説教 2021年4月

2021年4月25日

「飢饉でエジプトへ」 創世記12:10-20    小高政宏 牧師

<説教要旨>

 はしめに

 故郷を後に天の御国めざして歩み始めたアブラハムの歩みは、「祭壇」(礼拝)と「天幕」(天国への旅)にと特徴づけられていました。しかし、神の導いた地であるカナンに飢饉があり、アブラハムは約束の地を離れてエジプトにいった。そのときの出来事から三点を学びたいと思います。飢饉という困難に直面して、1.目の前の恐れに負けてしまったこと、2.うそをついて自分を守ろうとしたこと、3.それを乗り越させてくださった神の恵みについてです。

 

 1.差し迫る困難……なぜエジプトに行ったのか

 アブラハムは天幕によって約束の地を進んでいきました。神に従い続けていました。そして、祭壇で礼拝を捧げていました。今日の私たちに当てはめると、きちんと礼拝を捧げ、祈り、教会のために奉仕したり、伝道したりする信仰生活をしていたわけです。それにもかかわらず、アブラハムたちは困難に直面した。きちんと信仰生活をしていても問題は起こった。

 アブラハムは故郷の安定した生活を捨てて、主のことばに従って出発し、カナンの地に来ました。アブラハムが飢饉に遭って困っているのを故郷の人が知ったら、「当たり前ではないか。だから行かなければ良かったのだ。」と、言ったに違いありません。見知らぬ土地に行くことはそういう危険が多いところにいくことだった。アブラハムは遊牧民として、牧草地を求めて旅をします。ベテルに天幕を張りました。それから、ネゲブの乾燥地帯に進みました。ネゲブのさらに南は荒れ地です。彼は、地図を見ると、南へ南へと条件の悪いところに移っています。後から来たものとしてアブラハムはその地にいる人々と問題を起こさないように配慮し、祭壇で礼拝を捧げていたのです。それにもかかわらず飢饉に遭ってしまったのです。

そこで、どうしたか。

 この時、アブラハムは祭壇の前で必死に祈り「主よ、どうしたらよいでしょうか」と導きを求めたとは記されていません。今までの信仰を第一とする人、人類最初に天国をめざして出発した人が、食料を求めてエジプトに行ってしまった。慎重なアブラハムの判断ですから、それなりの理由があったはずです。

その理由として、私は四つが考えられると思います。

 一つは、人生経験の未熟さです。アブラハムはこれまでの生涯でこういう危機に遭うのが初めてではなかったか。父がいて飢饉になっても大丈夫なように備えがあった。ところが、この時は知らない土地で、どうして良いか分からず必要以上の恐れを抱いた。そして、とにかく何とかしようと、回りの人と同じ様にしたのではないかと思う。ネゲブはエジプトへの道であり、たくさんの人の行き来があり、たくさんの情報が入った来た。そして、アブラハムが居たところの近くを通ってたくさんの人達が、エジプトに食料を求めて行ったことを知った。それを見て、自分たちもそうするよりほかないと思い、エジプトに行った。

 それから、二つ目はアブラハムは自分ひとりではなく、一族の長であり、その人たちを守らなければならないという責任感があった。故郷を出るとき、みんなが喜こんで出発したのではないが、一族の長に従った。その人たちのことを考えたら、より確かな道を選ぶしかなかった。

三つ目は、エジプトに行くのは、一時的だ、この時だけという考え方です。永久にエジプトに住むのではなく、あくまで自分は主の示す地を目指して生きるのだけれども、飢饉で仕方ないので一時的にエジプトに行くのだ。だから、神も許して下さるだろうと、判断したのではないかと思います。祭壇(礼拝)のほうは一時的におろそかになったが、天幕と共に進んでいくという意思は変わらなかった。しかし、いつも信仰が崩れてしまうときは、この時のアブラハムのような場合が多い。自分は信仰をなくしたのではない。一時的に仕方がないので主のみことばからはずれる。そして、またもとのような信仰に返るのだ。そういう思いでいて何時の間にか大きく信仰から外れてしまう。信仰を失ってしまうことになります。しかし、信仰を捨てたのではないかぎり、主は帰る道を備えてくださる。一時的であれば必ず帰る道もある。

