説教 2021年1月

2021年1月31日

「過越の食事を用意しなさい」ルカの福音書 22:7-13     小高政宏 先生

<聖書箇所> ルカの福音書22:7-13

 7 さて、過越しの子羊のほふられる、種なしパンの日が来た。8 イエスは、こう言ってペテロとヨハネを遣わされた。「わたしたちの過越しの食事ができるように、準備をしに行きなさい。」9 彼らはイエスに言った。「どこに準備しましょうか」10 イエスは言われた。「町に入ると、水がめを運んでいる男に会うから、その人が入る家にまでついて行きなさい。11 そして、その家の主人に、『弟子たちと一赭に過越しの食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる』と言いなさい。12 すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこで準備をしなさい。」13 彼らが出かけて見ると、イエスの言われたとおりであっ た。それで、彼らは過越しの食事の用意をした。

 

<説教要旨>

 きょうの箇所は、主イエスが十字架にかけられる前の日、木曜日の出来事です。もうすでにユダは銀貨30枚で祭司長たちにイエス様の居場所を教えることを約束していました。そういう中で、主イエスは神の救いの計画が実現するように、弟子たちと過越の祭りを守ろうとされました。イスラエルの民にとって、出エジプトの救いの記念である食事の時に、イエスは完全な救いを実現するように細心の注意を払われたのです。

 

1.過越の祭、種なしパンの祭とは 

 主イエスの十字架の死は、過越の祭・種なしパンの祭の時に起りました。これは単にそういう時期に起ったということではありません。この祭の持っている意味は、主イエスの十字架の死と深く結びついています。この祭りについては、旧約聖書の出エジプト記に記されています。それまでエジプトで奴隷として苦しめられていたイスラエルの民が解放される記念の祭りです。主なる神によって遣わされたモーセは、エジプトの王に、神がエジプトに下す数々の災いを告げ、イスラエルの民の解放を要求しました。しかしエジプト王ファラオはなかなか解放を認めませんでした。最後に行われた10番目の災害によってイスラエルの民はエジプトの奴隷状態から解放されました。その災害は、エジプト中の初子、最初に生まれた男の子を、人も家畜もすべて、神が殺すということでした。その時、主なる神は、イスラエルの民に、それぞれの家で小羊を屠り、その血を家の入り口の柱と鴨居に塗るように命じられました。その血の印のあるイスラエルの民の家には、神は何もしないで通り過ぎました。そのほかのエジプトの家ではすべての初子は殺されました。小羊の血の印によって神様がイスラエルの民の家を通り過ぎる、それが「過越」です。そのことによってエジプトの奴隷状態からの解放という救いが与えられたことを記念して、「過越の祭」を行うことが定められたのです。

 そしてまた、「種なしパンの祭」とありますが、小羊が屠られ、その血が家の入り口の柱と鴨居に塗り、その小羊の肉を、家族みんなで食べます。そして過越の祭から七日の間、パン種を入れないパンを食べました。なぜ酵母を入れないパンを食べるのか。それは彼らがエジプトから出るとき、急がなければならなかったし、途中で食糧を用意する余裕もなかったからです。過越の出来事によって恐れを抱いた王ファラオは、イスラエルの民を解放すると言うよりもむしろエジプトから追いだしたのです。そのことを記念するためにパン種を入れないパンの祭りをするのです。ですから、主なる神によるエジプトの奴隷からの解放を記念し、感謝し、その救いを与えて下さった主なる神の民としての自覚を深めるために行われるのです。

 

2.主イエスが過越の小羊として十字架にかけられた

 この祭りと主イエス・キリストの十字架の死とどのように結びついているのか。来週、最後の晩餐について学びます。その時の主イエスの言葉にはっきりと示されています。それは主イエスこそ、私たちのために屠られた「過越の小羊」であられる、ということです。過越の小羊は、イスラエルの民がエジプトから解放され、神様の民として新しく生き始めるために犠牲となって殺されます。この小羊の死によって、神様による救いのみ業が実現しました。それは主イエス・キリストの十字架の死によって、罪の奴隷であった私たちが解放され、救われたことのひな型です。

