説教 2021年5月

2021年5月30日

「天の星を見上げなさい」 創世記15:1-7     小高政宏 牧師

<説教要旨>

 はじめに

 アブラハムは信仰の父、神の友、祝福の基と呼ばれる偉大な信仰者です。しかし、最初からそうであったのではありません。数々の苦難と恵みを通してアブラムの信仰は成長していったのです。創世記15章6節は、新約聖書でパウロが引用し、「信仰による義認」という大切な教理を教えている箇所です。失敗と成功、別れを体験していく中で、人生の価値観を確立していきますが、その土台となるのが、信仰によって義とされるということです。

 アブラハムは自分の人生の中心課題として、「子が与えられる」約束について問いかけました。主は「アブラハムを外に連れ出し、天を見上げ、星の数を数えなさい」と言って、自分の殻を破り神に信頼する信仰義認の恵みを教えくださいました。

 

1.アブラムの恐れ、主への真剣な問いかけ

 「これらの出来事の後に、主の言葉がアブラハムに与えられた。」とあります。そして語られた言葉は「アブラムよ、恐れるな。」と初めにあります。戦いに勝利した後で、具体的に恐れなければならないようなことは記されていませんから、ちょっと見当違いの言葉のように思われます。しかし、神は無駄なことや見当違いのことを言われません。神の言葉はアブラハムの心の深いところを見ています。

 それでは、アブラハムは何を恐れていたのでしょうか。まず考えられるのは、アブラハムの甥ロトは、周辺にあった国々の紛争に巻き込まれ、神様の助けがあって、アブラハムは奇跡的な勝利を収め、奪われた人とモノ全部を取り戻すことが出来ました。しかし、あとから冷静になって考えると、敵の大軍をうち負かしましたが、絶滅させたわけではありません。ですから、再び攻めてくるかもしれません。そのときはもっと強力な軍隊がやってきます。到底勝ち目はありません。そのことを恐れたのかもしれません。

 しかし、もっと広くアブラハムの人生全体から見ると、自分のこれからのことについての内面的なで恐れではないかと思います。人は生きている限り、恐れがなくなることはありません。恐れは突き詰めて言うと、苦しみ死に滅ぶことです。完全な救いがないことが恐れの根源です。人間の知恵、どんな富や権力をもってしても完全に恐れがなくなることはありません。このときアブラハムは将来ことを心配し、心を悩ませていました。その時だけのことではなく、自分の未来のこと、霊的なことに不安を持っていたのです。

 2節でアブラムは「私には子がありません」と答えています。神の導きによって、この時までに多くの財産を持つことができた。しかし、自分の子供がいなければ、その祝福は無意味なものになってしまいます。自分に子がないときは、当時の習慣では奴隷の一人が財産管理人となり、主人の老後の面倒を見たそうです。そして主人が亡くなったあとは、その奴隷が財産をもらう。アブラムが「ダマスコのエリエゼル」と呼んでいるひとが、それに当たります。神はアブラハムに「あなたを祝福の基とする」と言われました。それを信じて故郷から出てきたけれど、このままでは自分一人で終わってしまいます。

 そのアブラハムの恐れに対して、神が言われたことは、「わたしはあなたの盾である」。神がともにいてくださり、守ってくださるから「あなたの受ける報いは非常に大きい」ということです。この時の前に自分は何一つ取らずに、勝利の戦利品を全部ソドムの王様に返してしまった。しかし、神はこの世の財産によっても権力や地位名誉によっても満たされないような大きな報いを与えてくださるのです。

 神は様々な恐れの中にいる私たちに対して「恐れるな」と語っておられます。それは、私たちにはいつも恐れがあるからです。不安や悩みがあるからです。しかし、神は「恐れるな」と言われます。なぜ恐れなくて良いのでしょうか。それは、神様が罪びとの贖いとして十字架に死に復活してこの世に勝利されたからです。誰でもいつかは死ぬときが来ます。いつまでも生きることができるか、子孫がどうなるか、誰も未来のことは分かりません。しかし、永遠の神がいっしょにいてくださるなら、自分の人生は無になることはない。だから恐れる必要はない、と聖書は教えているのです。

 

2.信仰の父として、将来と子の意味

 1節後半「あなたの受ける報いは大きい。」この世だけ考えたら、損をしたように見えるが、神はちゃんと知っておられる。そこで、アブラハムは「私に何をお与えになるのですか。」と申し上げた。こういう問い掛けは決して不信仰ではない。むしろ信仰の成長のために不可欠です。黙って従うという面と共に、神との交わりの中で、問いかけて答えを与えられることで成長していくことが必要です。そうすることで、逃げるのでもなく、なげやりに生きていくのでもないようにしていただくことができるのです。

 「自分には子供がない。いつまでたっても与えられない。ますます可能性が少なくなるばかりである。」とアブラハムは思っています。しかし、何もできない。私たちも人生でそういうことがたくさんあります。主のことばを「救いも神の子も永遠の命も」、自分の常識で考え、将来の漠然とした可能性として信じても、自分の実際の人生で、どのようにそれが実現していくのか見失っていることがあります。み言葉よりも自分の常識的判断のほうが確かなように思ってしまうのです。この時のアブラハムもそうではなかったか。現実的、常識的に考えて、自分には子供が与えられないのではないかと思い焦っています。

こういう面を見ると、アブラハムはみことばに単純にしたがって故郷を後にして約束の地に出発したときのような力強い信仰がなくなったように見えます。しかし、そうではない。出発して進む中で、そういう一見弱くなったかのようなときの体験を通して、信仰は成長します。