 それから、四つ目は信仰者が問題に直面するとき、みことばも祈りもすぐには力にならないと思い込んだことです。で、早く楽になろうとすぐに頼れそうなものに目が向く。自分の判断やこの世の常識によって解決を求めてしまうことがあります。実際、アブラハムのような偉大な信仰者がそうだった。今までは祭壇を築いて祈っていたが、この時に限って祈ったとは書かれてない。不思議なことだが、実際にアブラハムは信仰の戦いを忘れていた。

 

 2.命を奪われる危機……なぜうそをついたのか

 アブラハムたちは、エジプトにいって飢えは免れました。しかし、飢饉よりももっと大きな命の危険に直面してしまいます。一難去ってまた一難、もっと悪くなってしまった。

エジプトは危険なところだと言う事はある程度予想していた。エジプトに入る前に、エジプトに行くと、妻のサライがとても美しい人だったので、力あるものに奪われて自分は殺されるかも知れない。そういう心配があった。アブラハムは妻に、もしそういうことかあったら、お前は私の妹と言うことにしようではないか。そういうことを前もってエジプトに着く前に話し、妻のサライもそうなったら仕方がないと受け入れていた。慎重なアブラハムでしたが、実際にそうなるとは思っていなかったに違いない。真剣に心配していたら、サラが美しく見えないようにできるはずだったからです。

 なぜ、うそをついたのか。まったくのうそではなく、妻であり妹とでもあるという事実の半分を隠した。積極的に騙そうとするのではなく、消極的な自分を守るためのうそです。こういう心はだれにでもあると思います。しかし、自分を神に明け渡すことができれば、自分をかばってうそをつかなくても良い。神がありのままの自分を守ってくれるからです。自分で自分を守ろうとすると、このときのアブラハムのように、ごまかそうとする。アブラハムはカナンを去ってエジプトの地に行くことで、信仰者としての誇りと勇気を失った。自分の弱さを思い知らされた。長い間助け合い生活を共にしてきた妻に対して、全くひどいことをした。恐怖に取り付かれると自分だけのことしか考えられなくなり、最も愛している者さえ犠牲にしようとした。

 エジプトに行ったら、妻のサライはパロの高官たちの目に留まり、彼らの推奨でパロの宮廷に召しいれられた。パロは非常に美しい女性が与えられたので、喜んでその兄であるアブラハムにたくさんのプレゼントを与えた。16節を見ると、家畜や男女の奴隷、労働に使う動物など生きるために必要なものが十分に与えられた。これで、アブラハムは喜んだでしょうか。心が痛み、後悔したのではないだろうか。

 

 3.アブラハムの失敗に対する主の扱い・・・苦しみを通して祝福を与える

 この時、神のみ手がたちまちにパロの王宮に下されました。ひどい災害が起こった。恐らく激しい疫病だったと思われます。これはエジプトに不公平な事のように見えます。しかし、アブラハムの失敗にもかかわらず、カナンの地に導き、信仰者として本当の故郷へと導こうとする神の約束からでたことです。

災害が起こったタイミングがサラが来たときだったので、それが原因だと考えてパロはサラに問い詰めたのではないか。そして、サラが実は自分はアブラハムの妹であることは間違いないが妻でもあることを告げた。そこで、パロはその事をアブラハムを呼び寄せて、正した。そして、アブラハムに与えた財産を持ったまま、国に帰りなさいと無罪放免した。弁解の余地のないほどアブラハムと妻の方が間違っていた。それなのに、神の恵みによって守られた。罪人をも守り導いて下さる神の恵みがなかったら、だれも生きていくことはできません。神は、人間が罪なしに生きられないと言う事をよくご存じです。ですから、運がよかったと言う事で片付けてはいけない。神があくまで、私たちの弱さをご存じで私たちの思いを越えたところで守って下さった。

 この時のアブラハムは信仰が弱くなり、信仰を知らない弱い男にすぎない。人としてもだめな人物にすぎない。将来は神の友、信仰の父、祝福の基と呼ばれるような人物が、この時には人生の小さな荒波におぼれてしまった。信仰がなくともカナンの危機を家族一族が結束して乗り切った者もたくさんいたはずである。それすらアブラハムはできなかった。

