説教 2021年9月

2021年9月26日

「つぶやきと疑いの闇夜を超えて」ピリピ人への手紙2:13-16   吉井春人先生

<聖書箇所>

13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。14 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、16 いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。

 

<説教要旨>

☆わたしたちのなかに働いて事をなしておられる神

 

 クリスチャンでない人々が、「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい」という教えをそのまま受け入れられないでしよう。

 クリスチャンであっても、たとえクリスチャンでなかったなおさら、自分にとってどうかだけが基準となるので、つぶやきや疑いなど最初からないような道を行きたいと願うでしよう。

 できるだけ、人から褒められるようなところ、いがみ合うのではなく、気持ちの良い人間関係が実現できる道ならさらによいでしょう。

 

 けれども、もし、ある会社の社長が、これから先社長のおこなっていることや、言うことに、つぶやくことや疑うことをもつことを禁止するなどといえば、良い経営者とはいえず、自分の考えを部下におしつけたり、従業員を奴隷のように扱う悪い経営者とみなされるでしょう。まして、国が法律で、国家権力にたいしてつぶやいても疑ってもならないと決めていたとしたら、民主国家とはいえず、独裁国家となるでしょう。

 この聖書箇所は、誰が支配しているのか、全能者である主キリストが私たちの生涯を支配しておられるという教えをふまえるべきです。

 

 ピリピ書でいわれているのは、わたしたちのすべてのおこないに、神が働いておられるということが、信仰生活の基礎とされているところに基づきます。

 共同訳聖書をみると、原文のねらいがさらに明確にされています。

13 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。(ピリピ2 :13 )

 

 私たちの信仰生活は、自分のなかから生まれる考えや悟り、野心や自分の願いによらず、主がその目的のために、クリスチャンを世の中に召し出しておられるのだというのです。

 私たちは自分の意思でイエス様を受け入れてクリスチャンになります。

 そして、さらに、長い時間をかけて、聖書に親しむにつれて、実は、信仰とは、わたしたちのなか始められていいたのではなく、天地のつくられる前から、主の側からはじめられ、ご計画をもっておられ、信仰をお与えになるご計画をもっておられたのです。

 

 願いを与え、行わせるほどに、わたしたちのなかに働きかけておられるのは、わたしたちの人生が、自分のものではなく、すでに主のものとされているからです。

 主イエス・キリストの尊い血潮というとても高価な代価をもって、買い取られたのであり、私たちは、すでに自分のものではなく、主のものであり、主がご自分の目的にために用いるための器とされているのでした。

 

 私たちの信仰生活は、自分のなかから生まれる考えや悟り、野心や自分の願いによらず、主がその目的のために、クリスチャンを世の中に召し出しておられるのだというのです。

 私たちは自分の意思でイエス様を受け入れてクリスチャンになります。

 そして、さらに、長い時間をかけて、聖書に親しむにつれて、じつは、わたしたちの側から始められているのではなく、主の側からはじめられ、ご計画をもっておられ、事を行っておられるのだとされているのです。

 

 自分で苦労しながら信仰の闘いを勝ち取ってきた自分は優れていると勘違いしないでください。

 

 主が先にみ業を働かせてくださり、わたしたちに思いを与え、それを実現したいと願わせ、そしてわたしたちを通して、主のみ業をおこないたいと願っておられるのです。

 

☆使徒パウロの経験と心の秘訣

 

 それがピリピ人への手紙を書いたパウロのいう「秘訣」だったのではないでしようか。 

 パウロは、ピリピ人への手紙のなかでこのように伝えています。

 

 ピリピ4:12-13

 私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。4:12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

 

 クリスチャンとして歩もうとしていたのに、自分だけが貧乏くじをひいたような境遇に陥るのだろうかとか、主がすべてをご存じで、わたしを愛しておられるのだとしたら、どうしてこのような不幸な憂き目にあわなければならないのかと、つまり、ここで言われている「つぶやき」と「疑い」は、主にたいしての「つぶやき」であり疑いなのです。

 

 クリスチャンとして生きるとき、たとえ、信仰をもっていても、つぶやきや疑いの嵐に押しつぶされそうになる経験は、きっと少なくないでしよう。

 この手紙を書いたパウロも、文字通り、そのような経験をしたのです。

 使徒の働き16章に記されています。

 第2回目の伝道旅行において、パウロとシラス、そしてテモテにルカを加えた一行は、植民都市ピリピに導かれました。そこで、紫布の商人で、ルデアと出会い、ルデアの家族が救われ、ピリピ伝道の拠点となったのです。