 私たちは生まれつき罪に支配され、その奴隷となっています。人間は決して自由な者ではありません。罪の支配は私たちの思いを超えて深く大きなものです。自由な者だと錯覚している私たちは、私たちに命を与え、様々な賜物を与えて養い導いておられる神のことを知らず、感謝することもありません。自由だと思っている和たちは、実は神様に背き逆らい、罪に支配されているのです。そして私たちはその罪の奴隷状態から、自分の力で抜け出すことができません。自分が罪の奴隷になっていることに気付くことすらできないのです。イスラエルの民がエジプトの支配から自らを解放することができなかったように、罪の支配は私たちをがんじがらめにしています。そこからの解放は、神様の力による「贖い」によってしか実現しないのです。

 そのためには、独り子イエス・キリストを遣わして下さいました。まことの神であれる主イエスが、私たちと同じ人間となって下さり、私たちの全ての罪を引き受け、背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。イスラエルの民の初子の代わりに過越の小羊が死んだように、主イエス・キリストが私たちの身代わりになって死んで下さったのです。この主イエスの十字架によって、罪の奴隷状態からの解放、罪の赦しの恵みが与えられたのです。

 それゆえに、主イエスの十字架は、過越の祭・種なしパンの祭の時にこそ起るべきことだったのです。

 

3.過越の食事を準備する

 過越の祭、種なしパンの祭はイエス様の十字架と復活による救いのひな型です。今日の聖書個所には、主イエスがペテロとヨハネとを遣わして、過越の食事の準備をさせたことが言れています。「どこに用意いたしましょうか」と質問すると、主イエスは、「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会います。その人が入る家までついて行きない。そして、その家の主人に、「弟子たちと一緒に過越の食事をする客間はどこか」と、言いなさい。すると、席の整った二階の大広間を見せてくれます。そこに用意をしなさい。」と命じられました。二人が行ってみると主イエスの言われた通りになった。

 いつ打ち合わせをしたのかわからないから、この箇所を、主イエスによる一つの奇跡として読む人もいます。しかし必ずしもそのように考える必要はありません。主イエスが前もってこの家の主人に連絡してあって、二階の広間を使うことを頼んでいた。その家へと弟子たちを案内する人の目印が水がめを運んでいる男だ、という取り決めがなされていた、と考えても差し支えないと思います。大切なことは、奇跡かどうかということではなく、ユダの裏切りによって、大切な過越の祭りができなくなることがないように、イエス様が慎重に配慮されたと言うことです。主イエスが、弟子たちと過越の食事を共にすることを願い、その時に弟子たちに愛と恵みを示されたのです。この食事を準備したのはべテロとヨハネですが、この過越の食事は主イエスご自身が弟子たちを招いて下さったものだったのです。

 祭司長や律法学者たちの殺意と、民衆と弟子たちの期待、また12弟子の一人ユダにサタンが入って裏切ることが進んでいく中で、神のみこころにそって、独り子イエス・キリストは恐れることも怒ることもなく、過越の祭、種なしパンの祭りの意味を弟子たちにしつかりと教えられたのです。神の救いの計画が進んでいく中で、主イエスは、過越の食事を用意してそこに弟子たちを招き、過越の小羊として血を流し、新しい契約を与えるために、聖餐式を定めて下さったのです。来週見ますが、聖餐式の起源は、主イエスが弟子たちを招いてあずからせて下さった過越の食事にあります。主イエスは私たちのためにこの聖餐の食卓を整え、招いて下さっているのです。

 

(お祈り) 

2021年1月24日

「主の祈り ⑥ 罪を許してください」マタイの福音書6:12     吉井春人 先生

<聖書箇所> マタイの福音書6:12

 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

 