 神は、故郷を出るとき「子孫、土地」を祝福として、アブラハムに与えると約束した。子孫は実際の子供や孫と言うよりも未来の祝福を代表するものであり、土地は今の祝福を代表する。新約聖書の教えで言うと、永遠の命であり天の御国のことになります。それが実際の人生でどういう意味を持っているか、アブラハムは神の約束を信じながらもわからなくなっていた。

 聖書は子供の意味を、この世の考え方とは根本的に違った捉え方をする。血のつながる親子よりも深い関係として霊の親子という関係をその土台においています。

 儒教では、子孫が生きていれば自分が生きているのと同じだと考えるので、子孫がないことは最も悲しむべきことです。しかし、聖書ではそういう見方をしない。救いの単位は一人ひとりであり、親子であっても神の子として兄弟になる。血のつながるこがなくとも、霊の子がいることがそれ以上の価値を持つ。アブラハムのような立派な信仰者でも、この後のところを読むとわかりますが、神によって何度も訓練され失敗しながら理解していきました。霊の親子という関係を理解するのは難しかったことが分かります。

 

3.天の星を数えよ・・・・神の契約に希望をおく

 主はアブラハムを外に連れ出し、天の星を見上げるように言いました。そして「星を数えることができるなら、それを数えて見なさい。」「あなたの子孫は今見ている天の星のように多くなる。」

 昔の伝道集会で、神は星のようだと言う事を聞いたことがあります。星は変わることなく、大きいが、自分には遠く、小さく見えるので、普段は見過ごしている。この宇宙にどれくらいの星があるか。星の集まりの単位である銀河に2000億~4000億の星があり、宇宙にはそういう銀河が1000億くらいあると考えられる。そう後見える星はどのくらいかと言うと、肉眼では6等星までしか見えないので、地球から8600位。北半球からはその半分くらいだそうです。

 しかし、神は世界のすべてを知り、導いておられる。アブラハムにはまだ、子供が与えられてない。もう年をとってしまっている。自分に子供が与えられるとは信じられない。そういう思いに対して、天を見上げ、星の数を数えるように言って、何を教えようとされたのでしょうか。誰が空の星の数を数えることができるでしょうか。神がここで教えたいことは、小さな存在である自分の経験や判断で、神の言葉を疑ったり、否定してはいけないということです。神は空の星のすべてを創造し、ご存じであり、導いておられます。自分の常識がいかに神の前に小さく不完全であるかを知るようにされたのです。

 罪人の救いはすべて神の力によらなければ実現しません。神は人が数えることもできないほどの星を造られた方です。その神が救ってくださるのであって、私たちのどんな努力や知恵や誠実さによってもできないことです。神の可能性を信じ、おゆだねする以外に救いはありません。そんなことはわかっているが、どうしてできるのだろうかと思ってしまいます。そこで信仰が問われるのです。疑うことのほうが間違っていると認め、主に問い続けなければなりません。 主の言葉を聞いたときアブラハムは、6節「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。

 ヘブル6:19「この望みは、私たちのために、安全で確かな錨の役を果たす」とあります」が、みことばが聖霊のはたらきによってその人に与えられるとき、漠然とした約束が現実的な力となるのです。私たちも人生で星を見上げる時が必要です。星に象徴される神を見上げることで、恐れを乗り越えて希望を見いだしていくのです。

 

お祈り

 直面する不安や焦りに、主が心に平安を与え、神の子、光の子らしく、歩ませて下さい。信仰によって約束された神の祝福をしっかりと受け止めて歩めますように、不安ために、焦りのために、現実から逃げることなく、与えられたときがどの様に貴重なときかを共に覚えることができますように。次の世代の信仰の担い手としての子がしっかりと成長するように、教会学校の働きがますます祝福されますように。変わることのない神に信頼して、神の国目指して前進していけますように。

2021年5月23日

「メルキゼデクの祝福」 創世記14:17-24     小高政宏 牧師

<説教要旨>

 はじめに

 四人の王との戦いに勝利して戻ったアブラハムは二人の人物に会いました。ソドムの王がエルサレム近くのシャベの谷に出迎えに来ました。それからエルサレムの王で祭司であるメルキゼデクという人の祝福を受けました。この出会いから、神の祝福を知るものとしての信仰者の礼拝する姿勢とこの世の富に対する姿勢を学びたいと思います。アブラハムが出会ったのは、先にソドムの王で、その後メルキゼデクの順序に記されています。しかし、先にメルキゼデクとの出会い、それを踏まえて、ソドムの王との出会いを見ていきたいと思います。

 

1.メルキゼデクの祝福

 メルキゼデクという人は18節に突然出ています。この人は、聖書の中で最も謎に満ちた人物です。詩篇の110篇4節にもその名がありますが、それはこの創世記14章に基づいて詩に歌われたものです。メルキゼデクという名はメルキは王、ゼテクは正義という意味で、正義の王という意味です。彼は「いと高き神の祭司であり、「シャレムの王」とあります。シャレムとは平和という意味でエルサレムのことです。エルサレムの王であり、いと高き神の祭司でもあった人です。また、新約聖書のヘブル人への手紙ではイエス・キリストの型だと教えられています。

 大祭司は神と人との間に立って執り成す人のことで、王であり、祭司であるメルキゼデクはご自身を完全な生け贄としてささげたイエス・キリストの雛形です。

 アブラハムのこの人との出会いは偶然ではありません。信仰の人生にとってなくてはならないものでした。メルキゼテクは、敵を打ち破って戻ってきたアブラハムを祝福しました。その祝福の言葉が、アブラハムをさらに大きな信仰へと導きました。

