説教 2021年3月

2021年3月28日

「聖書の女生 チッポラ 主の熱心が人を救う」 出エジプト記4:18-26

                               吉井春人 先生

<聖書箇所> 出エジプト記4:18-26

 18 それで、モーセはしゅうとのイテロのもとに帰り、彼に言った。「どうか私をエジプトにいる親類のもとに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているかどうか見させてください。」イテロはモーセに「安心して行きなさい。」と答えた。19 主はミデヤンでモーセに仰せられた。「エジプトに帰って行け。あなたのいのちを求めていた者は、みな死んだ。」20 そこで、モーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せ てエジプトの地へ帰った。モーセは手に神の杖を持っていた。 21 主はモーセに仰せられた。「エジプトに帰って行ったら、わたしがあなたの手に授けた不思議を、 とごとく心に留め、それをパロの前で行なえ。しかし、わたしは彼の心をかたくなにする。彼は民を去らせないであろう。22 そのとき、あなたはパロに言わなければならない。 主はこう仰せられる。『イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。 23 そこでわたしはあなたに言う。わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ。もし、あなたが拒んで彼を行かせないなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの初子を殺す。』」24  さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。主はモーセに会われ、彼を殺そうとされた。25 そのとき、チッポラは火扣石を取って、自分の息子の包皮を切り、それをモーセの両足につけ、そして言った。「まことにあなたは私にとって血の花婿です。」26 そこで、主はモーセを離された。彼女はそのとき割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。

 

<説教要旨>

 ドラマチックな出来事が少なくないモーセの生涯のなかで、今朝ごいっしょにひもとこうとしている、いわゆる「血の花嫁事件」の箇所は、あまり大きく取り上げられません。

 注目されない理由は、何がいわれているのか、意味がよくわからないところにあるのだと思われます。ところが、出来事はモーセが主によって殺されそうになるという、とても深刻で、大きな危険をはらんだ大事件だったのでした。

 聖書で意味がわからないなら、そのうち、わかるようになるまで、深入りしないで読み飛ばしておくのがひとつの道なのかもしれませんが、あらためて、この箇所は、わたしたちの信仰にとっても非常に重要な意味をもつのかたずねてみました。 

 モーセに、いったい何があったというのでしよう。 

 モーセは、主から殺されるような罪を犯したのでしようか、

 モーセは、民をエジプトの苦しみから救い出すための指導者としての役割を与えられ、すでに、「燃える芝の箇所」に示されていますように、イスラエルを奴隷の家であるエジプトから救い出すという主からの召しがすでにはっきり示されていた頃でした。

 このとき、モーセは、ミディアン人が住み、ミディアン人の妻、チッポラを妻としていました。

主からの召しを受けたあと、エジプトに戻ると決めたのですが、そのとき、妻と、二人の息子たちを伴っていこうとしていたのです。

 

出エジプト記4:20

 20 そこで、モーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せてエジプトの地へ帰った。モーセは手に神の杖を持っていた。

 

 チッポラのもとで生まれた子どもたちは、長男がゲルショム、次男がエリエゼル。

 

 事件は、エジプトに帰るのをめざしていた旅先の夜の出来事でした。

 主は、そこでモーセを殺そうとされたのです。

 

 主はなぜ、モーセを殺そうとされたのでしよう。  

 ヒントとして、わずかに、妻のチッポラがとった行動があるとされていて、チッポラは、次男エリエゼルに割礼を与え、切り取った陽の皮を、モーセの両足につけ、「あなたはわたしには血の花婿です。」と言ったところで神の怒りは収まり、モーセが殺されることがなくなったというところでした。つまり、次男にイスラエルの民にとって重要な割礼をしていないかったからの怒りであり、次男に割礼をほどこしていなかったことが、殺されるほどの罪に値するのかというところを知らされたいと願うのです。

 

 チッポラの父はイテロであり、イテロはミディアン人の祭司の一人であり、イテロも同じ神を礼拝していたのかというと、そうではなかったと思われます。 

ただ、ミディアン族は、もとをたどると、イスラエルの父祖アブラハムに遡るのでした。すなわち、創世記25:1によると、モーセの妻サラが127歳で亡くなった後、137歳で側女のなかから、ケトラを妻としてめとり、ケトラはアブラハムに、6人の子どもを産むのであり、ミディアンは三男として生まれています。

