説教 2021年2月

2021年2月28日

「主の大きな忍耐と憐れみ」ヨナ書 3:10-4:11     吉井春人 先生

<聖書箇所> ヨナ書 3:10-4:11

 10 神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。

 1 ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた。ヨナは怒って、 2 主に祈って言った。「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。 3 主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」 4 主は仰せられた。「あなたは当然のことのように怒るのか。」  5 ヨナは町から出て、町の東のほうにすわり、そこに自分で仮小屋を作り、町の中で何が起こるかを見きわめようと、その陰の下にすわっていた。 6 神である主は1本のとうごまを備え、それをヨナの上をおおうように生えさせ、彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。 7 しかし、神は、翌日の夜明けに、1匹の虫を備えられた。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた。 8 太陽が上ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は衰え果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」 9 すると、神はヨナに仰せられた。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」 10 主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。 11 まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない12万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」

 

<説教要旨>

 創世記に登場するニムロデがバベルとともに、ニネベの創立者でした。

 ヨナが召されたころ、初めから敵意があったとみられます。

 ヨナが悔い改めのメッセージを伝えるように伝えられた頃、ニネベはすべてのユダヤ人にとって、北王国イスラエルを滅ぼしたユダヤの敵対にたいする敵意でした。

 ヨナについて、聖書には、詳しく書かれていません。

 主が預言者としてのヨナに、ニネベに行きなさいと命じられたとき、その働きのためにふさわしい人だったかというと、そうとはみえないのです。

 主の身業がおしすすめられるとき、地上をみわたされ、主の心とひとつになっているかであり、御業をおこなわれるとされます。

 すごい能力や賜物があるから用いられるとか、ではなく、ご自分の名を崇めさせるためにふさわしい人を選び、ヨナには、数々のレッスンを通じて、主のみ心に忠実であるように訓練をお与えになったのであり、ヨナくらい、そのような訓練が必要だった預言者はいなかったといえます。

 主が主の器を、ご自分のために召されるとき、人間的な基準で理解しようと思ってもほとんど理解できないでしょう。

 ヨナ書を読み返して、いただき浮かびあがった最初の教えは、もし主がお決めになったのであれば、人間的にどのような欠けだらけの器であっても磨かれて、ご自分のために用いられるというところです。

 ヨナは、主のご命令に逆らって、タルシシ行きの船に乗ります。そこで主は、ご自分が怒っておられることを、船を大嵐を出会わせることで示されました。

 船員たちにも、ヨナにも、大きな嵐が、神の怒りによるものだと明確に知らされたのでした。

 レッスン1は、主は罪にたいして、怒りを持って臨まれる方だということです。

 

 ヨナは、海に投げ出されましたが、死の寸前まで行って、主は大きな魚を用意されました。魚の空気袋のなかで三日間生き延びるようにされたので、ヨナは、主の心にさからったときに受ける怒りの大きさを知り、そして、救われたところから、主がご自分を殺さず、生かしておられたことで。主のご計画を知らされたのでした。

 

 レッスン2は、主は、ご自分の計画を成し遂げるために、見えるかたちで救いのみ業を示されることです。

 

 命を救われたヨナは、ニネベに行って、声をかけるように伝えられました。

 主のご計画は、ニネベを滅ぼすことにあると判断したヨナは、自分がなすべきことを果たして、主の罪にたいする主のお怒りがどんなものか、ご計画を受け入れたつもりになったと思われます。

 

 非常に大きな城壁の町で、歩いて回っても3日かかったとされます。いきなりあらわれたヨナの声にたいして、反抗する心が予想されますが、ここでは、ニネベの人々に、罪を認め、悔い改める心をお与えになったのでした。

 

 ヨナ書3:1-10

1 再びヨナに次のような主のことばがあった。 2 「立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ。」 3 ヨナは、主のことばのとおりに、立ってニネベに行った。ニネベは、行き巡るのに3日かかるほどの非常に大きな町であった。 4 ヨナは初め、その町にはいると、一日中歩き回って叫び、「もう40日すると、ニネベは滅ぼされる。」と言った。 5 そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。 6 このことがニネベの王の耳にはいると、彼は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわった。 7 王と大臣たちの命令によって、次のような布告がニネベに出された。「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。 8 人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行ないとを悔い改めよ。 9 もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない。」 10  神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。