 しかし、ルデアとの出会いのあと、別の日に、ビリビには占いの霊にとりつかれた少女がいて、パウロは、少女から悪霊を追い出しました。

 ところが、少女を奴隷にして金儲けしていた人が敵対心をもっことになり、パウロとシラスを犯罪人だとでっちあげられ、ローマ政府にひきわたされ、むち打たれた後、足かせをかけられ、投獄されてしまったのでした。

 主の働きをし、主のみなによって、身業をおこなったにもかかわらず、理不尽にも、牢獄されたとき、パウロとシラスはどうしたのでしよう。

 かれらのロにあったのは、つぶやきでも疑いでもなく、賛美でした。

 

 使徒の働き16:22-25

 22 長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、23 何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。24 この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。

 

 ほかの囚人たちが心を引き寄せられるような賛美とは、いったいどんな賛美だったのか、きいてみたいものですね。  

 主は、地震をひきおこされ、牢屋から外に脱出させてくださいました。

 番をしていた看守が、責任を感じて、自殺しようとしたとき、パウロはそれをひきとえめ「主イエスを信じなさい、そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます」と語り、看守とその家 族が、ピリピ教会の大切な信仰の礎とされたのです。

 信仰に基づいていくところを決めてきて、さらに、人間的には災難とか思われないようなできごとのなかで、主はわたしたちの心に余裕を与えてくださるに違いありません。

 

☆闇夜のなかで光る星のようになる

 

 使徒パウロは、「つぶやき」「疑い」から解き放たれ、支配されないクリスチャンが、よにあって、光り輝くようになるのが、主のみ心であると教えました。

 

ピリピ2:15-16 新共同訳聖書

15 そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、16 命の言葉をしっかり保つでしょう。

 

 ロ語訳聖書、ラゲ訳、そして共同訳の聖書が、「星のように」と訳しています。

 原文は、星という単語ではなく、「発光体」といった意味ですが、当時、発光体といえば、ランプのあかり、そして太陽と月と星でした。光り輝く星を示したのには意味があります。暗黒の夜空に、暗さに飲み込まれることなく、輝く星のようになるようにと、主が求めておられます。

 はっきりと闇夜と区別され、それが内におられる主からもたらされる光なのだというのです。

 オリンピックがおわりましたが、その輝きとは、選抜に勝ち抜いて、能力の高いものされたとき、褒美として受けるメダルの輝きではありません。クリスチャンとして召されたすべての人が、賜物としてあたえられる主にある輝きです。

 

 聖書の世界観は、光と闇の対立とか、光と闇の相互の還啓とか教えられていません。

 そして、光が光りらしく輝くために、闇が必要などという異教の教えと混同されてはなりません。

 聖書は闇と光を、互いにたすけあう還啓とはみえていません。

 闇はキリストに反するのであり、やがて、光に駆逐されていきます。

 

 キリストにある光は、闇を照らすばかりでなく、すべてのものをその光で覆いっくし、世界のどこにも暗黒がなくなると信じましよう。

 ヨハネによれば、

1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

 

 わたしたちの信仰生活は、たとえ、困難や苦難が訪れようとも、信仰による忍耐に伴って、勝利が約束されています。

 それは、わたしたちが一人子の犠牲という代価をもって買い取られたからです。すでに、わたしたちの生涯は、自分のものではなく、主がわたしたちの心と願いとに働きかけ、世に合って、キリストの勝利を獲得するための主の器として、用いてくださるためです。

 

(了)

2021年9月19日

「救い主の先駆者」マルコの福音書1:4-7     小高政宏 牧師

<説教要旨>

 はじめに

 先週は、マルコの福音書の第一回で、イエス・キリストの福音について学びました。きようはバプテスマのヨハネの働きを学び、伝道への思いを新たにしたいと思います。ヨハネという名は、「主は恵み深い」と言う意味です。ユダヤではよくある名前でした。英語ではジョン、ロシャ語ではイワンです。

 

1.旧約聖書の預言の成就

 洗礼者ヨハネの登場は旧約聖書に預言されています。独り子イエス・キリストを遣わして救いを実現して下さる神は、イエス・キリストの道備えとしてヨハネの働きをご計画されていたのです。ヨハネは旧約聖書の最後を飾る最大の預言者であるとされ、ルカ7:28では「女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。」

 

 ヨハネはイエス様の母マリヤの親戚であった祭司ザカリヤと妻エリサべツに年老いてから与えられた子です。イエス様よりも半年早く生まれました。

 そして、彼の働きは荒野で始められました。「らくだの毛で織ったものを着て、腰に皮の帯を締め、イナゴと野密を食べていた」とあります。当時の都会生活でもなく、農村の生活でもなく旧約時代の預言者の服装で、遊牧民のような食事をしていた。荒野は新しい生活に備える場所であり、神との出会いと訓練の場所です。出エジプト以来そういう場として荒野は覚えられていた。イエス様も活動の始まりに荒野で40日間断食をされました。