 アブラハムはこのエジプトの失敗を通して、なぜ自分が神のことばにしたがって、本当の故郷への旅を続けなければならないかを知ったに違いない。苦い涙と失敗をも乗り越えさせて下さり、導いて下さる神の恵みに励まされて、アブラハムたちは再びカナンに向かった。

 聖書はアブラハムの罪と弱さをはっきりと記録した。それは、私たちへの励ましのためである。もし、神がこの様に罪を犯した弱い者をご自分の友にして導いて下さるとしたら、たとい、私たちが神の召しに一時的にそむいたとしても、アブラハムと同じ様にいきる道が残されているのである。神の守り、神の導きがなかったら、私たちは皆滅んでいる。失敗を通して、主はさらに祝福を用意し、与えてくださる。

 

お祈り

2021年4月18日

「主の示す地への出発」 創世記12:1-9    小高政宏 牧師

<説教要旨>
はじめに
 調布南教会に導かれましたこと、感謝しております。最初の説教で、どうしたらよいかといろいろ考えました。そして今日の個所を与えられました。アブラハムは人類最初に天国を目指して出発した人です。すべての信仰者はアブラハムの子孫として、天国を目指します。キリスト教だけでなく、ユダヤ教もイスラム教の人もアブラハムを信仰の父と呼びます。
 アブラハムの信仰者としての特徴を表す3つの有名な言葉があります。「信仰の父」、「神の友」そして「祝福のもとい」です。アブラハムは不思議な人です。一見平凡で、私たちの身近な存在です。しかし、他方ものすごい信仰の人です。そして、耐えず成長し神に近づいた人です。よく信仰の深まるに従って、アブラハムがだんだん大きく見えてくると言われます。
 今日は、アブラハムの約束の地への出発のことから、信仰生活の土台となる4つを覚えたいと思います。1.神の言葉を聞くこと、2.天国についての思い、3.祝福するものとなること、4.礼拝の恵みについてです。

1.神のみことばを聞くこと
 父という大きな存在を失ったとき、アブラハムは神のことばを聞きました。75歳でした。神の言葉を聞くということは、自分の根本的な生き方を問われることです。そして、神のみことばは一生の間聞き続け、だんだんと深く理解できるようになっていくものなのです。アブラハムの人生を見ていくと、神の言葉を深く受けとめていく人生であることがわかります。

2.天国という約束の地を目指すこと
 1節に「あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、私の示す土地へ行きなさい。」とあります。
 アブラハムには子供がなかった。彼は血縁関係によって結ばれている人たちに深い愛情を持っていた。天幕をたたみ、愛している人との縁を切り、安心のできる人間関係を離れ、行く先が分かっていない地へと出発することは、冒険です。放蕩息子のような甘い考えで楽しみや成功を夢見て出発できない。家畜に与える草や水が確かにあるか。争いに巻き込まれはしないか、いろんな不安があったはずです。
 神の召しに応えるためには、それまで自分に与えられていた多くのものを手放さなければならない。信仰が神様の大きな恵みを受けとめるほど大きく成長するためには、幸福な安定した生活に安住していてはできません。まだ行ったことのない見知らぬ国へと旅立たなければならなかった。新しい土地で、新しい条件の下で生きなければ、約束の地に行くことはできない。
 天国は人間の力でどんなに進んでいってもたどり着くことはできません。また、一歩も進むことのできない壁にぶち当たり、苦しみなやんでいるときでも、天国のような恵みを知ることができます。天国は信仰者の目的地です。この世では決して与えられない完全な恵みを受けることができます。
 2節「わたしはあなたの名を大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。」とあります。
 神は何のためにアブラハムを導き出されたのか。それは彼を神の民の祖先とし、大いなる信仰の民を起こすためである。神の導きに従っていけば、神がどのような祝福を与えてくださるかと示すためである。
 一つは「大いなる国民とする」という約束です。アブラハムの一族は今は小さな群れです。大きな古代帝国メソポタミアやエジプトと比べると、象とねずみのようである。しかし、アブラハムの子孫からユダヤ教、キリスト教、イスラム教が出ました。反対にメソポタミアもエジプトも滅びてしまった。今は小さいが神に従うことで大いなるものとされる。そういう出発をした。
 二つ目は「あなたの名を大いなるものにしよう」という約束です。単純にみると有名人になると言う事ですが、この世で世界的に知られ、歴史に残るような有名になると言うのではありません。神の目に大いなるものとされると言う事です。