 このメルキゼデクの祝福は二つから成っています。一つは、アブラハムがいと高き神によって祝福されますように、ということです。それからもう一つは、いと高き神に誉れがありますように、ということです。この「祝福されますように」と「誉れがありますように」は同じ言葉で、訳し方が違うだけです。神から人へは祝福で、人から神へは誉れとされました。

 これは、信仰のない人が成功をお祝いする言葉ではありません。アブラハムは本当に人を祝福できるのは、神以外にないことを知っていました。そして、メルキゼデクによって彼は神からの祝福を受けたと言われた。この勝利は、天地の造り主であるいと高き神が、敵を彼の手に渡して、神が下さった祝福であるということです。この神の祝福を受けたアブラハムは、神に対して、「いと高き神に誉あれ」と神を賛美することができるようになった。アブラハムが神によって祝福されたことを通して、いと高き神が祝福されるのです。神に対してですから、「祝福される」ではなくて、「誉あれ」と訳されたのです。アブラハムが神様によって祝福されることを通して、神ご自身も祝福を受け、神の栄光があらわされたのです。このように信仰者の歩みは神の祝福を受け、神に栄光を返していくことで、証しの生活をしていくのです。信仰者が自分が祝福されていることを知らなければ、神を賛美することはできません。

 アブラハムはメルキゼデクにすべてのものの10分の1を贈ったとあります。この10分の1は神が命じたものではなく、アブラハムが自主的に決めてささげたものです。アブラハムは、神が勝利を得させて下さったことを感謝し、シャレムの王メルキゼデクの祝福を喜んだのです。神の祝福を知り喜ぶことがなければ、ささげることは義務のようなもので、人の目を気にし自分を誇るものになってしまいます。神に栄光を帰すことはできません。

 

2. ソドムの王との出会い

 アブラハムは、この世の政治的軍事的争いに巻き込まれ、決断を迫られ、自分の義務を果たすために精一杯頑張りました。そして成功しました。その勝利は、人の目で見ると、彼の勇気や努力、周到な計画、優れた戦術によって実現したのです。ですから、彼はソドムの王に対して、自分の手柄として権利を主張するのが当然です。しかし、そうしませんでした。

穴に落ちて殺されもせず、捕虜にもならずに済んだソドムの王は、アブラハムを出迎えました。そして、「人々は私に返し、財産はあなたがとってください」と申し出ました。もし、アブラハムが戦いに勝利して取り戻して来なければ何一つ戻らないのですから、アブラハムと一緒に戦った者たちが自分たちのものだと主張してよいはずです。当時の常識からすれば、すべてがアブラハムのものです。ですから、ソドムの王の申し出は、あまりにも虫のいい、ずうずうしいことです。ソドムの王は、アブラハムが当然自分の権利を主張するだろうと考えて、人は、自分に返してもらいたい。取り戻した財産はすべてあなたが取るようにと提案したに違いありません。ソドムの王は財産を失っても人がいれば王としてもう一度やり直すことができるからです。

 しかし、アブラハムはソドムの王が予想もしなかった答えをしました。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、「アブラハムを富ませたのは私だ」と言わないためだ。

 これは、神様の祝福を本当に知った者だけが言うことのできる言葉です。それは、「アブラハムを裕福にしたのは、この私だ」と、ほかの人の不幸によって利益を得たと言われたくないからです。自分を守り、養い、裕福にして下さっているのは、天地の造り主である神であって、自分でもなければソドムの王でもないのです。この世の富や力によって自分の栄光を得ることが幸せではないからです。大切なことは神に対して富むことです。

 「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う」と言っています。アブラハムにとってこの戦いは、主によって導かれたものです。領土を得るのでも、財宝目当てでもなく、敵を支配するためでもありません。ただ正義のための戦いであり、愛するロトと家族を取り戻したいという願いからの出た戦いでした。その願いが実現した。そして、自分はこの世で王となって多くの富を誇るのではなく、主にあって富む者でありたい。そういう思いから出た言葉です。

 しかし、主の霊的な恵みだけあれば、この世的なことは何も配慮しなくてよいと言うのではありませんでした。

 24節「ただ若者達が食べてしまった物と、私と一緒に行った人々の分け前とは別だ。」追いかけるのにかなりの食料が必要でした。アブラハムの家のしもべはその食べた食料分だけでよい。それから、アネルとエシュコルとマムレには彼等の分け前を取らせるように」と言っています。この人たちはアブラハムが住んでいた地域の人たちで、アブラハムと同盟を結んでいました。アブラハムの生き方に信頼して友好的に過ごしていた人たちです。そして、アブラハムに協力するために一緒に四人の王たちの軍勢を追いかけて勝利に加わった人たちです。その人たちには、分け前を取らせるようにと配慮しています。自分はしもべたちの食べた分だけ、かかった食料だけでよい。しかし、協力してくれた人たちには、お礼をするという配慮をしました。自分の信仰によって決めたことを、これらの協力した人たちに押し付けなかったのです。

 

3.大祭司イエス・キリストの型として

 ヘブル人への手紙の7章にメルキゼデクのことを主イエス・キリストを指し示す型として教えています。ヘブル7:3「彼には父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。」メルキゼデクが、先祖についても、生まれについても何の説明もなく突然現れ、消えていったことから、このように言われるようになったのです。イスラエルにおいて祭司は、イスラエル十二部族の一つレビ部族の子孫だけがなることができました。彼はレビが生まれるよりずっと前の祭司で、レビ族ではない祭司です。しかもその彼がアブラムを祝福したのですから、彼こそはレビ族の祭司に優る、永遠の祭司であるイエス・キリストを指し示している、とヘブライ人への手紙は教えています。