 イザヤの預言通りに荒野に現れたヨハネは、何をしたのか。「罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」と4節にあります。これが道備えの中心的な活動でした。

 

 そこで、彼が語ったことの内容は、①罪 ②悔い改め ③罪の赦し ④バプテスマに要約されています。ヨハネは人々に、悔い改めることによって罪の赦しが与えられることを告げ、悔い改めを迫ったのです。

 そして、集まった人たちに洗礼を授けました。このヨハネの呼びかけは多くのユダヤ人たちの心を動かしました。5節には「ユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」とあります。「ユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民」というのは誇張した表現ですが、荒野から伝わったヨハネのメッセージに衝撃を受け、彼のもとにやって来て洗礼を受けたのです。

 

2.悔い改めとは・・・神の前に自分を見る

 洗礼者ヨハネが荒野から宣べ伝えると、ユダヤのたくさんの人々が悔い改めました。イエス・キリストの福音は悔い改めと深く結びついています。この後主イエスが登場し、福音を宣べ伝えていきますが、その最初は「時は満ち、神の国は近づいくなった。悔い改めて福音を信じなさい。」と告げました。

 それでは悔い改めとはどういうことでしょうか。日本語では、悔い改めは後悔や反省と同じように受け止められます。後悔は失敗や悪事をああすればよかった、もっと努力すべきだった、あいつのせいだというように、嘆くことです。ここからさらに、もう二度と失敗しないように考え直し前向きに努力しようとするのが反省です。後悔は後ろ向きで怒ったり、逃げたりするだけです。それに対して、ヨハネの教える悔い改めは、旧約聖書の教え通りに神様に立ち返ることです。

 聖書に書かれているギリシャ語では、悔い改めるという単語は、「後に」言う単語と「認める」という単語をつないでできています。後になって過ちや失敗を知る。そして、残念に思い、心を変えるとい意味です。ですから日本語の後悔や反省と同じです。それに対して、旧約聖書では悔い改めるは向きを変えると言う言葉が語源で、神様に立ち返ると言う意味です。罪人である人間は、神様から離れ去っていく方向へと向かって生きています。神様に背を向けています。反省する場合でも神様を覚えないでこの世の知恵で、こうすればもっと良くなるだろうと、自分なりにいろいろなことを考え努力し、頑張っても、神様に立ち返ることはありません。いくら努力しても、たとえ一時的にうまくいっても、神様から離れていってしまうのです。 自分の悪い所を反省してそこを直していこうと努力しても、根本的な解決が得られないのです。

 旧約聖書は、神様との関係において自分たちに必要なのは反省ではなくて向きを変えることだと教えています。神様の方向に立ち返ることが悔い改めることです。悔い改めは後悔や反省することではなくて、神様の方に方向転換をすることなのです。それはとても大変なことです。自分のこれまでの歩みを否定されることになるからです。反省というのは、根本的には自分を変えるのではなく、今のままでよい、でも少しここだけは改善しよう、ということです。根本的な悔い改めて新しくされた信仰者として、日々の生活の中で悔い改めることと、神を知らない反省は違います。

 

 しかし私たちと神様との関係は全人格的な者です。神様との関係においては、私たちは方向転換をしなければならないのです。神様の愛は、私たちの現状をただ肯定して、そのままでよい、ありのままでよい、というものではありません。神様は私たちに、悔い改めを求めておられるのは、本当に私たちを愛しているからです。

 

 悔い改めが反省ではなくて方向転換であるように、罪の赦しも、私たちが罪を反省して自分を改善し、罪のない立派な人になることではありません。罪のない立派な人になろうとするのは、罪の赦しを必要としない人となるということです。罪の赦しは、罪人にこそ与えられるのです。神様に背き逆らっている罪人である私たちが、神様の方に向き変わり、罪を認めて赦しを願う時に、神様が恵みによって赦しを与えて下さるのです。私たちはその神様の恵みによって、罪人であるままで赦しにあずかるのです。そういう意味では、神様は罪人である私たちを、ありのままで赦し、受け入れて下さいます。それは、私たちが悔い改めて神様の方に向きを変えることにおいて起るのです。そういう救いをヨハネは宣べ伝えたのです。そして、そういう悔い改めをした多くの人たちがいたのです。ヨハネの言葉は反発を受け、無視され、迫害されたのではなく、多くの人々がそれを受け入れ、彼のもとに来て罪を告白しました。そして、ヨハネは水で洗礼を授けました。

 