 

 ヨナの説教は、悔い改めを呼び起こし、結果として、主は滅びのご計画を覆され、ほろされなかったのです。

 不思議なことは、ヨナの説教は良い結果を生み出したのに、かえって、ヨナを怒らせたことでした。説教の結果、悔い改めないのを怒るのではなく、悔い改めてことについて怒るのは、理解に苦しむでしょう。

 ヨナのニネベへの敵意が下地にあり、滅んでほしかったのに、そうされなかったことについての怒りであり、当然、それは、自分本位の怒りでした。

 

 ヨナは、主が厳しいさばきでなく、完全に許されたことに怒りを覚えました。

 主のみわざやご計画の全体像がみえなくて、いらいらしたり、ときには怒を覚えたとしても、主は、ヨナが主のご計画を理解していない状態について、厳しく取り扱いませんでした。

 主が用いられる器として、どれほど不完全さをもっていたとしても、主のご計画のために召された人々のためには、すべてを忍耐し訓練して、賜物をお与えになるのでしょう。

 ヨナは、主のご計画を見届けるために、高台で、町を見下ろす場所に行きます。

 そこで、ニネベのようすを見ていたとき、主は、もうひとつの3つ目のレッスンを用意されました。

 小さな簡単な小屋をつくり、見下ろすのですが、主は、強い日差しを与え、ヨナに苦しみをお与えになります。

 灼熱の太陽が照りつけて、苦しみがはじまったとき、主は、木陰をつくるために、トウゴマの草を生えさせました。

 このとき、ヨナは、トウゴマによってできたすずしい木陰を喜びました。

 このときのヨナの喜び方は尋常ではなく、しかし、悔い改めて救われたニネベへの怒りと同様に、すごく自己中心的であったとみられます。

 強い日差しによって、トウゴマが枯れてしまうのでした。

 時中心的な喜びは、同じく、自己中私的な怒りとなってあられました。

 

 彼は衰え果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。

 

  主は、ヨナの怒りが、どれだけ自己中心的であるかを教えられます。

 自分が正しいとみて、どこが間違えているか、どこに悔い改めるべきところがあるか見えなくなるとき、ヨナのレッスンが今も生きてきます。

 主が何を忍耐され、何に期待しておられるか、悟るように示されたのです。

 

 主は、ヨナがトウゴマを惜しまれたように、いえ、それ以上に、ご自分のおつくりになった人や動物たちを大切にされ、惜しまれ、愛されているのです。

 主は罪にたいして、倍返しされる方ですが、悔い改めに基づいて、許し、祝福を与えたいと願っておられるのでした。

 

 主は、どうして、ヨナのような不完全な器を用いられたのでしょう。

そのこたえは、イザヤ書42:18-21にみられます。

 

 18  耳しいた者よ.聞け.盲人よ.目をこらして見よ. 19 わたしのしもべほどの者が,だれかほかにいようか.わたしの送る使者のような耳しいた者が,ほかにいようか.わたしに買い取られた者のような盲目の者,主のしもべのような盲目の者が,だれかほうにいようか. 20 あなたは多くのことを見ながら,心に留めず,耳を開きながら,聞こうとしない. 21 主は,ご自分の義のために,みおしえを広め,これを輝かすことを望まれた.

