説教 2021年10月

2021年10月31日

「祈りと宣教の力」マルコの福音書1:35-39   小高政宏牧師

<説教要旨>

 はじめに

 

 本日の個所は、ペテロの家で夜遅くまで多くの人をいやした後の出来事です。イエス様は、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所に行って、祈っておられました。そして、弟子たちが捜しに来ると、近くの別の村に行って福音を伝えようと言いました。

 本日はこの箇所から、①忙しい時や霊的に疲れた時の祈りの大切さ、②福音宣教といやしを求める人々への配慮について、二つを学びたいと思います。

 

1.忙しい時、疲れた時にこそ祈りが必要となる

 イエス様は、ペテロの家で、熱を出して寝ていたしゅうとめをいやされました。それを知った人々は病人や悪霊に取りつかれた人々を連れて、家の戸口に集まってきました。イエス様は、たくさんの病気の人たちをいやし、悪霊を追い出されました。夜遅くまでかかり、疲れ果てたと思います。夜が明けると、また多くの人たちがやってきます。ですから、十分に眠って休むことができません。そこで、イエス様はどのようにされたのでしようか。

 イエス様は「まだ暗いうちに起きて」、人里離れた寂しい所へ行って祈られました。眠って 体を休ませることよりも祈りの時としたのです。それは祈りが大切なことで、イエス様は意志が強いから、そうすることができたと言うことではありません。

 

 祈りは、神との魂の交わりです。祈りによって、神を礼拝し、愛し、賛美し、その恵みに感謝し、自分の罪を神に告白し、赦しを求め、神の御心に従い、霊的祝福を自分とほかの人々のために求めることができるのです。

 祈りは人の霊の目を開き、暗くなった思いに光を注ぎます。私たちは、罪のために真理に対して閉ざされているので、「何を祈ったらよいかわからない(ローマ8:26)」のですが、神のみこころに沿った祈りをできるように、聖霊が働いてくださるのです。祈る時には、一人になって、静かな場所で神様と向かい合うことが大切です。祈りとは、天の父なる神との対話であり、交わりの時です。主イエスは、神に遣わされた方です。どのような時も、父なる神の御心を思い、神の望まれることに従って歩んでいこうとされます。いやしを行い、福音を宣べ伝える力は、父なる神様への祈りに支えられてできることだからです。

 マルコ福音書で、イエス様が祈られたことが記されているのは、三箇所だけです。それは主イエスがあまり祈らなかったと言うことではありません。ルカの福音書にはたくさんイエス様が祈られたことが記されています。イエス様のいやしも福音宣教もいつも祈りながら進められていきました。そのことを踏まえて、マルコの福音書は、イエス様の祈りについて特に大切なこととして、3つのことを取り上げたのです。

 

 本日の箇所以外の所では、この後の6章にあります。有名な5千人の給食の奇跡をなされた後、主イエスは弟子たちを先に舟に乗せてガリラヤ湖の向こう岸に行かせました。そしてご自分は一人で山に行かれ祈りました。主イエスは、ご自身を求めてやってくる大勢の群衆を「飼い主のいない羊のように見て深く憐れみ」、集まっていた5千人もの人々に二匹の魚と五つのパンを増やして分け与え、満腹にしました。その時も本日の箇所と同じように、主イエスは大きな業を行い霊肉共に疲れていました。その時に一人祈られました。そして、主イエスの奇跡の恵みを願う人々から去って行かれました。

 また、14章には、主イエスが、十字架を前にして、ゲッセマネの園で祈られたことが記されています。その時の主イエスの祈りの言葉が記されています。「アバ、父よ、あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と十字架の苦しみを目前にして、主イエスは祈られました。この祈りの後、主イエスが逮捕され、十字架につけられていきます。そのような時に、主イエスは、父なる神のみこころが行われることを願い祈られたのです。

 十字架の苦しみを前にして、ご自身の中にある人としての弱さから十字架を避けたいと思いながら、主イエスは「わたしが願うことではなく、みこころのままをなさってください。」、祈ったのです。