3.当時の洗礼

 洗礼は最初にヨハネが考え行ったことではありません。神のみ前に出るために水に浸かって全身を清める、という信仰生活から始まったものです。当時のユダヤ人たちの中には、世俗を離れて厳しい共同生活をしていた人々がいました。彼らの間では、水で身を清めることが繰り返し熱心に行われていました。

 また、当時のユダヤでは、洗礼はユダヤ人ではない異邦人が偶像の神々を拝んでいたが改宗して主なる神様を信じる者となり、神の民に加えられる時に受ける儀式でした。異邦人は、洗礼を受けてイスラエルの民に加えられることによって初めて救いにあずかることができる、と考えられていました。

 ところがヨハネは、ユダヤ人たちに向かって、あなたがたも洗礼を受けなければ救われない、と言いました。ユダヤ人も異邦人と同じ罪人だ、というのです0異邦人が悔い改めて洗礼を受けることによって罪を赦されて救われるように、あなたがたユダヤ人も、悔い改めて罪の赦しを与えられなければ救われないと宣言したのです。

 

 このヨハネのメッセージは、自分たちは異邦人とは違って神に選ばれた民であり救いを約束されている、と思っていたユダヤ人たちにとって、思いもよらない主張でした。自分たちがずっと持ち続けて来た神に選ばれた民としての誇りや自負を否定され、見下していた異邦人と同じだとされたのです。当然、そのような教えには反発し、拒否し、敵対する人も多くいました特に民の指導者たちの間にはそういう人々が多かったわけで、このヨハネが後に捕えられて首を切られたのも、そしてヨハネが「わたしよりも優れた方が、後から来られる」と告げた主イエスが十字架につけられて殺されたのも、そのような人々によってです。

 しかしそうでない人が多くいたのです。ヨハネの悔い改めなさいと言う言葉に耳を傾け、そこに真実を見出したユダヤ人たちが沢山いたのです。5節には多くの人々が、罪を指摘し、悔い改めを迫るヨハネの言葉に引き付けられ、本当にそうだと受け入れたのです。そして彼らはヨハネのもとに来て、罪を告白して洗礼を受けました。彼らは、我々は神に選ばれた民だなどと自慢していられない。自分は神様に赦していただかなければ救われない罪人なのだ、ということを認めたのです。

 

4.主イエスの恵み・・・私は彼の靴のひもを解く値打ちもない

 ヨハネは自分が来るべき救い主のために道を準備し、整えるものであることを自覚していました。

7節に「私よりもさらに力ある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。」8節「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」とあります。

 これは単なる謙遜ではありません。本当にイエス様の偉大さを知っているからこそ言うことのできた言葉です。

 ヨハネの洗礼は水でした。しかし、水によって全身の汚れ洗い流したとしても、水では洗い流すことのできない「罪」があります。ヨハネが人々に授けていた水の洗礼は、救い主に導くための備えだったのです。ヨハネは自分は救い主としての業を行なう者ではないということを知っていました。自分は後から来るキリストを証しするために来たのであると自覚していました。そして、自分はその方のくつのひもを解く値うちもない、と言ったのです。靴のひもを解いて足を洗う仕事をするのは、しもべ中で一番地位の低いしもべでした。

 

 ヨハネは、主イエス・キリストは「聖霊によって洗礼を授ける」方である、と言っております。ヨハネは「水によって洗礼を授けましたが、主イエスは聖霊によって洗礼を授ける方なのです。両方とも、「罪の赦しを得させるための洗礼」です。相違点は「水」と「聖霊」の違いです。その相違は決定的に大きいのです。

 

 罪の赦しは人間のカではできません。罪のない神のひとり子イエス・キリストの十字架の贖いによってだけできることです。そして、罪を赦された人は新しい人とされるのです。イエス様の弟や妹とされ、神の子としての身分を与えられます。その人のうちに聖霊の神がいて下さり、いつも主イエスがいるように導いてくださいます。そして、天の御国を目指して旅人として進んでいきます。イエス・キリストはヨハネが決してできない救いを実現してくださることを知っていたのです。 

 

お祈り

2021年9月12日

「イエス・キリストの福音」マルコの福音書1:1-3     小高政宏 牧師

<説教要旨>

 はじめに

 私がこの教会で奉仕を始めてからずっと創世記を読んできました。今日からしばらくは、マルコの福音書を学びたいと思います。マルコの福音書は、四つの福音書の中で一番はじめに書かれたと考えられます。新約聖書の四つの福音書は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという順に並べられていますが、それは以前にはこの順序で書かれたと考えられていたからです。しかしその後に、マルコが最初に書かれ、マタイもルカもマルコを土台としつつ書かれたことが分かってきました。ヨハネはその二つよりも20年位後に書かれました。