3.祝福のもとい
 3節「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪うものをのろう。地のすべての部族はあなたによって祝福される。」すごい約束ですね。自分が神の代わりになって、祝福したり、さばきをできるようにしてくださると言うのです。しかし、このみことばは、自分の勝手な思いで他の人を自由にできると言うことではない。賜物を与えられ、分け与えることができる、と言うことです。自分だけの幸せでなく、分け与えることができる祝福を受けるようになると言うことです。イエス様に似たものとなっていくということです。
 アブラハムの生き方がすべての人に影響を与える。彼がしっかり正しく生きれば、すべての人が祝福され、反対に不信仰な生き方をすれば、呪いを受けることになるというのです。そういう責任ある地位にアブラハムを立たせるという約束です。私たちが神に言葉に従うとき、私たちは神の御心を実行する責任ある立場に立たされるわけです。神に与えられているものを用いて、他の弱い人たちを助け、祝福するためであると言う事がわかってくる。ですから、御利益宗教のように沢山の恵みをもらって自分が幸せになるという事ではない。

4.祭壇を築き、主のみ名によって祈った
 アブラハムは神の言葉に従って、行き先も知らずに出発した(11:8)というヘブル書の言葉はよく知られています。このイメージからすると、どこへいくのかわからずにとにかく支度をして家を出たように感じられますが、そうではありません。カナンの地にいくと言う事はわかっていた。ちょうど私たちが天国に行きなさいと言われて旅立つのと同じです。天国はどういうところか理解できる。しかし、それがどちらの方向で、どれくらいの距離かは分からない。それでは具体的にどのような旅をしたのか。
 アブラハムの一行は、カルデヤのウルというユーフラテス川のペルシャ湾に近いところに長い間住んでいた。まずそこから、2000キロ北西に進んでカランと言うところにきた。そこから1000数百キロの旅をして、カナンの地にきた。大変な旅だったはずです。
 シケムは当時から宗教活動が盛んなところでした。モレの樫の木のモレというのは、占いという意味でだそうです。アブラハムが生まれたカルデヤのウルは太陽神の偶像崇拝、そして、兄のハランが死んだあと移ったカランの地は、偶像崇拝が盛んなところでした。そして、神の言葉に従ってやってきたカナンの地は、偶像崇拝のない地であったかというとそんな事はなかった。やはり、今までのところとは違っても偶像崇拝が盛んであった。数々の試練をこえてカナンに来たが、偶像崇拝に満ちている状況はあまり変わらなかった。
 しかし、神との関係は変わった。そして、アブラハムはそこに祭壇を築いて礼拝をささげた。それがアブラハムの人生を守り支えたのです。

2021年4月11日

「ルデヤの信仰」 使徒の働き16:11-15    吉井春人 先生

<聖書箇所> 使徒の働き16:11-15

 11 そこで、私たちはトロアスから船に乗り、サモトラケに直航して、翌日ネアポリスに着いた。 12 それからピリピに行ったが、ここはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。私たちはこの町に幾日か滞在した。 13 安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。 14 テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。 15 そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください。」と言って頼み、強いてそうさせた。

 

<説教要旨>

 ここは、わたしがデボーション箇所として読んでいた箇所で、パウロの2回目の伝道旅行で訪れた町ピリピに至り、ルデヤのことが心に留まりましたので、ご紹介します。

 ルデヤは、ピリピで最初に救われた信徒であったとされます。

 

 キリストとの出会いは、それぞれ違います。大きな人生の危機を通るなかで、主と出会うこともあり、両親や親族がクリスチャンである場合もあり、そしてルデヤのように、特別な出来事もなく、信じたとき、日常生活に特別な変化はみられませんでした。

 いいかえれば、主がどのように主との出会いをアレンジされるかは、それこそ主のご計画に依存します。病や人選の困難など、大艱難を乗り越えたあと信徒になったとしたら、それはすばらしいことです。