 アブラハムは、ケトラの子どもたちとその子孫を本筋でありイサクから引き離し、現在の西アジア方面に住まわせたのでした。

 イテロからすると、アブラハムは、側女から召し出された正妻であったケトラが生んだ子孫であったとしても、すでに神を礼拝していたのではなく、イテロはミディアン人の祭司であり、異教とまぜこぜになっている偶像礼拝者であったとみられます想定されるのは、モーセは、当時のイスラエルの民にとって、非常に重要とされていた割礼を長男のゲルショムには生まれて8日に授けていたと思われます

 しかし、一方のエリエゼルについては、なぜか、割礼を与えず、そのままにしていました。

 注解者の解釈としては、チッポラは、このとき、次男に割礼を授けようとしていたモーセをとどめて、長男のようにはさせなかったのであろうというものです。

 つまり、チッホラはミディアン族にはなかった割礼を、2回見ようとは思わず、モーセにも止めておきましようといって、止めたのだと思われます。

 

 新約聖書の光によって、割礼の意味を受け止める私たちにとって、イスラエルの儀式の大切な要素であった割礼は、今日の幼児洗礼とつながりをもち、主から主の民に与えられた契約のしるしなのでした。

 聖書を誤解しないために、さきに結論からいいますと、聖書は、割礼を受けなければ救われないとはいわず、幼児洗礼を認めないから罪に定めるとも教えられていません。

 新約聖書の時代においても、洗礼を受けなければ救われないとも教えません。洗礼を軽んじるのは罪ですが、洗礼を受けていないから救われないとは教えられていません。それどころか、滴礼か浸礼かさえ、どういう水の量が必要かなどは、大切なこととして教えられていません。

 割礼について、モーセがきいていたのは次の言葉です。

申命記10:12-16

 12  イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、13 あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。14 見よ。天ともろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主のものである。 15 主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた。今日あるとおりである。16 あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。

 

 当時において、妻が言い出したことだとしても、割礼は形式に過ぎないから取り合わなくてもいいとしていたのが、主の怒りにふれ、大切な主の器であるはずのモーセを殺してしまおうとする怒りとなったのは、モーセが神の心をそのような深刻さをもって受け止めなかったからであると思われます。

 

 割礼のことで、モーセが恵みのみ業を軽んじることにたいして、主は怒りを覚えられます。

 人の判断と決断は、ときおり自己中心で、自分にとって実害があるかないかで、受け止めかたの真剣度が違ってきます。

 主は、ご自分が創造された人と人が生み出した罪に、関心を払っておられるのでした。

 罪から解放し、罪の縄目から解放したいと、ガチで願っておられるのであり、民を救いに導きたいと願っておられるとき、それは、どんな犠牲をもいとわない、それこそ、たった一人子を犠牲にしてもかわないと思うほどの熱心さです。

 そして、人が悔い改めて神に立ち帰ったとき、罪を許す、許し方も、人が想像する以上の完全さをもっています。

 モーセは主の器としてたてられ、エジプト救済の使命を受けていたにもかかわらず、主はなぜ、殺そうとまでされたのでしよう。

厳し過ぎるのではないでしようか。

 それは、モーセがおかれていた立場によるのだといえます。

 モーセが割礼を軽くあつかったとしたら、すべてのイスラエルが、割礼を軽んじ、そして、主の戒めを真剣に受け止めなくなるでしよう。

 罪にたいする裁きとは、おかれている立場によって加重されるものです。ですから、ヤコブも、次のようにいいます。

ヤコブの手紙3:1

 1 私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。

 

 その立場が、主にあって重ければ重いほど、主から要求される模範としての役割は大きくなり、罰則も重くなるという意味です。

 

 そして、割礼の意味からすると、主のみ前にでるとき、信徒は罪から切り離されていなければなりません。

 どんな理屈がいえたとしても、主のみ前には、罪との共存など絶対にありえないのです。ご自分の命のすべてをかけて、私たちを罪から解放されたお方をわたしたちの主と崇めているなら、わたしたちもまた、全生涯、全身全霊をかけて、心への割礼という意味で、罪から分離し、罪から完全に離れなければなりません。

 

(了)

2021年3月21日

「たがいに仕え合う」 マルコの福音書10:35-45     吉井春人 先生

<聖書箇所> マルコの福音書10:35-45                                                

  35 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」 36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」 37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」 38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」 39 彼らは「できます。」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。 40 しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」 41 十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。 42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。 43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。 44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。 45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」 