 この福音書がなぜ書かれるようになったのでしようか。主イエスがこの世を去られた時に、主は再び来られることを約束されました。そして、初代教会は主がすぐに来られると信じていました。しかし、主の再臨はなかなか来ませんでした。宣教が進み、信徒が増える中で、十二使徒や主イエスのことを知っている弟子たちが少なくなっていきました。そこで、記録に残す必要が出てきました。

 

 このマルコの福音書を書いたマルコという人は、どういう人でしたでしょうか。イエスさまの十二弟子の一人ではありません。マルコは、エルサレムのかなり大きな家の子でした。お母さんのマリヤがイエス様一行がエルサレムに行くときに宿泊したり、最初の教会の集会にも使われました。家には女中もいたので、かなり裕福でした。イエス様一行とは小さい時から知り合いであったわけです。

 マルコはパウロとバルナバと共に第一次伝道の旅に加わった若者でした。けれども、途中で帰ってしまいました。そのためにパウロはこのマルコを次の伝道旅行には連れて行かないと言い出します。このマルコはバルナバといとこであったこともあり、パウロとバルナバはこのために別々に伝道することになりました。その後、マルコはペテロの通訳として伝道に携わりました。そして、後には、パウロから同労者と呼ばれ、「私の子」言われるように大きく成長し、 福音書を書いたのです。

 パウロもペテロも、ローマでネロ皇帝の迫害の中で、殉教しました。その後にマルコはこの福音書を書いたと考えられます。それよりも前にペテロの通訳をしながら書いたと考える説もあります。紀元70年頃にローマ軍によってエルサレムは滅ぼされました。この福音書にはそのことが記されていないために、紀元70年以前には書かれていたと考えられます。

 この時代にはすでにキリスト者たちの数はどんどん増えていました。信じる多くの人たちは主イエスの福音を詳しく知りたいと願っていたのです。そのような中で、マルコは、「神の子イエス・キリストの福音はこのようにはじまった」と主イエス・キリストの福音を書き記したのです。誰にでも読むことができるように、分かりやすい表現の短い文で生き生きと書かれています。

 

1.福音ということば

 さて、マルコはこの書物の書き始めを、「神の子イエス・キリストの福音の初め。」としています。それでは、「福音」とはどういう意味なのでしようか。

 ギリシャ語は、「良い」という意味の「エウ」と、「知らせ」という意味の「アンゲリオン」という言葉が組み合わさって出来た、「エウアンゲリオン」という言葉で、「良い知らせ」という意味です。英語では福音を普通「ゴスペル」と言います。それは「ゴッド」と「スペル」という言葉が合わさって出来た言葉で、「ゴッド」は「神」ではなくて「グッド」と同じ「良い」という意味です。「スペル」は「話」という意味なので、これも「エウアンゲリオン」を英語に移した言葉 です。マルコがこの書物を書いた時代には、「エウアンゲリオン」「福音」という言葉は、特別の言葉ではなく、一般に使われている言葉でした。

 

 福音という言葉は、新しい皇帝が即位したとか、戦争に勝ったとかいうようなローマ帝国のみんなが喜びお祝いするような知らせの時に用いました。祖国を離れて戦いに出ている軍隊が、敵に勝ったか負けたかということは、重大なことです。戦争に負ければ、多くの兵隊が死にます。そして、略奪されたり、奴隷にされたりします。人々はその戦争がどうなったのかの知らせを、不安と恐れの中で、今か今かと待っていたのです。そこに届く勝利の知らせ」が、「福音」でした。ですから、「福音」は、単なる「ニュース」ではなく、それを聞いた者の人生に幸せをもたらす知らせでした。自分たちの命も財産も守られ、喜びをもって、愛する家族が帰ってきて平和に暮らすことができると伝える知らせなのです。

 ローマ帝国が支配する時代に生きたマルコは、この、「福音」という言葉を使って、最も価値ある知らせを「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き出したのです。それは、力ある優れた皇帝が即位することや戦争に勝ったと言う事よりもはるかに素晴らしい知らせだと確信して書かれたのです。

 

2.預言の成就

 さて、この「福音」という言葉について、もうーつマルコが意図していることがあります。それは、ローマ帝国の中で使われていた福音にはない別の意味です。それは旧約聖書の預言によって示される意味です。この世で自分の願いや自分の特権が守られると言うような良い知らせとは違う意味で、神との関係で自分が恵みを与えられると言うことです。

 イザヤ書40:9には、「シオンに良い知らせをシオンに伝える者よ。良い知らせをエルサレムに伝える者よ。高い山にのぼれ。力の限り声をあげよ。」とあります。この「良い知らせ」というのが、ヘブル語からギリシャ語に訳されたとき、マルコの「福音」と同じ、「エウアンゲリオン」という単語が使われています。この言葉は、霊的な意味、信仰的な恵みを表す良い知らせのことです。