<説教要旨>

 少しまえに話題となったテレビドラマによって、「倍返し」という流行語が生まれましたね。

 これが、悪いドラマのイメージがつくり出されましたが、実際のテレビドラマの内容は、復讐心や仇討ちなど恨みを晴らすとかではなく、恩返しとか、会社や政治の世界に正義を実現することをテーマにしていました。

 ところで、人がアダムとイブによって生み出された堕落は、人のなかに、どのような悲惨をもたしたのでしようか。

 もちろん、全部堕落し、人には堕落していない部分など残っていません。

 堕落の結果は、仏教によれば、「死」「病」「苦」と表現されます。

 ただし、聖書によれば、人ばかりでなく、すべての造られたものにおよび、生物や、自然環境にも悪い影響を与えたと知らされます。

 主の祈りから、主がどのように、堕落の結果をご覧になっているかといえば、お互いのなかに、兄弟姉妹であるはずの、神の似姿であるはずの人のなかに、心が生まれ、そして、殺し合いが生まれる現実があり、主はそれを悲しんでおられ、解決するように願っておられるのでした。 

 歴史をひもとくと、人のなかに 正義がかたられ、ときには神の名さえかたりながら、戦争で人を殺してきたと教えてくれます。

 聖書にでてくる最初の殺人は、 アベルの兄カインでしたが、 その子孫であるレメクの言葉が、 堕落の後、 人の心に生まれている 心を象徴しています。

 

創世記4:22-24

 22 ツィラもまた、ドバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。 23 さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。 24 カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」

 

 敵対心や復讐心に支配されているのに、神の名を語るのは最悪です。

 つまり、それが、ノアの洪水の前に、どのような堕落が地上に蔓延していたか示しているのです。

 

 私たちの負いめをお赦しください。

 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

 

 ここでいわれている 「負い目」 は、 原罪を意味する hamarutia ではなく、債務をあらあわす、oheiremaであり、 主に、経済分野でのお金の貸し借りなど、 お金ばかりではなく、 自分が負っている債務、 他人から負っている債務に近い意味です。

 ここに示されている主の願いは、わたしたちが隣人から受けている「債務」を許すことにあり、 そして、 互いに融和して生きることにあります。

 当然ですが、ここから、「借金をチャラにしなければクリスチャンではない」とか、利子をとることは聖書的でないという教えを引き出すことはできません。

 

 自分の良いおこないを条件に差し出すので、それとひきかえに、許して下さいという意味ではないのは、ここでは、先に、主にたいして、許しを求めているからです。

 隣人から受けている被害や負い目を許すことを条件にして、隣人を許さなければ、自分は許されないという意味ではありません。

 つまり、あなたがわたしたちに憐れみを示してくださるので、わたしたちも、その模範に従って、隣人を許すように、促しておられるのでした。

 

 主からの許しは、 隣人から受けている被害や負い目を許すがなければ引き出されないのであり、 つまり、 許しが条件とされていて、 「隣人を許さなければ、 自分は許されない」 といっておられるのではないのです。

 イエス様は、 隣人の罪を許すというテーマについて、 たとえを話されました。

 つまり、 罪を許すことを、 他人から受けている債務について、 ひとつの大切な例えを語られています。

 

マタイの福音書18:21-35

 23 このことから、 天の御国は、 地上の王にたとえることができます。 王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。 24 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。 25 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物も売って返済するように命じた。 26 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。 27 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。 28 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリ借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。 29 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。 30 しかし彼は承知せず 、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。 31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。 32 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。 33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』 34 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。 35 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

 

 ここでは、罪が借金に例えられています。

 この例えばなしのなかで、お金の貸し借りを禁止しておられるのではありません。借りたものを返してもらうおうと思ってはならないといっているのではありません。

 現代は貨幣によるシステムが確立されていて、借りた分を利子によって生み出される利益が悪いなどという考え方を教えておられるのでもないのです。

 私たちの心に、「他人から受けた負い目」を許す心がなくなるのを、深く憂いておられるのです。

 たとえば、江戸時代、仇討ちという世相がもてはやされる時代がありましたが、身内を殺された親族や、家臣らが、仕返しをするのをもてはやす風潮であり、わたしたちの主は、そのような人の世相を憂いておられると知りたいのです。