 祭司は、神様と人間の間のとりなしをする人です。神と私たち人間の間は、罪のために、敵対関係にあり、私たちは神の祝福を受け、神への賛美をしつつ生きることができなくなってしまっています。それが、罪びとの世界の現状です。そしてその失われた祝福を回復させるために、神様はアブラハムを選び召し出して、天国への歩みを始めた信仰者、祝福の基としようとされたのです。この神様の祝福の約束は、主イエス・キリストにおいて実現しました。様はその独り子イエス・キリストを人として遣わし、主イエスは私たちの罪をすべて背負って十字架にかかって死んで下さました。このまことの大祭司であられる主イエス・キリストによって、神様の祝福が私たちに与えられ、また私たちが神様を賛美することができるようにしてくださったのです。つまり、アブラムに与えられた祝福の約束、彼が祝福の基いとなるという約束は、まことの大祭司イエス・キリストによってこそ実現したのです。そのひな型としてのメルキゼデクは、「パンと葡萄酒」を持ってきましたが、これは聖餐式に通じています。十字架のめぐみを受け止めることによって、。神との関係を取り戻すことができるのです。

 私たちの信仰の歩みは、アブラハムと同じように、この世の現実の中に置かれ、様々な。困難に巻き込まれていきます。そこで決断を迫られ、責任を果たすことを求められます。そのような中で、私たちは礼拝において、主イエス・キリストによって実現した神様の祝福にあずかり、そして神を賛美することができるのです。

 

お祈り

 信仰の生き方こそが、最も安全な道であり、勝利への道です。アブラハムの愛と勇気、行動力は主にある信仰から与えられたものでした。目に見えない神の導きを覚え、私たちたちにもこの生きる力が豊かに与えられますように。家族隣人への愛を増し加え、困難の多い人生を感謝と喜びを持って歩めますように。

2021年5月16日

「しもべ318人を招集して」 創世記14:1-16     小高政宏 牧師

<説教要旨>

 はじめに

 きょうの聖書箇所は、聖書で最初に戦争について記された部分です。アブラハムの信仰の人生において、どのように戦争に直面し、どの様に関わったかについて記されたもので、中心は「アブラハムの信仰」です。戦争については聖書全体から学ばなければなりません。

 信仰者の歩みは、この世界の政治的軍事的現実と無関係ではありません。この世界のあらゆる出来事と結びついており、その現実と無関係に生きることはできません。私たちは戦争や経済的な危機、病気や自然災害に巻き込まれていきます。そこで信仰の決断を迫られ、行動を求められていくのです。

 

1.戦いの背景

 古代の中東世界の状況が記されています。当時は全地域を支配下に置く大帝国はまだなく、多くの民族と国がありました。

 1~10節にたくさんの名前があります。分かりにくいのですが、まとめると、4人の王の同盟軍と、5人の王の同盟軍とに分けられます。

 ロトのいたヨルダンの死海の南の低地に5つの国があった。それらの国は小さいが豊かであった。それに対して、チグリス川、ユ-フラテス川の下流にあるメソホタミア地方のもっと大きな4つの国、エラムのケドルラメル王(ハムラビ法典で有名なバビロンのハムラビ王と言われる)と3つの同盟国が戦うことになった。

 小さい5つの国が4つの大きな国が支配下におかれていた。ふつうどこでも弱小国は強大な国の支配下に置かれ、自らの存続を図らなければなりません。しかし支配されている国は、いつも他国の支配から独立しようと機会を狙っています。5つの小さな国は12年間服従して貢ぎ物を納めていた。その負担は余りに重いので、その支配から逃れようとして、13年目に反逆し貢物を納めなかった。四つの大国はあまりにも遠いところにあり、またヨルダンの低地は大軍で攻撃しにくい地形なので安心していたのかもしれません。しかし、14年目に、エラムの王ケドルラオメルは、他の3人の王と組んで、反乱軍の鎮圧のために遠征して来ました。

 5~7節に、この四人の王の軍勢が進んだ経路が記されています。彼らは、反乱を起こした5人の王の同盟軍と戦う前に、来る途中多くの国を征服しながら進んできました。ヨルダン川の東側を北に進み、それから南へ下り、その後向きを変えて死海の方向へと進んで来たのです。圧倒的に強く、ヨルダン川周辺の諸民族を次々に倒し支配下に置いて、進んで来ました。

 そして5人の王たちの反乱軍と、シディムの谷で戦いになり、5人の王たちの軍勢は打ち破られ、逃げ出しました。ソドムとゴモラの王は瀝青というアスファルトを取るために掘った穴に落ち込みました。残りの者たちは山に逃げました。戦争に負けた国の町は徹底的に略奪され、人々は捕虜として連れ去られました。

 

2.平和に対する姿勢

 どのようにして、この戦争に巻き込まれるようになったのでしょうか。

 アブラハムと甥のロトのことを、思い起こしてみましょう。エジプトから戻った後、豊かになり二人はで別れて生活することになった。ロトは低地の豊かなところを選び、アブラハムは反対方向のやせた山地に住んだ。

 ロトは着々と家畜をふやし、商売をし、金持ちになり、ソドムの町に住むような有力者になっていた。一方、アブラハムは豊かにはならなかったが、地域の人と争わず、神との交わりを第一とし、旅人のように天幕を張って家畜と移住しながら、祭壇を築いて祈る生活をしてきた。

