

3.アブラハムの失敗からの立ち返り 

 しかし、だんだんと自分の誤りに気付き立ち直っていきました。アダムはエバ、エバは蛇に責任を転嫁しようとしましたが、アブラハムはサラに転嫁しません。自分に責任があることをはっきり告げています。 

 13節「神が私を父の家からさすらいの旅に出されたとき、私は彼女に、『こうして、あなたの愛を私のために尽くしておくれ。私たちが行くどこででも、私のことを、この人は私の兄です、と言っておくれ。』と頼んだのです。

 アブラハムの弱さは、小さい子供が困るとお母さんと言って頼るように、奥さんのサラに頼るところにあった。それ以外にアブラハムの一族が陥った危機からから助かる方法はなかったと考えた。その事に気付いたに違いない。アビメレク王の非難の言葉は、アブラハムにとって耐えられない厳しい言葉と思われたに違いない。自分の誤りをはっきりと示され、責められる思いだったに違いありません。しかし、信仰者としてのしつかりとした姿勢をアブラハムは取りました。相手に反発して責任転嫁や言い訳するのではなかった。そういう不信仰な対応をしなかった。アブラハムはこのとき、自分の十字架を負うことを知ったのではないか。確かに反発し、言い訳しましたが、自分一族を守るために犠牲にしようとした妻のサラに心を向け、かばっています。そのために自分をささげようとしたのです。

 妻をかばうことが、産まれてくる子供をともに喜び迎える備えとなります。アブラハムはここで妻の大切さを心底理解した。妻の大切さが分からなければ、子供の大切さも分かりません。子供は自分の財産の一つにすぎないものとなります。しかし、子は夫婦二人に神が与えてくださる祝福です。子供はものとは違う。この体験が、この先で、ハガルとイシュマエルを追放する体験とイサクをささげよと命じられる体験の伏線となっています。

 アビメレク王は、夢の中の神の言葉に従い、預言者としてアブラハムを認め、驚くほどたくさんのものを与えました。羊の群れ、牛の群れ、男女の奴隷を与えました。妻サラを返し、アブラハムの住むために良い畑、それから銀1000枚を与えたのです。

 アビメレク王からたくさんの贈物を受けたアブラハムは彼等のために祈りました。神はこの祈りを聞き入れ、アビメレクとその一族をいやされました。こうして、アブラハムは失敗を通して一回り大きな信仰に立つことができたのです。祝福の基となる訓練が進みました。

 

お祈り

2021年8月8日

「ソドムとゴモラの滅亡」創世記19:15-38     小高政宏 牧師

<説教要旨>

 はじめに

 ソドムとゴモラの滅びはノアの箱船の時の大洪水とともに、神のさばき(火と水による罪のさばき)と救いを教える代表的な出来事です。きようは、先週の続きのところから、神のさばきから救われたロトのことを通して、神の正義と愛を受け止める信仰の姿勢を覚えたいと思います。

 

1.ためらうロトと家族を町の外に

 先週の個所では、ソドムの町の人たちがロトの家の周りに押し寄せ、二人の客を外に連れ出せと要求しました。み使いはロトを助けました。そして、婚約中の二人の娘の婿たちのところに行きソドムの町から連れ出すように言った。

 夜明けに、主の御使いは「さあ立って、あなたの妻と、ここにいる二人の娘たちを連れていきなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼしつくされてしまおう。」と言った。しかし、ロトはためらった。二人の娘と婚約している婿にこの町から早く逃げるように説得にいったが、冗談としか受け止められなかった。ロト自身、この町がすぐに滅ぼされると真剣に思っていなかったのかもしれません。そのため婿たちを説得できなかったのか。また、それと 反対に優秀な婿たちが冗談だと思ったので、ロトも影響されて大丈夫だと考えたのかもしれません。とにかく口トはすぐに町を出るのをためらった。

すると、主の御使いはさらにロトを説得するのではなく、強引にロトの家族4人の手をつかんで町の外に連れ出した。二人の御使いの手は4本で4人が連れ出された。救いは自分の判断ではなく、手を引かれて外に出ることなのです。自分の住んでいるところから外に出ることです。心だけでなく体ごと自分のすべてが、罪の満ちている世界から外に出ることです。

 