 

 イザヤ書40章以降は、神の選ばれたイスラエルの民が、バビロニア帝国に戦争で滅ぼされ、国を失い遠く離れたバビロンの地に奴隷とされた歴史を背景としています。そして、そこからの解放と神の救いの恵みが重ねられて預言されています。イザヤは、奴隷とされているイスラエルの民は、主なる神によって解放され、祖国に戻ることができる。そして、イスラエルの国が再建される」、という救いの預言をしたのです。

 

 そして40:10には「見よ、神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。」とあります。主なる神が力を帯びて来られ、神が王として支配して下さり、イスラエルの民に平和と勝利をもたらすことが、「良い知らせ」であり「福音」なのです。そして、この世の王国の反映ではなく、天の御国のことと重ね合わされているのです。

 この「良い知らせ」「福音」が訪れる日を、イスラエルの民は長い間ずっと待ち望んでいました。そして、イスラエルの民が待ち続けたその「良い知らせ」が、今ここに語られているのです。

 

3.イエス・キリストによる実現

 この福音は、「イエス・キリスト」によって実現しました。イエス・キリストは名前と苗字なのではありませんイエスはヘブル語ではヨシュアです。助けると言う意味です。「キリスト」というのは、称号であり、「救い主」を表す言葉で、ヘブル語では「メシア」と言います。もともとは「油注がれた者」という意味です。ユダヤ人は、王や、祭司や、預言者を任命する時に、神に選ばれた人として油を注ぐ儀式をしました。そして、神に仕える特別な務めに就いたのです。

 ですからユダヤ人は、イスラエルの民を救うために、神の特別な任務を担う「油注がれた者」が現れることを期待し、そのいっか来る方を「メシア」「救い主」と呼んで待っていたのです。ですから、「イエス・キリスト」というのは、「イエスは救い主である」という意味です。

 王としては、この世の王というよりも霊の世界とこの地上の世界の「王の王」であり、この世界と全てのものを造り支配し、最終的にこの世のすべてをさばき、終わらせる王です。

 祭司は神と人との間に立ってとりなす役割をします。律法を教え、礼拝を執り行いました。特にいけにえを捧げ、罪の赦しを神に願います。預言者は神の言葉を聞いて人々に伝える使命を与えられた人です。最終的には、神の国を伝えます。こういうキリストがもたらす救いが福音なのです。

 

 福音は、神と人との関係、人と人との関係を根本から変えました。それは十字架の贖いによる罪の赦しによってです。そして、十字架で死んだ主イエスが復活したように、信仰者は復活して新しい人とされました。主の兄弟姉妹として神の子としての身分を与えられます。それから、この世の富にはるかに勝る天国の富と栄光を受け継ぎます。もはや苦しむこともなく恐れることも虐げられることもなく、全ての病気が癒され、神をほめたたえることができます。そういう救いの実現と天国の恵みを約束され、信仰者は旅人して天の故郷を目指して歩みます。

 

4.私たちにとって「良い知らせ」とは

 「福音」という言葉は私たちに対する一つの問いかけとなっています。福音によって、あなたは何を本当に願い、どんな「良い知らせ」を待ち望んでいるかが、問われているのです。当時人々の多くは、貧しい生活を一生強いられていました。支配され、差別され、弱い立場に置かれ、いつも恐れていました。一生苦しい中に生きなければなりません。そういう人たちを本当に救う良い知らせは何なのか、という問いです。ですから、私たちは、本当に良い知らせとは何なのかをしっかりと見つめなければなりません。

 もっと高い地位を得て、多くの富や奴隷を持って、安心して暮らせることだけを望む人には、イエス・キリストの福音は、決して良い知らせではありません。マルコは、この福音書を読む人たちがイエス・キリストを知り、神の愛を知り、それを通して信仰者として救いの確信を持つことを願っています。キリストとの出会いは、神との出会いです。

 

 神の子イエス・キリストの福音とありますが、イエス・キリストはまことの神であられる、ということです。神の子というのは、神のように立派な人間、という意味ではありません。神のひとり子、神と本質を同じくするまことの神である方が「神の子」です。その神の子が私たちと同じ人間となってこの世に来て下さったのです。人間としてこの世に来て下さっただけでなく、主イエスは私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。そこに、主イエスの、私たち罪人の救いのための愛と徹底的なへりくだりがあります。そして、私たち値が神のひとり子とされたものとして、神の子としての使命と尊厳をもっていきるようにしてくださったのです。

 

お祈り

2021年9月5日

「一本の柳の木を植え」創世記21:22-34     小高政宏 牧師

 