 主イエスは、苦しむ人々を憐れむ思いを誰よりも強く持っていました。そして、祈りの中で、真の救いのために、ご自身の救い主としての道を進むことを確信していくのです。ここで主イエスは、人里離れた寂しい所で祈りました。そこは荒れ野と同じところです。主イエスがサタンの誘惑に合われた所です。一方で、苦しむ人々をいやしてあげたいと願いつつ、もう一方で、人々を罪から救い出すという神によって与えられた使命を覚え祈られたのです。主イエスは、ご自身のことを理解せずに、自分を捜し求めてくる人たちの真の救いのために 人々がいるところから去られたのです。

 

2.人の思いと神の思い

 しかしこの後、「シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると<『みんなが捜しております』と言いました。「みんな捜しております」。ここで、「みんな」と言われているのは、弟子たちだけでなく、いやしてもらおうと願う人々みんなです。ルカによる福音書では、この場面は人々が主イエスを捜し求めてやってきたことになっており、4:13に「群衆はイエスを捜し回ってそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた」と記されています。まだ治してもらっていない人もいます。これから後も病気になった時、あなたがそばにいて下されば安心です。離れて行かないでください。そういう人々の思いは切実であり、もっともなことです。

 

 しかし、主イエスは、そのような人々の願いに対してはっきり言われました。

 38節を読む。「イエスは彼らに言われた。さあ、近くの別の村里に行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」

 私たちは、自らを捜す人を置き去りにして、他の町や村に行かれる主イエスに、冷たさのようなものを感じるのではないでしようか。昨夜、主イエスの下に来た人はいやしてもらい、少し遅れて来た人はいやしてもらえないのです。不公平に思えます。しかし、このいうことは私たちの信仰生活の中でもあることなのです。私たちはそれぞれの歩みの中で、いろんな試練を与えられます。皆自分なりの困難に直面し、苦しみながら歩んでいます。そのような中で、主イエスに祈り求めて、願いが叶う人もいますし、求めても、思うようにならない時もあります。

 

3.福音を告げ知らせよう

 なぜ、主イエスは自分を求める人々がいる所に留まらないで、他の町や村へ行くのでしようか。それは、そこに留まることが、決して、苦しむ人々の本当の救いにならないからです。苦しむ人の本当の救いのために、他にもっと歩むべき道があるのです。そして、やがて自分も救われるようになり、聖霊の神が一人一人にいて下さる時が来るのです。そのために主イエスは、ご自分が神の救いを実現するための歩みに、従う者たちを伴って、「緒に行こう、みんなで行こう」と言って下さるのです。近くのほかの町や村に行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出されました。主イエスは弟子たちに、一緒に行ってみんなで福音を宣べ伝えよう」といったのです。宣教は人間の思いだけではできません。神の愛と力に基づく救いのための働きですから、神の導きなしにはできません。そして、その力を私たちに教え与えてくださるのです。

 

 主イエスに従う弟子たちの歩みは、主イエスによって神の御心を深く知り、宣教の担い手となっていく訓練の時となります。そうして弟子たちは、癒され恵みを受けた人たち以上に、救いの恵みを深く知るようになっていくのです。

 もちろん、主イエスは人々の苦しみを理解されなかったのではありません。事実、主イエスの歩みはこれから後も苦しむ人々をいやし奇跡を行うことと神の国の福音を告げることの二つがなされていきます。来週の個所にも主イエスが重い皮膚病の人を癒す記事が出てきます。そこで、主イエスはその人のことを「深く憐れみました。しかし、主イエスがこの世に来られた目的が病気をいやし、困っている人を助けることだけであったなら、主イエスによる救いは実現しません。救いは神と人との関係と同時に人と人の関係を根本的に変えることなのです。