 約束の地カナンで、アブラハムはどこから来たが分からない人で何をするかしれないと思われたかもしれない。しかし、徐々に生活と信仰が人々に知られ親しみをもたれ、尊敬されていた。偶像崇拝を一切しないで祭壇を築いていつもお祈りしていた。最初は不思議な人思われても、その真実は次第に伝わり受け入れられていった。

 山上の説教でマタイの福音書5:9「平和を作る人は幸いです。その人は神の子と呼ばれるのです。」とありますが、まさにアブラハムはそういう人として生きていた。社会の大きな変化は、自分一人の力ではどうにもなりませんが、信仰がそれに対して無力ではない。信仰の中にこそ脱出の道が備えられている。

 それに対して、ロトは決して悪を行った訳ではありません。正当な働きをして、富を蓄えていました。しかし、自立した信仰をもっていませんでした。この世の成功を第一として生きていく中で、自分も知らない間に平和から遠ざかっていたのです。意識して「平和を作る者」として生きなければ、平和はだんだんと知らないうちに失われていくのです。 

 

3.アブハムの戦いへの決断

 4つの東の国の大国の連合と5つの小国の戦いは、戦車を使えない地での戦いでした。そのため、その地に詳しいほうが有利になり、一時的には5つの小国が善戦したかもしれません。しかし、だんだんと負けて兵士たちも王も逃げた。それから、財産がことごとく奪われ、捕えられた人たちは、手枷をかけられ、荷物を持たせられて、連れていかれた。その中にロトとその家族もいました。

 そしてその戦争のことを、ひとりのとらえられずに逃げることのできた人がアブラハムに知らせました。ロトの僕の一人だと思われますが、彼の報告で、ロトの家族も連れていかれたことを知りました。

 このとき、アブラハムはどう思ったでしょうか。アブラムは決断を求められました。捕虜となり、このままでは奴隷に売られてしまう甥のロトを助けに行くかどうか、すぐに決めなければなりません。ロトがこのような悲惨な目にあっているのは、自業自得だとも言えます。自分が選んだ結果こういう目にあったのだから、仕方がないではないか。私が危険を犯してまで助けに行くことはない。アブラハムがそう考え、助けに行くことを躊躇しても不思議ではありません。しかしアブラムは、ためらいを捨てて直ちに助けに行くことを決断します。自分の身の安全よりも、親族を助けることを選んだのです。

 アブラハムは神の前に祈り判断したので、決断でき野ではないでしょうか。この世の知恵ではあきらめるしかない。どんなに助けたくてもどうにもならないからです。自分が戦争に巻き込まれないで守られたことを感謝するのが精一杯です。しかし、アブラハムはロトの家族や奪われた財産を取り戻しにいく決断をしました。余りにも危険であり、無謀です。5つの国の連合軍を打ち負かした敵と戦って勝てるわけがない。しかし、アブラハムは戦うことを決意した。神にあってロトを思うとき、自分の命を失ってもやらなければならないと思った。

 飢饉でエジプトに食料を求めていったとき、自分の命を守ろうとして妻のサライをエジプトの王様のところに蕎麦目としてやってしまった。その失敗をずっと心に留め、信仰をもって乗り越える時としたのではないでしょうか。そして、ロトに対する愛はアブラハムから恐れを締め出した。このアブラハムの思いは、主イエス・キリストの思いであり、信仰の兄弟に対する信仰者の思いです。戦争のような厳しさの中でこそ愛が問われる。

 

4.勝利と霊的な戦いとしての理解

 アブラハムは自分の家で生まれた318人のしもべを招集して、ただちに追跡を開始した。この318人のしもべはお金で買ったのでもなく、力で従わせているのでもない。生まれたときからアブラハムの家族として子供のように育てられた人達です。全員が主人とともに戦うことを誇りとし喜びとしている。いざとなれば命を捨てる覚悟もできていた人たちだったに違いありません。霊的には、このアブラハムと318人のしもべは神の家族である教会のことを指しています。

 ただ勇気をもって意欲に満ちて立ち向かっただけではありません。神の知恵と導きがあったのです。4つ大国の連合軍は、たくさんの略奪品と捕虜を連れています。そのため、歩みが遅い。その上、勝利した気のゆるみで、夜になると酒を飲み寝てしまい戦い備えがなくなっていた。そういう中、夜攻撃した。そのため、人数が多くとも、命懸けで攻撃してくる者たちに圧倒され、ただ逃げるのがやっとであった。奪った財産も捕虜も武器も持たずにただ逃げるだけでした。アブラハムとしもべたちは、敵を殺し、全滅させるのが目的ではありません。4人の王の軍勢が陣営を立て直して再び攻撃して来ないようにすればよいのです。今まで、連戦連勝だった4つの国の軍勢は打ち破られ、再び攻撃をしてくることはありませんでした。

 この勝利はアブラムの周到な作戦とよく訓練された精鋭部隊の一致団結した戦いによる勝利です。しかし、神がアブラハムに志を立てさせてくださり、知恵と導きを与えてくださった恵みによるのです。

 この戦争は国と国との武力による戦いというよりも、信仰者のこの世との霊的な戦いの型を教えています。数は圧倒的に少なくとも、主を中心にして結束し、御霊に導かれて、人の知恵では不可能と思われる戦いに勝利して、愛する者を取り戻す戦いです。