 

<説教要旨>

 福音書の記事は、主が十字架にかけられる前の出来事でした。イエス様はご自分が苦難を受けることを自覚し、苦難とそれに続く復活について、何度となく弟子たちに示されていたころでした。

 ところが、弟子たちが話題にとってのホットな内容は、「弟子たちのなかで誰が一番偉いのか」であり、力のあるイエス様に従ってきたわれらが、どのように「成り上がれるのか」激動の時代に成り上がるために、どうしたらいいか」という、いってしまえば、戦国時代の陣地とりゲームのような状態でした。

 ヤコブとヨハネが主のところにきて申し出ます。

  35 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」 36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」 37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」 

 

 マタイの福音書によれば、ふたりの申し出は、最初、その母の願いから出たことであり、ヤコブとヨハネは、母の願いを理解して、下剋上の時代には先手必勝であり、ここは先手をうってイエス様に取り入り、イエス様が天下をとった暁には、右大臣と左大臣の地位をゲットしようという、おもてむきは2人の申し出でしたが、しかし、実際には母を入れた3人の計画を実行したのでした。

 他の弟子たちがこの願いをきいてなぜ腹を立てたか。いうまでもなく、自分たちも同じような願いを持っていたからに他なりません。

 

 主はこのような野心の塊のような願いを受け入れておられたのではありません。

 彼らがどんな動機でこのような願いに到達し、彼らにとって、もっと良い道を備えておられたのです。

 弟子たちにとって、もっと良い道とは何だったのでしょうか。

 

 42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。 43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。 44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。 45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」 

 

 主は改めて、弟子たち全員にむけて、

「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。」 と語られました。

 主は、神を恐れることを知らない人たちが、どのような考え方をしていて、どのように生きているのかを語られます。

 世には、支配される側と支配する側いて、権力をもった側は、権力を維持したいと願い、、支配される側は、いつか自分たちも支配される側ではなく、支配する側になりたいと、現代風にいえば、いつまでも「負け組」にくすぶっているのではなく、なんとか成り上がって、勝ち組に入りたいと願うのです。

 権力から支配されている側は奴隷であり、ときには一生その地位から抜け出すことはできないと考えます。

 権力者たちのもつ権力とは、そのままの意味の力であり、地位そのものがもっている生殺与奪の権利、お金についての力、、情報を操作する力とか、人に命令して、駒のように動かす力であったりします。

 歴史のなかでも、権力者たちは、権力そのものを守るために、必要とあれば、略奪・虐殺にむかいましたが、それは、権力を失うのを恐れたからです。

 

 罪がもたらす労役は、支配される側において、人は権力者に支配されることで、仕事の奴隷となり、お金の力を信じるようになり、権力や権力者を偶像にするようにまでなるのでした。

 

 アダムとエバによってもたらされた罪によって、労働は苦役となりました。

働くことは苦しみであり、喜びやましてや楽しみはありえないとされるのです。

 

 主が。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。」

 と語られたのは、アダムの堕落の後の社会では、仕事が労役であるばかりではなく、組織的に労役が生み出されるような社会が作り出されているのでした。

 それが、支配する側と支配される側、勝ち組と負け組という言い方も、趣旨としてはそれと同じです。

 

 大切なのは、主イエス様が、「あなたがたはそうであってはいけません」といわれた次の箇所です。

 つまり、主は第一に、主の弟子たちのなかにおいて、強い者が弱い者を支配するとか、勝ち組とか負け組とかの階級をつくりあげることとではなく、「互いに仕え合う」ところを目標にする生き方でした。

 主イエスさまを模範としなさいとおっしゃられます。

 43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。 44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。 45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」 

 主が地上に来られたのは、直接、地上におけるイエス様の真似をしなさいという意味ではありません。主は独身ですごされ、社会を変えるための直接行動をされず、そうしませんでした。

 主はただひとつのみ業をおこなうために、世に来られたのであり、ご自分の命を投げ出して、人を救われるためだったのです。

 

 45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」 

 

 「購いの代価」とは、お金ではなく、「人を解放するために、自分の命を身代わりに差し出す」という意味です。

 購いのみ業は、それ自体が身代金としての役割をもっていたのですが、主は、それが弟子たちにむけての人に仕えるための「模範」であると示されました。

 