<説教要旨>

 はじめに

 信仰者の人生は天の御国目指しての旅です。アブラハムは75歳の約束の地を目指して出発しました。そして、やっとここで模範的な旅の仕方が定まってきた。きようは、そのアブラハムの歩みから三つを学び、模範としたいと思います。

 

①地域の人々に尊敬され、交わりを求められる

②自分から犠牲を払って井戸(信仰)を守る

③一本の柳の木を植えて、主の恵みを証しする

 

 今日の聖書箇所は、アブラハムの人生で最も平安なときといえます。アブラハムはハガルとイシュマエルを自分の天幕から送り出した。二人を去らせることは人間的な思いからも信仰の面からも非常に大変なことでした。この事を通してアブラハムは一回り大きくなった。悩み抜いた果てに、主に解決の道を示され、信仰によって生きることの恵みをしみじみと味わった。アブラハムの人生においても天の父は平安のときを与え、やがて大きく用いられるのです。平安な時のしつかりとした信仰生活が大きな試練を乗り越えていく力となります。

 

1.地域の人たちに尊敬され、相手から交わりを求められる

 この時、アブラハムの一族はアビメレク王の支配する地に住んでいました。ある時、アビメレク王と将軍のピコルが訪ねてきた。普通、王が自分のほうから訪ねて来ると言う事はありま せん。使いを送って用件を伝えたり、会う必要があれば自分のところに来させる。ところが、この時、王と将軍がアブラハムのところに訪ねてきて、誓って下さい、と言った。それは、アブラハムが尊敬され、恐れられていたからです。アビメレク王には、アブラハムの信じる神のことは良く分からない。しかし、アブラハムは普通の人とは違う。神が共におられ守っている。牛や羊が増え、しもべも毎年増えているので、脅威を抱かせたのかもしれない。しかし、そういう事よりも神のような高貴なところがあった。

 クリスチャンもどこか違っており、注目されるようでありたい。そして、相手のほうからやってくるように、教会にいつも新しい人がやってくるようでなければ順調とはいえない。数年前、アビメレク王はアブラハムに会っています。その時は、アブラハムが殺されるのを恐れて、妻のサラを妹だと偽り、サラは王のところに側妻として召しいれられた。夢で神から真実を告げられ、王はサラをアブラハムの所に返し、アブラハムに祈ってもらい、たくさんの贈物を与えた。牛や羊、奴隷を与え、好きなところに住みなさい、と言ってサラには銀1000枚を与えた。

 そして、アブラハムがアビメレク王のために祈ると、王の家族もしもべたちもいやされ、一族に子供が産まれるようになった。自分の安全ために嘘をついて妻を犠牲にしたという点では、アブラハムはアビメレク王に劣る人物にすぎない。しかし、神によってアブラハムは守られていることを、アヒメレク王ははっきりと知った。

 王と将軍は来て最初に「神はあなたと共におられる」と言っています。いつも神が共にいるように生活していた。そのことが、人々の注目を集めていた。人は見ていないようで見ている。

クリスチャンは「世の光」と言われますが、アブラハムの生活はそうなっていました。

 最初アビメレク王に会ったとき、「この地方には神を恐れると言うことが全く無いので、人々が私の妻のゆえに、私を殺すと思ったからです」、と言いました。恐れて嘘をついてまで、自分を守ろうとしましたが、その後はこの地域の人々を恐れて卑屈になったり、逆に軽蔑したりすることはありませんでした。神がいつもともにいるように生きてきたのです。

 

 旅人は目的地を目指して、知らない土地に行きます。その点で、ずっと同じ地域に住んでいる人とは違った面を持っています。その決定的に違った面と言うのはいつも神が共にいるように生活するという事です。その点で、尊敬されるようになったわけです。あくまで旅人ですから、その地域にずっと住み、その地域の人と同じになるのではありません。しかし、今自分がこの地にいることがどういう意味を持っているかを知っていたわけです。放浪者には神がともにいるという思いはありません。ただ人を見て、その時々の流れによって生きるだけです。

 つぎに、アビメレク王から誓ってくれるように頼まれました。

 23節にあるように。誓いの内容はふたつあります。

 ーつは、私も私の親族、縁者たちも裏切らないで下さい。

 もうーつは、この土地に真実を尽くして下さい。

 これは具体的にはどういう事か。ふつうどちらかが家来になるか、あるいは対等の兄弟の立場で平和条約を結ぶことを指します。相手から平和条約を結ぶように求められるということは、身近な言葉でいうと、友達になったり、交わりに加わるように求められることです。

 