 16節を見ると、奪われたものをすべて取り戻したことがある。この取り戻したものこそ、悩み苦しむ隣人です。アブラハムにとってロトは死んだ兄弟の子です。私たちが宣教によって取り戻そうと願うのは、主イエス。キリストの十字架と復活によって兄弟姉妹となるように約束されている神の家族です。

 

お祈り

2021年5月9日

「ロトの信仰と選択」 創世記13:8-18     小高政宏 牧師

<説教要旨>

 はじめに

 アブラハムは神の言葉に従って約束の地に来ました。しかし、飢饉があり、エジプトに避難しました。そこで妻のサラを妹だといって、サラは王様のそばめにされそうになりました。しかし、神が守ってくださり、たくさんの金銀や家畜をもらってエジプトを出ることを許されました。

 今日の説教題は「ロトの信仰と選択」ですが、アブラハムの選択とロトの選択は、今日の私たちが直面する選択でもあります。後から考えると、単純に、アブラハムは霊的な選択をし、ロトはこの世の欲に目を奪われて一時的には成功したようであっても、結局うまくいかなかったとわかります。しかし、私たちの人生における価値観や選択は、ロトと同じようだといえることのほうが多いのではないでしょうか。アブラハムの生きる姿勢とロトの求めたこの世の成功とは違う主の祝福を覚え、アブラハムのような信仰者の生き方を証ししていけるように、今日の聖書箇所から学びたいと思います。

 

1.ロトの自立のための配慮

 家畜が増え、今までのように一緒に仕事をし、生活するのが難しくなった。そこで、アブラハムはロトに提案しました。9節「私から分かれてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行くなら、私は左に行こう」。先にロトに好きな地を選ぶ権利を与え、自分はそれとは反対の方向へ行くといったのです。ハランを出たときから、どこに行くかはアブラハムが決めてきました。ロトは神がアブラハムに示された事を信じて従ってきた。ですから、ロトは、アブラハムからの提案である限り、それに従うのが当然です。しかし、この時のアブラハムの提案はあまりにロトに有利です。後に、アブラハムの孫のヤコブは叔父のラバンのところに行きますが、その時の条件を思うと、アブラハムがいかに寛容であったかが分かります。重大な場面で選択権を相手に与えるというのは大きな損害を覚悟しなければできません。この時、アブラハムは自分の今後の歩みを、神様の導きに委ねています。そして、ロトに選択権を与え、今までのようにアブラハムのの判断で道を決めるのではなく、ロトを自立させようとしたのです。ここに信仰の父の一面があります。

 

2.ロトの選択・・・ロトは自分の願いによって目を上げて見渡すと

 その提案を受けてロトはヨルダン川流域の低地地方を選び、そちらへと移っていきました。おそらくアブラハムのことは考えなかったと思います。ロトはどのように考えて決めたのでしょうか。ロトは、アブラハムが「お前は山のほうに行け、自分は低地に行く」と言われない限り、低地を選んだはずです。

 10節には、「目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと」とあります。そして、そこは、「主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた」。

 ツォアルというのは、司会の南の地域で、その地域は牧草や作物が豊かにとれる地でした。そこにあったソドムとゴモラの町は大変繁盛していました。ロトはそこに近いほうを選んだのです。その結果アブラハムは、それとは反対にあるヨルダン川の西に広がる山地地方に住むことになりました。そこは、牧草も豊かにはない未開の地です。そのように両社は分かれて別々に歩むようになったのです。

 ロトはまだ若く積極的に事業をやりたい、そういう思いを持っていたと思います。そして、これからの仕事のことを考えて、有利な土地を探した。この世の豊かさや成功のためにどこが良いかを探したのです。ロトは様々なことを計算し、ヨルダンの低地を選んだに違いありません。しかし、それは後の出来事から見ると、底の浅い選択に過ぎなかった。

 しかし、この時のロトにとっては精一杯の選択をしたのではないでしょうか。「主の園のように」「エジプトのように」どこもよく潤っていた。家畜を飼うのに好都合である。さらに、ソドムやゴモラの町が近い。そこの繁栄にも関心がある。遊牧民から商人となり金を儲けてやがては貴族や王になっていく。そういう幻を描いていたかもしれません。自分の未来の成功だけが心を占め、アブラハムへの感謝も、神の導きを求めようとする思いもありません。こうして、アブラハムとロトは別れました。

 

3.神の召しと賜物によって

 若い人が自分の将来を考えるとき、誰でも成功のチャンスが大きい道を選ぶと思います。収入や名誉ややりがいなどを考えて有利なほうを選ぶ。有名大学に入り、有利な就職をしたいと願う。しかし、人の目に有利なことが恵みであるとは言い切れない。ロトの場合と同じことが起こります。

 二人には、エジプトでの苦い体験をどう受け止めたかで、大きな違いがあった。アブラハムは悔い改め、主の恵みを体験し、主に従うことを第一とした。ロトはエジプトの体験をそれほど苦いものとして受け止めず、大きなチャンスが巡ってきたと考えたに違いありません。そして、根本的には信仰による違いによって、選択がなされたのです。

 聖書は、自分の生涯の歩みを「任命と賜物」によって決めるように教えています。ロトにはまだその意味が分かっていなかったのです。信仰による選択は、狭き門から入る道を選びます。それは、「滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そこからはいって行く者が多いからです」とある通りです。「狭い門から入れ」という言葉はこの世的な楽しみを一切捨てて、修道院に生活して、厳しい求道をしなくてはならない、という意味ではありません。「狭い門から入る」ということは、召しと賜物によって歩む道であり、みんなが歩む道ではなく、自分ひとりだけが入るという意味で狭く、自分だけしか歩むことができない道だから細いのです。そしてそれはただ自分の考えだけでその門を選び、その道を選んだのではなく、神が備えた道を選ぶということです。「幼子のようにならなくては天国には行けない」と言われますが、この「狭い門から入れ」という言葉は、厳しい修行の道を歩めというような意味ではありません。本当の救いを得るために、自分を捨てなくてはならない。自分を捨てて、キリストに従う。自分の十字架を負うてキリストに従いなさいということなのです。