 「そのために出て来たのだから」とあります。主イエスは「宣教」のためにこの世に来られたと言われました。「宣教」は、私たちの願望をかなえ、人々を幸福にするということではありません。神の救いである罪の赦し、新生、神の子とされること、天に返ることなど、世界の始まりから終わりに至ることで、人間の思いをはるかにこえた大きな恵みなのです。そのことを人々に示し、実現していくことが救いです。その一部としていやしがあります。主イエスは、決して私たちの人生の中での苦しみや、弱さに無関心な方ではありません。しかし、人間の苦しみや弱さを知れば知るほど、神の救いの計画の大切が分かるのです。

 

 ここで誤解してはならないことは、自分の願いや苦しみからの解放を求めることは無味だと考え、神のみこころを求めればよいと言うことではありません。アブラハムのように神の友と言われるような信仰者にすぐになることは出来ません。信仰においても子供時代が必要です。お菓子屋おもちやを子供は欲しがります。そのことを通して、親のことを知り、社会のことを知っていきます。ですから、どんどん祈り聞かれたり、新しいことを知らされたりして、神への信頼を高めていかなければなりません。

 

 マルコの福音書では、主イエスの祈りが記されているのは、三カ所だと言いましたが、もうーつ祈りという言葉は出てきませんが、主イエスが父なる神に向かって祈られた箇所があります。十字架の上で主イエスは父なる神に叫ばれました。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。父なる神のみこころに従い続けた歩みが、なぜ見捨てられるのかという叫びです。誰よりも祈り、だれよりも神のみこころを求めて歩まれた主イエスが、私たちのために苦しまれて、叫ばれた。この十字架上の叫びを聞くとき、私たちは「なぜ主イエスは苦しまれるものを見捨てられたのか」とは言えなくなるのではないでしようか。神は不公平だとは言えなくなります。自分勝手な思いで祈り求める私たちの罪が、主イエスの十字架によって贖われるからです。

 

 お祈り

2021年10月24日

「ペテロの家でのいやし」マルコの福音書1:29-34   小高政宏牧師

<説教要旨>

 はじめに

 

 きょうは、安息日の礼拝の後ペテロの家でなされたいやしのことを学びたいと思います。主イェスは、熱病で床に着いていたペテロのしゅうとめをいやされました。ーそして、それを知った人たちが、町中から多くの病人を連れて来て、いやしてもらいました。このことから、①傷つき痛み苦しむ人への愛について、②信仰生活と家族への配慮について、③町中の人々の苦しみや願いについて、覚えて祈り、主イエスの愛と救いの御業を覚えたいと思います。

 

1.礼拝の場から家庭へ

 礼拝の後、イエス様の一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行きました。最初の弟子となったシモンとアンデレ兄弟の家は会堂の近くにありました。その家には、シモンのしゅうとめ、つまり妻の母親が一緒に暮らしていました。奥さんのお父さんが死んで、残されたお母さんと一緒に生活するようになったと思われます。そのしゅうとめが熱病にかかっていました。ガリラヤ湖周辺は湿地が多くマラリヤという熱病が多かったので、それではないかと考えられます。相当に高い熱が出るので、寝ているよりほかありません。重いインフルエンザか、はしかと同じような病気だったと思われます。

 普通こういう病気のときは、祈祷師に頼んで祈ってもらいます。当時のユダヤ教の律法学者はいやしを行いませんでした。出来なかったのかもしれません。律法を解釈して教え、厳しく守ることに熱心であっても、人々の生活に恵みをもたらすことはなかった。しかし、イエス様はまったく違っていました。人々の生活や苦しみや弱さに限りない愛をもっておられた。 

 「人々はさっそく、彼女のことをイエスに知らせた」とあります。会堂でイエス様が悪霊を追い出したことを知って、そのカで、熱病に治してもらおうと期待したのです。ペテロの家族は隣近所の人たちと親切にされるような関係だったのです。

 すると、イエス様は知らされると、彼女に近寄り、手を取って起こされました。ペテロのしゅうとめはすぐに良くなりました。こうして、安息日に二つ目の奇跡が行われました。会堂で礼拝の時に悪霊につかれた人を正常な状態に戻し、その後すぐにペテロの家に行って、しゅうとめの熱病をいやしたのです。