 

 自己中心によって行動するのではなく、ほんとうに、主の心とひとつになった人を主地位になるでしょう。主が人をご自分の働きに召されるとき、それは人が作り出した基準とは異なります。

 

 世の原理には、「好きな人なら愛せるが、嫌いな人は愛せない」があります。好き嫌いで人を差別する心は罪です。

 主は次のように語られました。マタイの福音書5:43-48

  43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。 46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。 47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。 48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

 

 わたしたちの思いを遙かに超えた、主の憐れみと恵みの大きさに近づけるように、思いを主に向けて日々の歩みを続けたいものです。

 

(了)

2021年2月21日

「主の祈り⑦ 悪からお救いください」マタイの福音書6:13    吉井春人 先生

<聖書箇所> マタイの福音書6:13

13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。

 

<説教要旨>

 主の祈りについて、メッセージを続けます。

 最後の、「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。までが、、古代写本にみられないことから、省略している聖書も少なくありません。

 今朝は、カルヴァンの意見に従って、この部分が、それまでの主の祈りの内容と完全に一致しているとみて、受け入れたいと考えます。

 

 人にかかわる祈りとして、「誘惑に陥らせず、悪からお救いください」という祈りが加えられます。

 

 異教徒にとって、どんな場合に祈るかといえば、いうまでもなく、厄除けとか除霊とか願いを達成できますようになどでしょうけれど、旅先の安全を祈るのは当然であり、安心と安全を与えてくださいという祈りは、ほんとうの神様を信じているわたしたちにも、大切です。

 わたしたちの側からみると、厄除け祈願ですが、主の側からいうと、どんな困難に直面した場合でも、現在と将来について、どんなことでも「頼りにしてほしい」と願っておられるのではないでしょうか。

 

 だれでも「あなたに任せていれば安心だ」といわれたい心があるでしょう。

 主のお考えも似ているといえるのであり、子どもであるわたしたちからどんなことでも頼りにされたいと願っておられるのでした。

 マタイは「誘惑」と「悪」をわけました。

 マタイ4:1-10に、イエスさまがサタンから誘惑された記事があります。

 

 主イエス様も、サタンから誘惑をお受けになり、そのとき、サタンは、イエス様の心に誘惑を引き起こしました。石をパンに変化させるのは食欲を満たすこと、力への憧れに働きかけました。悪魔礼拝とひきかえに世界を手に入れるという所有欲に働きかけました。

 誘惑にあわせないでくださいという祈りは、その意味で、罪の影響で、内側にひきおこされる災いにダメージを受けないように守ってくださいという祈りです。

 

 一方「悪からお救いください」は、内面というより、さらに罪の影響によって、クリスチャンたちが外から攻撃される場合でしょう。

 罪の影響によって外から受けるすべての攻撃から守ってくださいとの祈りであります。

 とりわけ、マタイの福音書は、「国と力と栄とは限りなくあなたのもの」として、いいかえれば、外からくる悪いものが、主に、国家にからんだものであり、国がいつも悪いものに支配される傾向にあるので、もともとの主権者であるあなたの支配がはっきりと示されますようにという祈りとみられます。

 わたしたちを、災いから守ってくださるように祈るといいうことが、サタンに支配されているようにみえる国家権力が、サタンのほしいままにされないで、主権者であるイエスさまの心にそうように法律をつくり、国民のためになるような政治をおこなえるように祈るべきでという意味です。

 

 パウロも、エペソ人への手紙のなかで次のように語ります。

 エペソ6:12

 12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

 

 ここで、「悪」について、考えておかなければならないことがあります。

 つまり、世には、必要悪という考え方があるのです。たとえば、悪とはたたかうべき相手であり、同時に、善のために利用できるのではないかというものです。

 「世にある」といいましたが、クリスチャンのなかでも、「必要悪」という考え方がおこされるかもしれないのです。

 必要悪という考え方は、日本の伝統にもみられます。たとえば、誰からも忌み嫌われるものがあれば、それによって、外敵の進級を防ぐことができるという、考え方の伝統です 。沖縄の民家にみられるシーサーという嗣子の像や、敵を怖がらせて退散させるので、できるだけ、おどろおどろしいイメージが選ばれているとされます。

 つまり、悪は悪なりに、善のために奉仕させるという利用価値があるという考え方が、日本の伝統にもあるのです。

 ドイツの童話として知られるミヒャエルデンデのファンタジー作品があります。ファンのかたもおられると推察いたします。

 作品としての、想像力の豊かさとは別に、彼の考え方に、政治が悪いことを問題にしている人がいるが、政治とはもともと悪に傾くのであり、それは、もともと人に課せられている運命のようなものだから、人々のみがわりになって、悪をおこなってくれる、むしろ、政治の悪は、ありがたい必要悪といっていました。