 アブラハムはやせた山地で仕事の面では苦労が多いが、約束の地カナンにいます。ロトは成功のチャンスに満ちたヨルダンの低地に移ったが、もうそこは約束の地ではない。ロトが天幕を張って生活の拠点とした所はソドムの近くであった。そのソドムの人々は主に対して非常な罪人であった。ロトはそのことを全く見落としていた。好きな方を選んで良いと言われて、当然自分が良い思った方を選ぶ、そのことが結果的には大きな悲劇につながってしまいました。

 

4.アブラハムの受ける祝福・・・目を上げて見渡しなさいと神に示された

 ロトは自分で目を上げてみましたが、神様はアブラハムに、「さあ、目を上げて、あなたがいるとことから北と南、東と西を見渡しなさい」と言われました。これはすべての信仰者に言われていることです。目を上げて、そこに私たちは何を見るのでしょうか。

 へブル11:3「信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉で作られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」そして、12:2には「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」とあります。私たちのために十字架にかかり、そして復活してくださった主イエス・キリストは十字架の苦しみと死とによって、私たちのすべての罪を赦してください、神の子として成長する恵みを与えてくださいました。天の栄光と永遠の命の約束が与えられているのです。私たちは今、この現実の中から、目を上げてそれを見ることができるのです。そして、この世の歩みにおいて天国の恵みと平安を知ることができるのです。

 自分で目を上げたロトの目に映ったのは、どの地がより豊かで、潤っていて、生活するのに良いかということでした。この世の事柄における比較、どちらの方が自分にとって有利、好都合か、ということです。しかし神様によって目を上げさせられたアブラハムの目に映ったものは、神様の約束でした。

 神様の約束を見上げる信仰の目を与えられた者は、自分が今いるこの現実の中を、感謝して受け止めることができます。現実のつらさ、苦しさ、困難さに押しつぶされて一歩も進めないのではなくて、苦しみ多い現実の中で、縦にも横にも、いろいろな可能性を求めて、歩き回ることができるのです。アブラハムはそのようにカナンの地を行き巡り、そして18節にあるように、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のための祭壇を築きました。自由な生活の中心に礼拝を置いて生きたのです。

2021年5月2日

「再び最初の祭壇の所へ」 創世記13:1-7     小高政宏 牧師

 <説教要旨>

 はじめに

 きょうは、アブラハムのエジプトから再びカナンの地に戻ったことから、大きな失敗や過ちを犯したり、つらい体験から、どのように立ち上がっていくかを学びたいと思います。神は人の失敗を恵みとして下さいます。

 アブラハムは、約束の地カナンに着いたが、飢饉のためにエジプトに行き、自分の命を守るために、妻のサラを妹だと偽りました。妻のサラはエジプトの王のところに側妻として召されてしまいました。しかし、神は守って下さった。エジプトに災害を下して真実を知らせ、アブラハムには何一つ危害が加えられなかった。与えられた多くのものを持ったまま、エジプトを出るようにされた。このことをアブラハムは深く悔い改め、信仰を持って受け止めました。

 

1.アブラハムの悔い改め

 エジプトを出ることになったアブラハムはどうしたでしょうか。1節を見ると、「エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサラと、すべての所有物とロトも一緒であった」とあります。

 「エジプトからネゲブに上った」とあるように、エジプトに来る前にいたカナンの地に向けて出発した。妻のサラ、甥のロト、それにすべての所有物が一緒だったことが書いてあります。アブラハムは自分の命の危機、家庭崩壊の危機を体験したわけですが、みな一緒にもとの信仰生活に立ち返り、歩み始めた。

 妻のサラは夫アブラハムを責めなかったのではないかと思います。それはサラの賢さによるものですが、アブラハムの悔い改めている姿勢がサラに伝わったからでもあります。もし、サラがアブラハムに不信を持って責め、アブラハムがその事で卑屈になったり、反対に怒り出してしまったら、どうなったでしょうか。このようなみんな一緒に神に立ち返る旅はできなかったでしょう。そして、どこまで戻ったでしょうか。3節を見ると、来た道を反対にたどり、ベテルとアイの間で、以前に天幕を張って生活し、祭壇を築いた所まできた。そこは先に住んでいたカナン人とペリジ人の間でした。以前争いを避けて、そこに住んでいた所です。

 エジプトを出るとき、アブラハムにはいくつかの方向があったはずです。苦い体験を忘れたいというだけなら、新しい地に行けば良かったはずです。また、深く傷ついてそういう力もないというのであれば、親戚のいる故郷に帰れば良いわけです。しかし、アブラハムはそういう道を選ばずに、約束の地カナンに帰った。神を礼拝できる所に帰った。最初にカナンの地に来て、祭壇を築いた所に戻った。これは信仰者が毎週礼拝に来る時の姿勢でもあります。アブラハムは何よりも礼拝をささげたかった。神に感謝したかったのです。

 10人の重い皮膚病にかかっていた人たちが、主イエスと出会いみな癒されました。しかし、イエス様の所に戻って感謝したのは一人だけでした。アブラハムはその一人と同じ思いを持ったのです。