 ここで、覚えたいことは、礼拝の恵みが家庭の恵みとなっていったことです。

 

2.家族への配慮

 皆さんどうでしようか。自分の信仰生活が家族のためになっているでしようか。ペテロはイエス様の弟子となり、一緒にあちこちに行き、伝道活動の手助けをします。弟子となる前のように仕事は出来ません。朝の早い時間にするくらいです。普通に考えますと、奥さんもしゅうとめも困ったことだと思うのではないでしようか。収入が少なくなってしまいます。弟子となった後に取税人が税金を集めに、ペテロの家に来たことが書いてあります。その時二日分の賃金に当たる税金を納められなかった。イエス様が釣りをするように言い、そのとおりにすると、魚のロに銀貨が挟まっていて、それで払った。とにかく良い事をしているかもしれないが、自分の家には何も恵みがない、と思っていたと考えられます。こういうときに、ペテロのしゅうとめのいやしの奇蹟が行なわれました。イエス様がペテロのしゅうとめが寝ているところに行って、手に触ると熱が引いた。

 この日は安息日です。ユダヤ人は安息日には一切の仕事を休みます。ですから安息日には煮炊きをせず、その日の分の食事は前の日に作っておきます。ペテロの家族も、主イェスを迎えてもてなしするために、前の日に準備をしたことでしよう。ところが当日になって、シモンのしゅうとめが高い熱を出してしまった。もてなしができなくなってしまった。しかし、いやしてもらいすぐにもてなしを始めた。普通熱が引いたといっても、高熱が続くと体力が落ちてすぐに起き上がって働くことが出来ません。ところが、主イエスはペテロのしゅうとめの手を取って起こされました。するとすぐにイエス様と弟子たちをもてなしを始めました。主イエスのいやしは奉仕へと結びついています。

 「起こす」という言葉は、「死者の中から復活させる」という意味でも用いられる言葉です。それは、私たちが洗礼を受けて、罪に捕えられていた古い自分が死んで、新しい自分、主イェス・キリストと結ばれ、その十字架による罪の赦しを受けて、神様の民として生きるようになる、ということとつながります。主イエスの権威と力によって私たちはそのように起き上がり、新しく生きることができるのです。また、「もてなす」と訳されている言葉は、「奉仕する、仕える」という言葉と同じです。主イエスによって苦しみを担っていただき、新しく生かされた者は、主イエスに奉仕し、仕える者となっていくのです。ペテロのしゅうとめは喜び感謝して、イエスをもてなし、主イエスに奉仕し、仕えたのです。主イエスに、苦しみを担っていただき、新しくされた者の歩みがそこにあります。

 

3.礼拝の場から私たちの生活の場へ

 さて主イエスは会堂での安息日の礼拝の後、ペテロの家に来ていやしを行ったことを、私たちの生活にあてはめると、どういうことになるでしようか。日曜日の教会での礼拝を終えて、 家に帰ってから、それぞれ自分の生活を始めます。その私たちの生活の中に、主イエスが一緒に来られると言うことです。礼拝が終わったとたんに神様のことも主イエスのことも忘れ てしまうのではなく、どんなに不十分であっても、主イエスを自分の日々の日常の生活の中にお迎えして、共に歩もうとする。それが恵みにつながります。