2.自分から犠牲を払って井戸を守る

 それから、2番目の特徴は、受け入れるだけではなく、同時にけじめをつけることです。 この世の富や名誉にだけ心が向いたり、反対にこの世のことを軽く見たり、蔑視することではありません。この世のものを無視するのではありません。あるべき価値は認め、実際以上に見るのではなく、正しい位置付けができると言う事です。必死になって守ろうとするのは、信仰です。

 

 具体的に見ていきましよう。

 24節を見ると、「誓って下さい」という王に対して、すぐに「誓います」と答えています。素直に相手の願いを受け入れます。旅人は一時的にとどまりほかのところに移って行きますので、どうしたらうまく受け入れられるかということのほうを考えますが、自分の側から先に相手を受け入れる事が先です。このゲラルの地にあってアブラハムは地の塩のようであったのではないでしようか。塩は料理の中に溶けてあちこちに広がって、塩の性質を発揮します。味を引き立てたり、腐らないようにしたりします。まず溶け込まなければ何の役にも立たない。アブラハムは「私は誓います」と言い、溶け込み、受け入れます。しかし、それだけではその地の人と同じになってしまい、塩の働きはできません。

 

 アブラハムは自分の井戸が奪われたことを抗議しています。これは信仰の旅人にとって非常に大切なことです。この抗議は単なる自己主張や文句ではない。自分の生きる姿勢の根本に関わる事で砂漠の地に有っては、水は人や家畜に不可欠な非常に大切なものでした。水の争いは血を流す争いに発展しました。今日の私たちにとってはただ水と言うよりも、信仰生活や礼拝を守ることに当たると思います。他のことでは相手に溶け込み受け入れて仲良くやっていく。しかし、信仰生活の部分においては自分の領域をしつかりと守るわけです。

 アブラハムの抗議を聞いたアビメレク王は、自分の家来のしたことを知りませんでした、と弁解しています。アブラハムの抗議はきつばりとした妥協の余地のないものであったと思われます。しかし、アブラハムは相手を攻めることが目的ではありません。こういう者たちがいついつ私が掘った井戸を奪った、と言うふうにいう指摘して攻めることはできたはずです。しかし、それ以上王を追及していません。  

 自分から牛や羊を相手に与え、お互いの関係を良くしようとしています。井戸を奪われて抗議して、もっとしっかり契約を結ぼうとしています。契約のための負担を全部自分で負い損害を与えた相手から何もとらない。以前多くのものを王から与えられ、その時から10年くらいでアブラハムは豊かになり、大きな勢力となっていた。だから王は今度は自分が良くしてもらっても良いという気持ちがあったと思います。もちろんアブラハムにも借りを返すと言うような思いがないとは言えません。しかし、そういう事とは別に、真の解決を目指す。小さいことから大きな争いになってしまうことがありますが、相手を非難し自分の正当性を主張することのほうが、問題の解決よりも優先される場合には、そうなってしまいます。しかし、アブラハムは違いました。自分から解決のために犠牲を払いました。こうして、アブラハムは井戸を誰にも侵害されずに用いることができるようになりました。

 

 この井戸は、べエル・シェバと呼ばれました。べエルは井戸という意味。

シェバは「七つの」「完全な」と言う意味と、シャーバで「誓い」という意味をかけています。この名前は、井戸のもつ霊的な意味を教えるヒントとなります。この井戸は、今日の私たちの信仰生活に当てはめると、永遠の命の水が湧きでる井戸です。

 

3.神との交わりを益々深くする、井戸のそばに一本の柳の木を植え

 また、アブラハムはこの井戸のそばに一本の柳の木を植え、永遠の神、主の名によって祈りました柳の木は高さが9メートル、根は地中深く30メールまでも及び、葉が細く水分の蒸発が少なく、他の樹木が枯れてしまっても生き生きとしている砂漠地方に最適な記念樹です。枝葉が影になって暑さから守ってくれ、何時までも生き生きとして、「永遠の神」を覚えるのに相応しい木です。

 アブラハムと木との関わりは、カナンの地にきたとき、シケムのモレのテレビンの木の傍らで礼拝しました。また、ロトと別れた後、ヘブロンのマムレのテレビンの木の下で礼拝しました。

 

 今日の私たちにとっては、学校の卒業のときのように記念樹を植えると言う事よりも、信仰の記念として証しを残す事だと考え良いと思います。

 学校に入学するとき、どんな事を祈ったか就職するとき、結婚のとき、

 いろいろな試練にあったとき、祈ったこと、励まされたみことば、信仰の交わり、

 そういう事を記念とし、証しとして残し、後に続く人のための道標としていくことです。証しは洗礼の証しが最も大きいものですが、一生続けられるものです。信仰者の生き方が証しとして、ほかのどんな生き方よりも確かで希望のあるものであることがはっきりと示されことで、伝道は大きく進むと思います。

 

お祈り