 イエス様は、ご自分のことを「道」ともいい「門」とも言いました。それを通って外に行く、この世の外である天の御国に行くのです。ただ外に出るだけなら、逃げ出せばよいのだから、たくさんの道があるように思えますが、一つしか道はない。外に出る方法は一つしかない。道は一本しかない。主が手を引いてくれるしかない。

 ヨハネの福音書14:6「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。私を通して出なければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

 こうして、主の御使いは町の外に連れ出してくれた。しかし、それで救いが終わったのではありません。そこから信仰者としての歩みが始まります。どうせなら、ずっと山の上まで連れて いってくれたら良いのですが、そうしない。手を引いてくれるのはここまでで、ここからは自分の足で逃げなさい、と言われた。これから先、信仰者の人生が続く。神の子として清められ、訓練されて、天の故郷に近づく歩みです。町の外に出たら、すべての悩みも不安も苦しみも解決されて、恵みが満ちているわけではない。根本においては最終的な救いは約束されています。町の外からさらにずっと遠くまで行く人生が続いていきますが、必要な助けは用意されています。その時々に助けを求め、信頼していくことで、神の子として成長し、天国に近づいていくのです。神は、「自分で山に逃げなさい」と言いましたが、後はもう助けてやらないと言うのではありません。自分でやりなさい、という中に、もうできるように、神がすべてを備えて、その上でやりなさいと言っているのです。

 

2.目標を目指して走れ

 しかし、御使いに手を引かれてソドムの町の外に出ればそれでもう安心ということではありません。17節で、救われた者の生きる姿勢を4つ言われています。

 

①いのちがけで逃げなさい。生きる姿勢が根本から変わった。新しい命を与えられた神の子として生きる姿勢をいのちがけといった。

②うしろを振り返ってはいけない。これは過去を一切無視しなさいと言うことではない。過去の価値観、空しい生き方にはっきりと決別しなさいと言う事です。大切にしなければならない過去もある。

③低地のどこででも立ち止まってはならない。旅人としていつも前に進んでいく生き方です。

④山に逃げなさい。天からのさばきの火が届かないところを目指して進めということで、山は天国のことであり、礼拝の場のことでもあります。しかし、ロトにとっては、山は非常に遠いものであり、自分の今のカでは及ばないと思えた。自分の力と山と言う神の示す基準とはあまりにかけ離れているとしか思えなかった。

 

 ロトは、み使いのことばを恵みと励ましのことばとして受け取ることができず、厳しい律法を守ることのように、受け止めたのです。詳しく見てみましよう。「このしもべはあなたの心にかない」と、自分の行いが主に良いと認められたと思っている。町にきた二人の人を大切なお客さんとして家に泊め、町のハレンチな男達から自分の二人の娘を犠牲しても守ろうとした。だから、主が自分を助け、命を救って下さると思っている。もう少し簡単な方法ですくってもら えると思っている。

 しかし、実際はロトの思いとは全く違う。本日の箇所の29節に、「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された」。ロトが破滅のただ中から救い出されたのは、神様がアブラハムを御心に留めて下さったからだ、とあります。それは、神様の民イスラエルの先祖となるアブラハムの甥であるという血縁的な関係があるから、神様はロトを救って下さったということではありません。

 「アブラハムを御心に留め」というのは、アブラハムがしたことを神様が御心に留めて下さったということです。アブラハムはソドムの町の人々のために、そこに住む甥のロトのために 神様にとりなしをしています。このアブラハムのとりなしを神様が御心に留めて下さったので す。ソドムとゴモラの町を滅ぼすことをアブラハムに打ち明けた時、「もし正しい人が50人いたら……と10人いたらと、アブラハムは必死に執り成した。そのためにロトの家族は救われるのです。

 ロトはこの時アブラハムのとりなしのことを少しも考えてない。自分の行いによって恵みを得たと思っている。そこで自分の今のカでできるように、み使いに注文を出す。神の力を信じてゆだねるのではなく、自分のカでできそうなこと言って、助けてくれるように求めています。

 アブラハムのとりなしは、最終的には「ひとり子イサクをささげなさい」ということにつながっている。そして、それはイエス・キリストによって成し遂げられた。ロトには罪の自覚、神の前に自分は罪人であると言う意識がない。目先の困難から逃げられればそれで言い。こういう神の本当の救いの恵みを知らないとき、神のことばを自分に合わせて小さいものにしてしまう。自分のカでできることをし、自分の知っている恵みを与えられることだけを求める。ロトは「逃れるのに近いところを」求めました。それは御心にかなわない不信仰な願いです。しかし、それを主のみ使いは聞いて下さいました。

