説教 2020年9月

2020年9月27日

「主の祈り②わたしたちの祈り」マタイの福音書6:9   吉井春人先生

<聖書箇所 マタイの福音書6:9>

9 だから、こう祈りなさい『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。

 

<説教要旨>

 

 天におられるわたしたちの父よ_

 

 父である神さまに祈るのは「わたしたち」であるとされます。

 当然のこと個人による祈りは排除されていません。

 

 祈る機会ということだけでいうと、一人で祈る機会のほうが多いでしょう。それでも、主が教えた祈りのひな形は、「わたしたちの祈り」となっているのでした。

 信徒のひとりひとりが「わたしたちの祈り」と祈れるようにというのが、主の願いだからなのでしょう。

 

 わたしたちの祈りは、心からの信仰の一致に裏打ちされていなければなりません。

 かつて、戦争中、教会での祈りさえ、サタンによって支配されていた国に牛耳られていました。国念動員法のもと、天皇を首謀者とした戦争をおこなう国に反対をとなえたり、天皇礼拝をしないキリスト者がいたら、国家権力のもとで「わたしたちの祈り」が強制されていた時代でした。

 

 自分の願いを主に申し上げるのは、「わたしたちの祈り」を捧げるよりたやすいと思われるかもしれません。

 「わたしたち」という祈りについて、困難を覚える理由はおそらく二つあります。

 ひとつは、自分以外のことにあまり関心がない、無関心になる傾向をもつからです。隣人たちのもつ喜びや痛みに鈍感で、「喜ぶものとともに喜び、泣くものとともに泣く」ことが難しいのです。

 どれだけ自己中心から解放されているか、隣人愛や友人としての愛が浅いか深いかにもよります。

 戦争の時代からみると、「わたしたちの祈り」は、権力による洗脳から自由になっていなければなりません。

 「わたしたち」という祈りが捧げられるためには、隣人やこの国や国際社会、歴史などについて、正確な知識と情報が必要だということに気づかれるのではないでしようか。

 

 使徒の働きを書いたルカがよく遣う言葉があり、それは「心をひとつにして」という意味の「ホモスマドン=homo-sumadon」です。ホモとは一つ。スマとは思いとか志とかいう意味ですが、祈りばかりでなく、同じ志を持ってあることをおこなうという意味で、ルカは、初代教会の信徒たちが、心をひとつにして祈りをささげるとき、ホモスマドンをつかっています。

 実際には、心をひとつにできないことが多かったとしても、主は、同じ主を信じるものたちが心をひとつにした祈りをめざすように、願っておられるのです。

 初代教会において、十字架の上の苦難の主や、復活の主とであった記意が明確であったところ、心をひとつにしやすかったのかもしれません。

 主にある知識や記意を鮮明に保ってくださるということも聖霊の賜物なのでした。

 

 心を一つにしての祈りを求めておられるのです。

 たとえば、牧師や長老が群れをイ弋表して祈るとき、それを聴いているだけではなく、心から同意して、同じ思いで祈るように導かれるなら幸いです。

 

 それでも、「わたしたちの祈り」のハードルが高く感じられることでしよう。

 なぜ、わたしたちという祈りのハードルが高いのか。それは、祈る側に深刻な霊的課題が残っているからなのかもしれません。

 わたしたちとは、誰を示すのでしよう。ルカが示した心の一致とは、クリスチャンたちの一致です。けれども、主の祈りのなかで「わたしたち」というとき、「家族」「地域教会」「公同教会」「日本民族」「地球に住むすべての人」いずれも「わたしたち」です。

 

 夫婦や家族でさえ、「わたしたち」と祈れない日常が避けられないでしよう。

 ここでいう、聖霊が与える一致とは、形だけの一致とか、強制的な枠が当てはめられての一致もどきなのではなく、見えない心の部分も一つになっているということです。

 同じ願いと思いで祈りを捧げるのは、賜物であり、今に生きるわたしたちも、それを祈り求めたいのです。

 主が受け入れられる祈りは、砕かれた魂からの叫びであり、そして兄弟姉妹や隣人への蔑みの心から完全に離れていなければなりません。

 

 ルカの福音書18:9-14で、主が祈りについて教えられています。

 9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

 

 祈るための心の準備として、他人を見下したり、差別したり、自分が優れているとなどという考えがどこかにあると、主に受け入れられる祈りではありません。

 

 使徒パウロは、ローマ15:5-6で次のように言います。

 

 5 忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。6 それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わ迂て、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。

 

 祈りが聖霊による賜物であるとされるのですから、互いに同じ思いになって祈れるように、願い求めたいのです。

 

 それでも、隣人のほんとうの必要がわかっていない空白地帯があって祈りの言葉がみつからないこともよくあります。たぶん知るのを許されていない部分があるのと、心のどこかに隣人への無関心や冷酷さが残っていて、知ろうともせず、調べようともしないからなのでしょう。

 一致した祈りには、自己中心ではなく、隣人のための最善が何かを理解する知識が必要になるのです。

 愛は祈りをささえているひとつの屋台骨であり、そして、健全な知識は、的を射た祈りのためのもうひとつの柱だといえます。

 

 一致した祈りがささげるために、徹底的に自分中心を捨て、隣人愛を追い求めなければなりません。

 たとえば教育と名がついたら何でもいいのか。病院とか薬と名がついていたら、何でもいいのかなど。そのあたりがわかっていないと、(極端な例かもしれないですが)、戦時下の祈祷会で「特攻隊員がりっぱに死ぬるように」と祈ったとかに似て、死んでも学校に行けますようにとか、なにがなんでも薬を飲み続けられますようにとか、そのように、本質がわかっていないまま、的を外した祈りにさえなるのでした。

 

 「わたしたち」の意味は、家族もしくは信仰を同じくする兄弟姉妹であり、教会の外にいる、たとえば、「公同教会」とか、地或とか日本民族とかは含まれていないという考え方があります。

 あなたの敵を愛しなさいという主の戒めや、隣人を愛しなさいといわれたときの範囲について、この人は愛さなくてもよいという人々が地上にいないのだとしたら、「わたしたち日本人のため」とか、地球の上にいるすべての人に自分が属しているとみて「わたしたち」と祈ることもされるべきなのです。

 

 日本国のため祈らないのだとしたら、ただ祈りが足りないだけではなく、さらなる隣人愛が求められているのではないでしようか。

 

 わたしたちは、いつも自分のために祈ります。

 主がそのような祈りを受け入れてくださると信じたいのです。

 けれども、主が望まれ、期待しておられるのは、兄弟姉妹と心を合わせた祈りです。

 

 繰り返しますが、もし、「自分のため」だけとか、「仲間や身内のクリスチャンのため」だけしか祈れないのだとしたら、すでに「主の心にかなう群れ」としての健全さを失い欠けている状態にあるといえるのです。

 

(了)