 わたしたちに託されているのは、主のように命を投げ出しなさいということではなく、世の人が、力に支配され、お金の力、ひたすら支配する側になろうとか、弱肉強食の考えにとらわれることから解放されて、人に仕えることです。

 

 たとえ、現代人のように会社組織のなかで働くとしても、わたしたちが目指すべきは、金銭欲や権力欲から解放され、自由に人に仕え、そして主に仕える道です。

 勘違いしてはならないのは、主にある労働にも、苦労伴います。労苦はその日その日に十分あることです。しかし、主に新しくつくられた人は、何を食べるか何を着るかという世の煩いに支配されることはありません。

 「人に仕える」道では、もはや、お金に支配されたり、権力欲に支配されたりといった、罪によって生み出された価値観に支配されることもないのです。

 それは、わたしたちにとってさえ、もしかしたら非現実的かもしれません。

 しかし、ひとつの実現可能な目標として与えられています。人々の役に立つ、そして喜んでもらえる仕事としていただける道はあるでしょう。

 世に合って働くとき、たとえ、苦労そのものが同じように伴うとしても、主がそれを喜んでおられ、兄弟姉妹が違いに仕え合うのと同じように、人々に仕える仕事に携わる私たちを喜んでおられるのです。

 ちなみに、聖書には「遊び」という考え方(概念)がありません。

 それは、創造された世界は、私たちにとって楽しみとなるように造られているからなのですが、このテーマは、また別の機会にお伝えしたいと思います。

 

(了) 

2021年3月7日

「互いに洗い合う」 ヨハネの福音書13:1-12     加藤正之 牧師

<聖書箇所> ヨハネの福音書13:1-12

1 さて、過ぎ越しの祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時を知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。2 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。 6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」 7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」 8 ペテロはイエスに言った。決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」9 シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」 11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない」と言われたのである。12 イエスは彼らの足を洗い終わり上着を着けて、再び席について、彼らに言われた。「私があなたがたに何をしたか、わかりますか。

 

<説教要旨>

 自分の時とは、この<過ぎ越しの祭り>において、世の罪を取り除くために神の小羊として十字架にご自身を献げられる時を意味します。それは世を去って父のもとに行く時でした。世におられた時が30年間だけでしたから、その日々は、神の御子としての為しうる全てのお心を砕かれた毎日であったに違いありません。今最後の晩餐の別れの席に臨まれ、身を裂くような決別の時を持とうとしています。場所は2階の大広間でした。(ルカの福音書22:11以降 )主は弟子たちを<自分のもの>と言われました。主の弟子とされた者たちの意味です。彼らは主の最後の晩餐会に主と共に臨まれた者たちでした。2節夕食のあいだのこと、悪魔はすでにイスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、3節イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くこととを知られ、4節夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。5節それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふきはじめられた。6節こうして、イエスはペテロのところに来ました。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」7節イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」この言葉は何げない言葉ですが、非常に含蓄のあることばでした。後で再びこれに触れます。

 イエスの答えはこうでした。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわるようになります。」人間が群れの中で成長して行こうとしているときに、この言葉は非常に大事に思います。8節でペテロは言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたとは何の関係もなくなります。」と主は言われます。するとシモンは慌てる様に「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」と、とっさに反応してしまうのが人間かもしれません。苦し紛れの思いつきも、ペテロの持ち味でしょう。10節イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」11節イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない」と言われたのである。「水浴した者は、足以外は洗う必要はありません。全身がきよいのです。」仮に水浴とはお風呂とみます。風呂から出て食卓に行く際に、足は土間を歩かなければなりませんので汚れます。ですから、足さえ洗えばよいと言われました。クリスチャン生活に応用しますと、信仰をもって受洗したとき、主に全存在が受け入れられました。しかし、地上で生活し活動する時、自分の魂は新生して聖いままでも、地上で生活する時は、世の汚れにまみれることがしばしばです。しかし、どんなに地上の罪にまみれ、緋のように赤く染まるとも聖霊はあなたを雪よりも白くされる(詩編51:)と約束していまし

た。

7節イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたには分からないが後で分かるようになります。」教会には信仰をもって間もない人がいます。教会政治において、リーダーが祈りの経験や学びが貧しくては躓きになりやすいのです。しかし、相互の失敗には互いに赦し合い、足を洗い合うことが寛容かと思います。