 ロトは太陽が地上に上がった頃にツォアルという、低地の5つの町のなかで一番小さい町に着きました。夜明けから昼まで必死に逃げた。この小さな町はもとはべラーという名でしたが、小さいもの、取るに足りないものと意味のツォアルという名に変わった。

 

3.とりなしによる救い

 ロトが自分の救いを願ったよりも、神様はロトの救いを願っておられます。神様の熱心な憐れみによるロトの救いは、ソドムへの厳しいさばきの中で起っています。神様の愛と憐れみは、罪に対する厳しい怒りとひとつなのです。神様は、私たちの罪を、決して放ってはおかれません。罪に対してさばきを下します。しかしそれと同時に、大きな愛によって私たちを救って下さるのです。この正義と愛のことは、主イエス・キリストの十字架にはっきり示されました。十字架において、人間の罪に対する神様の厳しい罰を引き受けてくださいました。十字架につけられた者は、神様に呪われて絶望の内に死ぬのです。神様に逆らい罪の中にある私たちは、さばきを受けなければなりません。しかし神様は、そのさばきを、私たちの上にではなくイエス・キリストが代わって受けたのです。主イエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って、十字架にかかったのです。ご自身のひとり子をさえ犠牲にして下さるほどの神様の愛によって、私たちは罪を赦され、神様の民として新しく生かされているのです。

 

4.後ろを振り返るな

 ロトとその家族は、この神様の憐れみによって、救いへの道を歩み出すことができました。しかしロトの妻は、その道において、後ろを振り返ったために塩の柱となってしまいました。なぜ振り返ってしまったのでしようかふつうソドムの町に残してきた自分たちの財産や、そこでの豊かな生活への未練のためだと言われます。逃れ出てきたはずの古い罪の生活を振り返り、なつかしく思ってしまった。それからもうーつのことを覚えたいと思います。ロトの妻は後ろを振り返ったのは彼女が、神様がソドムの町に下されるさばきのみ業を自分の目で見て、自分が救われたことを確認したかったのです。自分たち家族はそこから逃れ、救われているが、救われなかった人々はどうなっているのかを知りたかったのではないでしようか。自分の救いのために必死になって、前のみを見つめて、命がけで走らなければならない時なのに 足を止めてさばかれる人の姿を見ようとしたのです。その結果「塩の柱」になってしまった。前進すべきだと示されているのに、後ろ向きになってそこに平安と救いを見ようとしてはならないのですそれはすくいを拒否することと同じです。後ろを振り返るとはそういうことです。

 

5.恐れと孤立ではなく、さらに大きな恵みをめざせ

 小さな町ツォアルに逃れたロトと二人の娘は、そこに止まらずに山のほうにいって洞穴に住みました。恐ろしかったからです。何も持たないで知らない人の中にいることが怖かった。それまではたくさんのものを持ち、誇りを持っていましたが、それを皆失ってしまった。本来ならば、ここで神に立ち返り。信仰が深められる時です。

 ロトが、山の方にいったのは、み使いが初めに逃げるように告げたところだからでもあります。しかし、時を外すと同じ山に行くことが全く違った意味になってしまいます。ツォアルにいってそれから主の示した山に行くときには、その山に行くことはソドムに戻ることと同じことになってしまうのです。神に近づくのではなく、神から離れることになりました。

 二人の娘は孤立し、そこからなんとか自分たちの未来を築こうとして必死だったに違いありません。本来なら、新しい地での素晴らしい生活を主が備え、婚約者を失っても新しい人が与えられ、希望を持って生きることができるはずです。ところが、二人の娘にはそういう思いが与えられませんでした。ロトにこの点では大きな責任があります。絶望的な決断をして、実行しました。父親によって子供を得たのです。

 

主はアブラハムとの約束にしたがってロトを救いました。アブラハムは自分の執り成しを主が聞いて下さったことを知ったとき、主の真実を心の底から理解し喜んだと思います。ところが、ロトの信仰は根本的に少しも変わっていない。二人の娘に幸せをもたらすことができなかった。私たちは人生の試練を越えて、神に近づき、さらに大きな恵みを目指したい。