 

 みなさんは、どう思われますか。

 悪は悪だ。しかし、良いことのために役に立つのなら、悪と戦うばかりでなく、悪を利用するのがさらに優れた知恵であるという意見があります。

 悪を裁くとか、戦うのではなく、目的が正当化されたらどんな悪でも受け入れられるという考え方が広まることによって、喜んでいるのは誰でしょう。

 わたしは、それはサタンであると考えます。

 

 聖書の教えは明確です。

 つまり、Ⅰテサロニケ、5:22

 悪は、どんな悪でも避けなさい。

 悪は、避けるべきであり、戦うべきであり、歓迎したり、利用しようなどと画策すべきではありません。 

 世にカルトと呼ばれるグループがあり、仏教にルーツをもつものもあれば、キリスト教にルーツをもつ思想もあります。

 カルトと呼ばれるグループの最大の特徴は何でしょうか。

「目的が正当化されたなら、どれだけ悪とされる手段でも許される」という考え方があります。もし、目的が正しければ、悪いことだって正当化されるという考え方をもっておられるのだとしたら、それは、たとえ、クリスチャンでも、サタンに足下をすくわれているとみなされなければなりません。

 わたしたちはサタンと戦うべきであり、悪と戦うべきです。味方につけられると考えてはならないのではないでしょうか。

 悪の力と戦おうと思って、つまり、悪に打ち勝とうと思って悪の力を借りようとしたら、やがて、最初の動機はどうあれ、悪に飲み込まれていくでしょう。

 たとえば、悪と戦うために、暴力団の力を借りたとしまししょう。あなたは、お金を払ったら終わりになり、暴力団の力を借りて、正義を実現したと思うかも知れません。

 しかし、悪に勝ったと思ったとき、あなたのなかには、悪には正義を実現する力があるという信仰が生まれたことになり、いつか暴力団組織と一体化するのです。

 本当に悪と闘いたかったら、悪の力よりはるかに強いお方に委ね、祈り、そして神の力にひたすらより頼むしかないのです。

 

(了)

2021年2月14日

「神の領域を犯させず」ローマ人への手紙12:17-21    加藤正之 牧師

<祈 祷>

「天の御父よ。あなた様のみ言葉を開く今、心からの飢え渇きに あえぐ者のように、霊の泉の前に臨ませてください。私たちを哀れんでください。特に語る者の唇を霊の水をもって聖めてください。主の御名によってお願い致します。 アーメン。

 

<聖書箇所> ローマ人への手紙12:17-21

17 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。 18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」 20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲まさせなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。21 悪に負けてはなりません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

 

<説教要旨>

 17節「悪に悪をむくいることをせず」との言葉を瞑想する際に、この節の冒頭で「だれに対してでも」と言われていますから、その点で注目する必要があります。身近には夫婦の間の問題があります。性別間の問題があります。さらに、親子間の問題があります。それに伴う年齢差、経験差によって人間差が生じ、新たな区別が生じます。      

 区別は人格や価値観にまで及ぶ問題になり得ます。広くは民族や人種間、国家間の差等、同一社会における健常者と障害者の区別、性同一性障害に対する差別問題や、貧困と富裕者の問題等々、つい最近では、オリンピックの開催に携わる方の、女性に関する発言があって世界に物議をかもしている最中です。

誤解や無知、無理解が敵意にまで発展します。敵意は悪意であり悪に他なりません。悪は罪びとの形です。神に似せて造られた人の姿は悪に悪を報いることはできなくなっている姿です。

 18節の「すべての人との平和な関係」が構築されて、今や歯車が連動している姿が見えてきます。人の究極の姿は、神の栄光を現わす「生」を生きることです。そのとき、聖霊は躍動して、全ての人の平和を実現するのです。兄姉たちは既に御霊を得て永遠の命の交り中に置かれています。それで十分です。