 わたしたちの父なる神は、わたしたちの罪によって生み出されたたくさんの負い目を、自己責任だとかいって、重荷を負わせるお方なのではなく、私たちが受けているサタンからの攻撃をご自分が引き受けて、身代わりになってくださるお方なのです。

 現代日本の昨今の政治政策でいわれている自己責任論は、まったくもってサタンの言い分です、

 悲惨な境遇になっているのは、悲参さを生み出したあなたにあるという考え方であり、サタンはそのようにわたしたちを責めるのです。

 サタンがどのように人を滅ぼすのかというところでいうと、「罪を責める」ところにあります。この人はこのような悪事を働いたので、あなたから許しや恵みを受ける資格がないと主に訴えてでるのです。 

 しかし、わたしたちの父なる神は、あなたがどれほどの悲惨におかれていても、その悲惨が「自己責任」だと切り捨てるのではなく、その境遇から救い出し、むしろ、もっと優れた状態に導かれるお方なのです。 

 そのようなお方に倣っているわたしたちは、他の人から受けた被害にたいして、許す心を与えていただけるように祈りたいのです。 

 それは、この世の人たちとの違いです。「あなたから受けた恨みは、死んでも忘れない」という世の人との違いです。 

 誤解してはならないのは、主にあって罪は罪であり、罪がそのままで許されることはなく、ローマ人への手紙によれば、罪からくる報酬は死です。そして、主は罪にたいして、かならず、復讐されるお方でもあります。 

 わたしたちに要求されているのは、隣人の罪から受けた被害をどのように解決するかではなく、その被害そのものに主は関心を払ってくださるのだとしても、隣人から受けた負い目にとらわれて、心が復讐心や敵対心から支配されないように祈り求めることです。

  

(了)

2021年1月17日

「主の祈り ⑤ 毎日たべものを与えてください」マタイの福音書6:11  吉井春人 先生

<聖書箇所> マタイの福音書6:11

 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

 

<説教要旨>

 主が教えられたのは祈りの模範です。前半は主についての祈り。そして後半はわたしたちについての祈りでしたが、その最初が「毎日必要な食べ物をお与え下さい」です。

 つまり、食べ物が与えられるようにと祈りなさいという、その意味をご一緒に考えてみましよう。

 日ごとのと訳される原文の「epiuhsios」は、今日ばかりでなく、これから続く明日もという意味で、一回限りでなくつづけてずっと与えてくださいという願いです。

 

 わたしたちが最初に祈ることのなかに、食べ物のために祈りなさいとあるのは決して小さくはないのです。  

 たとえば、とくに願わなくても食に足りている場合、もしかしたら、わざわざ、食べ物の必要のために、祈ることについていえば、当然のことですが、戦争中などにくらべて、少なくとも回数は少なくなっているでしょうし、日本では、少なくとも、日常のなかで食べるものがなくなって右往左往するなどはみられなくなっています。

 アダムとイプの時から、人は食べなければ生きていけません。いうまでもなく、工デンの園で、彼らが畑を耕したのは、自分たちが食べるもののためでし 

 心底から食べ物をいただきたいと主に願っていなかったとしても、主が私たちにとって必要な食べ物の必要を満たしたいと切に願っておられるのです。

 たとえば、イエスさまのはなしをきこうと集まった5千人を超える人たちのために、奇跡をもってパンを用意されました。

 ですから、わたしたちの祈りのなかで、自分の食べ物について祈る祈りが、人のために祈ることより必要が低いということはありません。

 何を食べるかについては、「神の国とその義を追い求めるとき、添えて与えられる」と教えられます。

とりなしの祈りについては、次に取り扱いますが、自分の体の必要のため、そして、主が、わたしたちの食べ物の必要に心を開いておられるのだと、主を信じるクリスチャンとして、知っておくべきなのです。