 なぜアブラハムは真っ先に礼拝をささげたかったのか。それは聖書には書いてありませんが、神の無言の赦しを知ったからではないでしょうか。

 アブラハムが信仰者として立ち上がるためには悔い改めが必要でした。悔い改めは後悔とは違います。後悔は自分の無力さや判断の誤り、周囲の条件が自分に不利だったと嘆きます。そして、今度はうまくやろうと奮起しても、悔い改めとは違います。悔い改めるには自分を深く見つめ、自分の罪を認めなければなりません。そのためには、愛と赦しと希望を知らなければなりません。

 放蕩息子のたとえとアブラハムのエジプトでの失敗は全く違うように思われますが、共通することがあります。放蕩息子のお父さんはどうしたでしょうか。息子はどこにも行くところがなくなり、お父さんのところに行って雇人の一人にしてもらおうと思いました。そして、帰ってきたとき、お父さんは待っていて、息子を迎え喜び祝福しました。放蕩息子もアブラハムも無言で赦してくださる神を知ったという点で同じです。

 

 立ち返ると言う事を生きる場所を変えることよりも深く生き方の問題として教えた聖書箇所として、黙示録2:4-5に、エペソの教会に対して、「あなたは初めの愛から離れてしまった。それであなたはどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい」とあります。愛と赦しと希望によって、信仰者は立ち上がり信仰者としてのふさわしい歩みができるのです。

 アブラハムは大変豊かになってカナンの地へと戻ってきました。帰る途中でアブラハムはすでにカナンの地に来る前に神が彼に、「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束して下さったことを思い出したと思います。彼はまだそこに一坪の土地をも得ていませんでしたが、神様の約束に、希望を見出して戻ってきたのです。

 平安と安定した生活が与えられるこの世の故郷ではなく、本当の故郷に帰るために、アブラハムは天幕によって移動し、祭壇を築いて信仰の歩みをしてきました。そうするとき、どんな大きな失敗も、神に立ち返り、神の導きによってすべてを益とされるのです。

 

 ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神の計画に従って召された人々のためには、神のすべてのことを働かせて益としてくださる」その続きとしてローマ8:30「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになります」

 失敗の苦しみを通して、神との深い交わりを持つ。失敗を通して神はその人への愛と赦しの御心を深く教えてくださいます。その御心を知ることがその後の歩みに大きな恵みとなっていきます。

 

2.物質的な恵みに対する姿勢

 2節を見ますと、アブラハムが非常に豊かになったことが分かります。物質的な豊かさは普通二つの方向の影響を与えます。一つは良い影響と言って良いと思いますが、安心感が与えられ、生き方に余裕ができて、精神的に高いものに心が向けられます。貧しさのために自分の思い通りできずに苦しまなければならないことがたくさんあります。ですから、普通貧しさからくるみじめさを味わわないで、余裕と真の価値を求めて豊かになりたいと思うのではないでしょうか。

 それから、豊かさによってもたらされるもう一つの面は、益々物欲に支配され、霊的に盲目となって本当の価値を見失うということです。

 豊かになったらどんな問題が生じるでしょうか。協力する必要がなくなり自分の願いを優先させるようになります。ずっと一緒に旅をしてきた甥のロトもまた、豊かになり、多くの家畜を持っていた。ロトはアブラハムの兄弟ハランの子です。すでに召されており、ロトは父の財産を受け継いでおり、エジプトでも贈り物があったのです。家畜を養うには、牧草地や水場が必要です。しかし、お互いが豊かになり、養うべき群れが大きくなったために、お互いの家畜を飼う者たちの間に争いが起こってしまったのです。6節に「その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである」とあります。豊かさや富を持つことによって、貧しかった時には肩を寄せ合って仲良く助け合って生きていた者たちが、豊かになることによって、対立が生じたのです。飢饉によってこのままでは生活が成り立たなくなると不安になりました。その危機の中で、アブラハムとロトは叔父と甥として協力し励まし合っていたでしょう。そして結果的に彼らは両方とも大変豊かになって、カナンの地に帰ってくることができました。ところが豊かになったがゆえに、彼かの間に争いが起こり、もう一緒に暮らすことはできない、という事態になったのです。

 ロトはアブラハムと共に故郷を出てきました。ずっとアブラハムについてきたロトにとってはアブラハムは父のような存在でした。ロトの父はすでに死んでおり、親しかった優しい叔父さんと一緒にいたかったのかもしれません。信仰の面で、ロトは神と直接アブラハムのように交わりを持つ信仰はまだありませんでした。アブラハムを通して学んだ信仰でした。今までロトは信仰的には、従順である反面、勇気や大胆さに欠けることが多くあります。また、求道の思いも弱く、大きな信仰的なビジョンを持つこともありませんでした。しかし、一歩踏み出す時が来ました。

 一人の信仰の成長は、ほかの人の信仰を育て独立させる性質を持ちます。信仰者の関係はいつまでも親子のようであるのではなく、神を父とし、イエス様をお兄さんとして、兄弟になるのです。最初は親子のようでも、先のものが後になって、兄弟のようになります。

 ロトもアブラハムを通しての信仰から、独り立ちした信仰者に成長していかなければなりませんでした。また実際問題として、事業が大きくなり、分かれたほうがやりやすくなっていました。家畜のための草や水を確保するためにも、お互いのしもべたちの人間関係を見てもそうでした。そして、ロトは一通りの仕事を覚えており、分かれても困らないようになっていました。

 こうして、アブラハムはロトを配慮する余裕も与えられていた。祝福の基としてロトとの分かれがあります。