 17節後半の「すべての人が良いと思うことを図る」とは「すべての人の前で善を配慮しなさい」と言い換えることができます。善において真の自己犠牲を献げるのみ。自己が無となることが真の姿です。悪のお湿りがあれば人生は燃え難き生を生きることになります。自分の身を焼いて燔祭としたいなら、未練たらしい感情を捨てるに尽きます。しかし、己惚れるなら自分の身を焼き焦がすだけとなります。なまじ、神に頼んでみ言葉に従ってみようなどと、み言葉を試すことは厳禁です。私たちの全てが知られています。言い訳や弁明も不要。ただ、自己否定や、真理に対する謙虚だけが必要です。神こそ本当の裁き主です。

 19節の「平和を保つ」とは神にゆだねて、個人が自分の基準によって復讐しないで、真の「裁き主」に委ねることです。「復讐はわたしのすることです」と主は言われているからです。罪深い人間が公平な裁きはできません。人は憎さ余って必要以上に罰を与る傾向にあります。復讐心は倍返し以上にしたいのです。だから、主は 「わたしが報いる」と言われます。主は全責任を背負って正しい裁きをなしてくださいます。しかし、人は「生ける神」と交わりが許されている事のすばらしさを聖書から約束されています。神に祈る人は、すでに神の領域の中に置かれている恵みに生きています。そのことによって、神の領域を犯すことはありません。

 20節「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭の上に燃える炭火を積むことになるからである。この意味は、上記の敵に当たる人物に対して、神の厳しい裁きに会うようにとの意味ではなく、彼を救いに導く激しい魂の痛みを与えられるようにとの意味であると理解されています。

 21節 悪に負けてはなりません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。と、神は私たちに「善のみ」をもって全ての人に報いるように勧めています。

 測り知れない神の豊かな祝福を祈ります。

2021年2月7日

「愛と祈りと」ローマ人への手紙12:9-16    加藤正之 牧師

<聖書箇所>ローマ人への手紙12:9-16

9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、前に親しみなさい。10 兄弟愛をもって心から互いに励まし合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。14 あなたがたを迫害する物を祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。16 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。

 

<説教要旨>

 9節 愛には偽りがあってはなりません。の「兄弟たち」とは「聖霊の宮」と呼ばれる教会の交わりを指します。その交わりは心からの本当の愛をもってまじわるべきです。愛に偽りがあるなら 「愛する」と言いながら欺いているなら相手の心を深く傷つけることになります。

 10節 心から互いに愛し合う交わりは、自ずと相手を認め合い、相手を尊敬しその存在意味を高く評価して相手から学ぼうとして、その語るところに耳を傾けます。その反対に、自分は多くを学んで知っていると思っている人は、相手を認めず、軽蔑しても尊敬心を持ちません。軽蔑して破壊的です。

 11節 次いでパウロは、勤勉で怠らない人は、霊に燃える人だと定義します。そのような人は、霊の、言わば神の領域に関わる人で、霊的いのちに押し出される人です。愛の業を出し惜しみしない人です。主は見えない、愛の熱心に燃えて主に仕える人を用いたいのです。

 12節 「望みを抱いて喜び生きている人は神の息を呼吸している人です。聖霊は疲れを知りません。望みとは未來の計画や目的ではありませんか。この神の計画や目的を起こされるのだから、事は必ず成るのです。だから「患難に耐える」を超えて、艱難を食して生きる喜びの中。人にも神にも仕えたいと溢れる愛と絶えず淀みなく湧き起こる祈りのことばと、御霊の風が響かせる音に臆病風を追い散らせ。

 13節  隙間風を鳴らしながら人々の間を旅する者たちを知らないだろうか。

聖徒たちの必要を満たし、その入用を満たすだけではなく溢れさせる神の御腕とその指がそうさせるのでそうなるのでは。この楽しみを見出すことを主は願っているのです。

 14節 あなたがたを迫害する物を祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。迫害さえ祝福に変えたもう。迫害は呪いか。呪いを益としたもう方に祈れ

 15節 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。涙を笑いに変える神。

 16節 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、 かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。