 

お祈り

2021年8月1日

「ロトの生き方」 創世記19:1-14     小高政宏 牧師

<説教要旨>

 はじめに

 きょうは、アブラハムの甥のロトの信仰と生き方について見ていきたいと思います。ロトは非常に現代人に近いタイプの人です。特に日本人の信仰と同じような面をもっています。ロトは、実際に社会的に成功したいという思いと信仰の面でも誠実に生きたいという二つの面を同時に実現しようとした人です。

 

1.ロトという人

 ロトと言う人はどんな人であったか。

 アブラハムの父はテラで、3人の子があった。誰が兄でだれが弟であるかはわからないが、推定では、

 

アブラハム … 次男

ナホル   … 三男 妻の名はミルカでハランの娘だったので、かなり年下。

ハラン   … 長男 ロトの父

 

 一家はカルデヤのウルという大都市に住んでいたが、長男のハランが早くに死に、一家は旅立ち、かなり離れたカランに移った。そこで父テラが死んだ。ナホル一家はカランにとどまった。アブラハムは神の召しを受け、さらに約束の地を目指した。ロトも一緒に出発した。約束の地カナンに着いてまもなくその地は飢饉になり、食料を求めて、エジプトに下り、豊かになって約束の地に戻った。土地が狭くなり、アブラハムとロトのしもべたちの争いがあり、分かれることになった。 

 アブラハムは先にロトに好きなところを選ばせた。すると、ロトは豊かなヨルダンの低地を選んだ。そして、ロトの一家はだんだん豊かになった。しかし、戦争に巻き込まれて、財産を奪われ、奴隷と連れて行かれた。アブラハムと318人のしもべたちは敵を追いかけ助け出した。その後、ロトはソドムの有力者となった。それから20年近い年月が経った。この世の基準だけで見ると、ロトはアブラハムよりも豊かで、社会的な地位もある。

 アブラハムは信仰第一の生涯を目指したが、ロトは信仰もこの世の成功も両立させようとした。そして、彼なりに成功した。

 当時の町は、城壁に囲まれ、門のあるところしか入れない。門を入ると広場になっていて、そこで商売や裁判や会議が行われた。長老が当番で門の管理をすることになっていた。ロトはその有力者の一人となっていた。

 そこに、アブラハムのところによった後、三人のうちの二人がロトのところにやってきた。アブラハムのいたところからソドムまで50-60キロメートルあるが、午後出発してタ方着いた。 

 

2.ロトにあった信仰生活の習慣

 ロトは二人のみ使いを見ると、アブラハムがしたのと同じように、丁寧な挨拶をした。それから、自分の家へ招待します。広場に泊まりますと遠慮したが、そこは危険なので、しきりにロトの家に泊まるように勧めました。そして、家に招くと、食事のもてなしをしました。アプラハムほどではないが、ご馳走、種を入れないパンでもてなした。これは、長い間に身に付いた信仰生活の姿勢によってである。

ロトはソドムのもともとの住人ではなくて、よそ者であり、寄留者なのです。ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していました。ソドムは悪徳の町でした。その町に、主なる神様を信じる信仰者であるロトが移住してきたのです。信仰者ロトは、この町の人々の罪に染まらない、信仰による健全さを持っていました。そのため、町の人々から尊敬され、町の指導者の一人となっていった。しかし、全面的に受け入れたのではありません。そのことは、本日の箇所の9節で、町の者たちがロトに対して「こいつは、よそ者のくせに、指図などして」と言っていることから分かります。

 ロトはよそ者ながら、町の人々に指図をするような指導的地位に着いていたのです。

 1節に、「ロトはソドムの門のところにすわっていた」とあります。町の門のところには広場があり、そこに町の長老たちが座っていて、大事なことを決めたり、もめ事を裁く裁判が行われていました。ロトもその一人だったのです。

 

3.ソドムの人々の要求

 信仰生活を守って生きようとしても、それができなくなるようなことが迫ってきます。 聖書で ソドムの罪として

 

姦淫を行い偽りに歩む       … エレミヤ23:14

公義を行わない          … イザヤ1:10 不正があふれていた

富に高ぶり、貧しいものを顧みない … エゼキエル16:19などがあります。

 