 いいかえれば、信じるために、大きな試練を経なければならないということもありません。

 最初に聖書記事の時代背景を紹介しましょう。

 ルデヤが住んでいたピリピは、マケドニアの植民都市でした。つまり、大勢の人が住んでいたとはいえ、先祖代だったのではなく、支配者であるローマが、退役軍人の居場所として人々を移住させた結果できた町でした。

 そのため、ローマ人やギリシャ人の主に軍族が多かったものの、ユダヤ出身者は多くなかったとみられ、ユダヤ人がつくるシナゴーグと呼ばれる礼拝のための会堂はありませんでした。

 ユダヤ人たちは、会堂がなかったため、川岸をとりあえずの臨時集会所としていまして、ルデヤは、ユダヤ人ではありませんでしたが、集っていたユダヤ人女性たちに交じって、定期的に神を礼拝していたとみられます。

 パウロとシラスは、ユダヤ人女性の集う集会で、救い主キリストのことを語ったのでありました。

 13~14節、

 祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。 14 テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。

 

 ルデヤユダヤ人の信じている創造の神を信じていたのであり、わたしたちにとっての課題がみえるとしたら、明確にキリストに出会うまえ、聖書の知識を知らされていない生まれつきの心が、キリストに出会うための準備となっていたのです。

 聖書の立場は、ほんとうの神を信じない異教徒にたいして、とても厳しいのだとしても人の思いや理解を超えた存在としての神を受け入れているのはほんとうの神さまを受け入れるための備えとされていた。いえ、少なくともルデヤの場合、そのように、信仰に入るための備えが与えられていたといえます。

 ただし、カルビンがいうように、神さまでなければ埋められない場所がすべての人の心のなかにあるとはいえ、何かわからないけれども神を受け入れていることが、信仰につながるのかというと、そうであるとはいえないのです。

 けれども、たとえ、信仰がないか、未熟であったとしても、クリスチャンとの交わりがあるというだけでも、主がそれを用いてくださるといえるでしょう。

 

 ルデヤの場合、「主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた」。とあり、ルデヤのもともと素性において、備えられたいたと同時に、パウロの説教をきくとき、主がその心を開いでくださったとされるのです。

 どれほどの聖書知識があっても、主が心を開いてくださらなければ、信仰の目が開かれることはなく、救いは、人の願いや努力によらず、ただ恵みによるのです。

  御ことばを聴くとしても、それが心に入るかどうか、主のみ業だということです。

 ですから、耳で聴いているとしても、それが心に留まっていなければ馬耳東風、聴いていないのと同じであり、聖霊によって心ひらかれるのは、すべてのクリスチャンに与えられているのだといえます。

 それでも、何かはっきりしていなかったとしても、人の思いと願いを超えた神のような存在がいるという事実を受け入れる心が与えられている日本人に、聖霊の風が送られて、想像を超えたたくさんの日本人がキリストの購いのみ業を受け入れるようになるという信仰をもっていたいのです。

 

 ちなみに、聖書信仰ではない新神学の影響によって、聖書は人の言葉とみなし、しかし、聖霊によって生かされたときはじめて「みことばになる」という考え方が100年以上まえから流行していて、今も、クリスチャンの信仰を蝕んでいることは悲しむべきことです。

 人の心に感動しようが感動しまいが、聖書は神の言葉です。主はご計画により、聖霊の働きによって、人の心を開かれたとしても、それは、人の思いや願いによって変化するのではありません。

 ルデヤは、すぐに信仰に入りました。全知全能の神であり、そして、救い主を遣わしてわたしたちを罪から救われた主キリストを受け入れたと同時に、信仰に裏打ちされた行いとして、そのとき、ルデヤができる最善のことを行いました。

 

  15 そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください。」と言って頼み、強いてそうさせた。

 