 食欲やその他の体にとっての必要を、主がみ心に止めておられるのです。

 毎日食べるものがどこからくるのかわかっていてほしいと願っておられるのです。

 主は、わたしたちに願いをおこさせ、わたしたちの毎日の健康が維持されるように願っておられます。

 食べ物について人がどれだけ必要であるか、サタンが知らないはずはないのであり、サタンが人を攻撃するときに使う方法も、食べ物にまつわるものでした

 アダムとイプを、罪に誘うとき、禁じられた木の実を食べるように誘惑したでしょう。食べ物を騙すために使うというのは、昔も今も、かわらないサタンのやりかたです。

 イエス様が荒野でサタンから誘惑を受けられたとき、サタンが目をつけたのは、主イエスさまが空腹を覚えたときであり、自分の飢えを満たすために「石をパンに変えてごらん」というところでした。

 人はパンだけで生きるのではないとお応えになりましたが、主が用いられた言葉は、旧約聖書の記事のなかで、イスラエルが荒野にいたころ、天からマナを降らせる出来事からであり、そこでは、人が陥りやすい罪をお示しになりました。

 人にとって、食べ物が必要なのは当然のようですが、しかし、霊的な必要もそれにおとらず大事であり、問題なのは、霊的な飢えや渇きを自覚できないことの先に、結局、肉体も魂も死に至るという、ものすごく重大な現実があるのだと知らされているのでした。

 ヨハネが手紙のなかで、祈りのかたちで示したように、主は、心も体も、健康であるように願っておられます。

   「わたしたちに、毎日、食べるものをお与えください」と祈るように促しておられる主が強い関心をもっておられるのは、わたしたちの健康であり、命です。

 主は、わたしたちの「命」が守られ、維持されるように願っておられるのです。

 古来から、戦法の一つに「兵糧攻め」という戦い方があります。

 つまり、食料補給の道を断ち切ることで、直接戦わずに、敵を弱体化するという方法が古来からありす。 

 わたしたちの主は「日々の祈りを与えてください」という祈りをしなければ、食べ物をお与えにならない方ではありません。信仰があってもなくても、人々に食物をお与えになっておられます。 

 

 つまり、絶えず食物をくださるという約束もまた、何かの業とひきかえにお与えになるというのではなく、無条件なのです。

 信仰があるわたしたちには食べ物を与えられたことにともなって、 感謝を捧げるように、期待しておられるのです。

 私たちの主は、わたしたちが地上おいて与えられている命に関心をもっておられるのです。

 毎日の食事をお与えくださっている主のまえに、いわゆる安全な食事に無関心であるべきではないのでしよう。そういって話を深めていけばどこまでもきりが無いかもしれません。

 自分の体を大切にしなさいとか健康を管理しましようとか、信仰がないひとたちと同じ基礎にたっているのではなく、わたしたちは、全知全能の主に祈るべきであり、生きていたら、自動的に備えてくださると考えるのではなく、「祈り」に組み込まれているのだとしたら、食べ物に無関心であるところから、やはり、より良いものを祈りもとめることが必要です。

 主は、わたしたちに食べ物についての願いをおこさせ、わたしたちの毎日の健康が維持されるように願っておられます。

 次のように語られました(マタイの福音書6:25-27)

 25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。27  あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。

 主がご自分の命をささげて、わたしたちの命を救われましたが、それは天国に続く命を保障されたのですが、地上で与えられた命を守ってくださるのです。

 コロナのパンデミックがおこるまで、現代人は、これほど広範囲に死のを身近に感じさせる時代から遠ざかっていました 

 主はわたしたちの地上の命に深い関心をもっておられ、命が疫病や事故などの危険から守られ、支えられるように願っておられるのです。

 

(了)