 また、ペテロの手紙第二2:7-8を見ると、ロトは「無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた。…日々正しい心を痛めていた。」とあります。今まで、ロトの家族はソドムの人々とどうにか折り合いを付けてうまく乗り切ってきたが、ひどいことが起こりました。

 二人のみ使いがまだ床に就かないうちに、ロトの家に二人の高貴な人が泊ってといることを知った町の人々が、若い者から年寄りまで、町の隅々からやってきて、家を取り囲んだのです。そして、明らかにひどい要求がなされた。5節「ここに連れ出せ。かれらをよくしりたいのだ。」「知りたい」は、性的意味で、倒錯したホモ・セックスの要求です。

 

4.ロトの対応

 自分の家を取り巻く多数を相手に、ひるむ事なく一人で説得に当たる。とっさにこういう対応ができるのは、経験を積んだかなりの人物であるからです。ロトは二人の客をソドムの不品行から守ろうとする正義感と責任感をもった。まだ嫁いでいない二人の娘を彼らに差し出し、思いのままにさせる、といった。それは、自分の娘、家族を犠牲にして、客人を守ろうとする自己犠牲の行為ですが、ソドムの人々の罪の問題の根本的な解決には全くなりません。

 そういうロトに対しての家の周りに集まった人々は、9節「よそ者としてきたくせに、さばきつかさのようにふるまっている」、「酷い目に遭わせてやろう」と言った。

 ロトの今までの努力、築いてきたものがすべて失われる機器です。今までどんなに努力してきたか。犠牲にされそうになった娘たちのことを考えると、何とひどいことになってしまったのだと思います。罪に満ちたソドムで、信仰者ロトが、その罪をどうすることもできない状況に陥ったのです。

 

5.御使いの助け

 このまま助けがなかったら、どうなっていたか。戸口が壊されて、ロトも二人の客も引きだれ、思い通りにされてしまいます。しかし、この時御使いの助けがありました。ロトを家の中に入れて戸を閉めました。家の戸口にいた人たちは目つぶしをくらって見えなくなった。

 信仰の道を見いだすためには、一時この世のものに戸を閉めて、神との関係でこの世では見えない霊的な世界に心を向けなければならない。

 今まで、ロトはいつも前を見てきた。……現代人のように、いつも先を計算して努力してきた。それに対して、アブラハムはいつも主を見上げる人だった。そして、アブラハムは、目を上げると、三人がいた。主と二人の御使いです。ところが、ロトは、彼らを見るとあるが二人だった。ロトは天に心を向けてなかった勇気があり、努力家で礼儀正しく責任感があっても、信仰による恵みを知らなかった。この世の一時的な成功を得ても、救いを得ることはできません。

 この世の滅びから、本当に救うカのあるものは神です。神の示す道を見いだし、そこを進むしか助けはない。信仰こそが救いです。

 

6.主のさばきと終末

 キリスト教の教えに、終末論がある。この世界すべての滅びと個人的な終末としての死についての教えです。終末は人の知恵やカで避けることができません。それは「盗人のように」思いがけなく、油断したときにやってきます。 

 

 このことによって、ソドムの罪はもはや神様の前に決定的となりました。神様はいよいよこの町を滅ぼされるのです。二人の御使いはロトにそのことを告げます。そして同時に、滅びから逃れる道を示して下さったのです。この世の罪の前で無力な、何の役にも立たないロトを、神様は滅びから救って下さるのです。しかも、彼の身内の者たち、婚約した娘の婿たちも含めて、一族皆を救おうとされました。

 ロトはすぐに娘婿たちの所に行って、「さあ早く、ここから逃げるのだ。主がこの町を滅ぼされるからだ」と言いました。しかし婿たちはそれを冗談だと思った、とあります。彼らはロトの言うことを聞かず、町から出ようとしませんでした。「ロトは日頃から婿たちに、つまり自分の親族に、主なる神様のことを語っていたのだろうか。ある程度のことは話し、受け入れてもらったと思います。しかし、終末という決定的な厳しい教えについては話していなかった。自分も真剣に受け止めていなかったのではないかと思います。突然「主のさばきが」と言い出しても、彼らがそれを冗談と思うのは当然ではないか」。 ここにも、ロトの信仰者としての弱さ、証し、伝道における無力さが現れていると言えるのではないでしょうか。

 

お祈り