 ルデヤがパウロから説教を聞いたとき、パウロに何人の人が随行していたのかというところは、聖書研究者たちによって論じられています。

 11節と12節13節それぞれに、「わたしたち」という言葉がみえます。

 その「私たち」は誰のことなのでしょう。

 私たちといっているのは、著者ルカです。もちろん、パウロもシラスも含まれていて、途中からテモテが加えられたとみえます。

 ルデヤは、4人の伝道者たちを自分の家に宿泊するようにすすめたのでした。

 パウロは使徒、そしてシラスは長老ではありませんでしたが、有能な教会のリーダー、テモテは、今でいう神学生、そして、ルカは医者であり聖書記者でもありました。

 

 ルデヤは紫布の商人として生計をたてていまして、当時、紫色の布は、とても高価であり、裕福な人のステータスシンボルのようにみられていました。ラザロの生地で、お金持ちが「紫色の衣をきて、毎日遊び暮らしていた」と記されているくらいです。

 聖書の「紫布の商人」は、ひとつの単語であり、しかも、女性名詞ですから、当時のセレブむけに紫布を扱える特別なステータスをもった女性という意味だったととれます。

 お金もちでありながら、お金の力に支配されることなく、想像主を信じる人々とともに肩を並べ、さらに、ルデヤは、主を信じたあと、自分に与えたれた主の恵みを、主のために用いていただきたいと申し出たのでした。

 

 彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください。」と言って頼み、強いてそうさせた。

 

 「強いて」とあるところからすると、4人の伝道者たちは。一度は遠慮したのではないかと推察されます。なにせ急なことであり、4人ものおもてなしを勝ってでるというのは、簡単なことではないからです。

 もちろん、ルデヤにはそれができたのであり、与えられた富はすべて主からの恵みであり、主から与えられたものなので、主のご用に役立ててほしいと切望したのではないでしょうか。

 

 クリスチャンになることと、クリスチャンとして生きることは、すこし、時間差がみられることが多いかもしれません。生活をキリスト色に染めるとは簡単ではないからです。

 ルデヤが、福音を受け入れてからすぐに、完成したクリスチャンの状態にまで引き上げられた希な器だったのでした。

 

 パウロとシラスは、ルデヤとの出会いのあと、悪霊につかれた少女を解放したことに端を発して、獄中に入れられることになりまして、そのとき天使によって獄中から救われたとき、自殺しようとしていた看守に「主イエスを信じよ、そうすればあなたもあなたの家族も救われる」と、その家族がクリスチャンの群れに加えられるという出来事がありました。

 監獄から解放されたあと、パウロとシラスはルデヤの家に行きます。

 聖書がルデヤについて記しているのはここまでです。ルデヤが、どんなもてなしをしたのか、書かなくてもわかるでしょう。

 パウロはあとで、ピリピに形成された教会にむけて、手紙を書き送りました。その手紙なかにさえ、ルデヤの名は書かれていません。

 つまり、その意味するところは、ルデヤは、最初の信徒であり、群れのリーダーとみなされていましたが、常に裏方としての役割に徹底し、与えられた財力を上手に使徒たちを支援したのではないでしょうか、

 ピリピ人への手紙4:15-16

   15 ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。 16 テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。

  ルデヤが、使徒たちのために、贈り物を集める奉仕グループの中心にいたであろうことは、無理なく想像できるでしょう。

 

(了)

2021年4月4日

「いのちのことば」 ヨハネの手紙 第Ⅰ1:1-4    吉井春人 先生

<聖書箇所> ヨハネの手紙第Ⅰ1:1-4

1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、 2 ――このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。―― 3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。 4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。 

 

<説教要旨>

 職人たちに継承されている「裏打ち」という加工技術は、表面にでていない部分なのですが、職人の世界では、隠れていても、表にでている部分よりさらに大切な要素とされます。

 

 わたしたちの生涯もまた、主が墓から復活されたという事実を受け入れる信仰に裏打ちされていることが求められているのでした。そして、日曜礼拝が、主の復活を記念しているという意味であることからして、恒例の復活説の時期に特別に再確認すると同時に、すべての礼拝において、主が墓の中から復活されたという事実に裏打ちされているばかりでなく、クリスチャンの全生涯が、キリストの復活に裏打ちされているべきなのであります。 

 主はヨハネをはじめとした弟子たちに、主が復活された事実を事実として、消すことのできない焼き印のように、印象づけられました。

 現代は、バーチャルリアリティ技術によって、実際にはおこっていない出来事をあたかも実際の出来事のように、映像のなかだけで再現できるとされていますので、現代人であればあるほど、たとえば、テレビやインターネットでつくりだされた仮想現実に洗脳されやすくなっているのでしょう。

 弟子たちを取り巻いていた当時には、祭司長らが「弟子たちが死体を盗んでいった」という噂が流され、嘘であるとわからずに受け入れていたユダヤ人が多数ありました。

 ギリシャ哲学に影響され、キリストは十字架で死んだのではなく、気絶しただけだとか、肉体はなくなっても、霊として、心のなかに生きているのが復活だという人々まであらわるようになっていましたので、主は復活された姿をみて、目を丸くしている弟子たちにご自分が生きていることを明確に示されたのです。

 

ルカの福音書24:36-43

36 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。 37 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。 38 すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。 39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」 40 {イエスはこう言われて、その手と足を彼らにお示しになった。} 41 それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。 42 それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、 43 イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。

るのでしょうか。わたしたちの人生が、主の復活に裏打ちされたとき、どのような人生が生み出され

 それについて、非常に大切な聖書の考え方は、私たちが人生の喜びや幸せを探求した結果なにかを獲得できた結果なのではなく、不信仰に陥っていた弟子たちに主の側から近づいてこられ、復活の事実を悟らせ、それによって、わたしたちの人生に喜びと希望を満たしてくださったことにあるところです。

私たちは、どのような喜びに満たされるのでしょう。

 第一には、主の復活が、わたしたちの命を約束しているというところです。

 永遠の命は、主の復活において、わたしたちにとっても、肉体と心の再生を意味しているのです。もちろん、それは、当時の弟子たちばかりでなく、キリストに希望をおく、過去と現在と将来のすべての人にとっての希望なのでした。

 キリストを信じるわたしたちも、キリストが復活されたように、どんな欠点もない完全な体をもって蘇ることができるという希望なのです。

 わたしたちにどんな喜びが与えられるかはとても大きな関心事ですが、そこで覚えておかなければならないのは、「私たちの喜びが全きものとなるため」というとき、それは、主の父である神の心と、子であるキリストの心とも共鳴しているのであり、同時に、手紙をうけとったすべてのクリスチャンの心とも共鳴している喜びなのでした。

 文語訳聖書では、「あなたがたも私たちと交わりを持つ」を、「同心となる」と訳しています。同じ願いと志をひとつにしているという意味であり、原文では、コイノニア。「共鳴」とか「同心」という言葉だけでは足りません。

 私たちの慰めであり喜びの場所でもある主のみ業としてのコイノニアを創設されたのは、人ではなく神なのでした。

 

 第二に、是非とも心にとめておかなければならないのは、キリストのみ業は、父なる神とわたしたちとの橋渡しをされたというところです。

 少し脇道にそれるかもしれませんが、礼拝の最後の締めくくりとして教師によっておこなわれる祝祷について、一般的にはⅡコリント13:13から引用されます。

 「主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたたがすべてとともにありますように」という祈りです。イエスキリストが父なる神の間におかれているのは、私たちの罪によって、父なる神とのわたしたちのあいだにできた大きな溝があったのであり、2つを橋渡しされて行き来できるようにされたのが、キリストの役割だったというところです。それゆえに、わたしたちが、神を父と呼べるようになっているのは、ただひたすら、唯一、子であるイエスキリストのみ業によるのです。

 

 キリストの復活によって回復された喜びは、一時的なその場限りの慰めではなく、永遠に消えることがないのです。

 罪による喜びは、自己中心的な傾向が避けられません。

 そして、この喜びは、その場しのぎではないばかりでなく、自己中心的でもありません。この喜びは、愛そのものである神と一致しているゆえに、ヨハネの手紙の主題でもある「愛」に裏打ちされているのです。

 

 復活された主が、弟子たちや弟子たちに続くクリスチャンを、神の喜ばれる生き方ができるようにつくりかえ、そして、わたしたちのが生きることをそのものを喜んでおられるというのです。

 次のようにある通りです。

 Ⅰヨハネ3:22

 22 また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。 

 

(了)