 マルコの福音書では、「彼女に近寄り、手を取って起こされた。すると、熱が引いた」と、あります。また、ルカの福音書では、「熱をしかりつけられた」となっています。マルコはイエス様の愛と交わりを強調し、ルカはみことばによるいやしを強く言いたかったと考えられます。礼拝の中で語られたのと同じ主イエスのみ言葉が、ペテロの生活の中で語られ、ペテロが礼拝で聞き、見たことが、自分の家で起こったのです。礼拝と日常の生活とが結びついている。礼拝の恵みが家庭へと広がっていく。そして、さらに多くの人へと広がっていきます。主イエスを自分の家に、自分の日々の生活の中にお迎えすると、それによって支えられ、カづけられ、いやされ、導かれていくのです。礼拝において、主イエスに出会い、自分の苦しみ不安、罪や恥をすべて主イエスの前に明け渡して、救いを求めていくのです。その時にこそ、礼拝で聞いた力ある救いのみ言葉が、私たち一人一人の生活の中で実現していくのです。ペテロのしゅうとめのいやしは、すぐに立ち上がってもてなしができるにどの回復力がありました。まさに奇跡です。そして、もてなしをしたのは、感謝の現れです。私たちも礼拝に来られない家族がペテロのしゅうとめのように感謝の思いを持っことができるようにできたらと思います。

 

 私は以前、かなり年を取ってから洗礼を受けることになった人からこういう証しを聞いて感動したことがあります。「家族がみんな守られ、大きな病気もなく、仕事も順調に来たのは、ばあさんがどんなときにも礼拝に行き、神様の恵みを頂いていたからだと思う。ずっと前からそう思っていた。」

 

4.さらに多くの人に、一人ひとりに手を置いて

 それから、日が沈むと、人々は病人や悪霊につれた者をみな、イエスのもとに連れてきました。ユダヤでは、一日は日没から始まります。ですから「日が沈むと」というのは、安息日が終わり、新しい日が始まったということです。安息日に仕事をすることは禁止されていました。病気を癒すことは仕事に当たります。そこで、人々は、安息日が終わったのを確認して安息日の律法を破らないように、病気で苦しんでいる人、自分の家族や友人を主イエスのところに連れて来たのです。「町中のものが戸口に集まって来た」とあります。人々の期待がどんなに大きかったかが分かります。会堂から、ペテロの家、そして、町中へとイエス様の働きが知られ、人々に希望を与えたのです。主イエスは病気にかかっている多くの人を治し、悪霊につかれている人から悪霊を追い出しました。

 主イエスはそれらの人々を一度にひとまとめにして、「病気の人たち、悪霊に疲れた人たち、いやされよ」と言っていやされた」のではなく、連れて来られた一人一人に手を置いていやされました。それは、主イエスが一人一人と交わりを持ち、それぞれの人の事情を聞き、人格的な出会いの中でいやしを行なうためでした。

 主イエスのいやす力はどこから来るのでしようか。ただ力があったと言うのではありません。旧約聖書のイザヤ書53章に「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」とあります。そこには、神様から遣わされた「主のしもべイエス」が、はっきりとした意思をもって人々の苦しみや病い、人々の罪を身に負って、苦しめられ、裁かれ、殺される姿があります。そのことによって、人々の罪がすべて赦されます。苦しんでいる人々と関わり、自分の身に負ってくださることによってです。

 私たちは、自分の力や知恵で自分の罪をすべて償うことは出来ません。自分のカで次々に起こる苦しみの前駆部を取り除くことはことはできません。しかし主イエスは、その重荷を、私たちに代わって背負って下さるのです。それによって私たちは重荷を下ろすことができるのです。それは主イエスの肩に負わされていくのです。そして、そのことによって、いやししてくださるのです。こうして主イエスは十字架への道を進んでいきます。主イエスによるいやしはすべてこの十字架の死とつながっているのです。

 

 主イエスのなされるいやしは、十字架の贖いと復活の力によって、罪と死とサタンに勝利して、私たちの罪をすべて赦し、神の子として天国に導いて下さる救いのしるしです。いやしはそれで終わるのではなく、救いへとつながっています。

イエス様のいやしの働きは、人々の痛みや苦しみをとりさり、人々を幸せにする働きです。病気だけでなく、私たちが抱えている問題、悩みや苦しみや悲しみ、心配事などを代表して病気のいやしが行われました。人それぞれに求めるいやしは、ことなりますが、主イエスは私たち一人一人と出会い、一人一人に手を置いて、いやしてくださるのです。そして、最終的な完全ないやしは天国にあります。

 

5.悪霊にものを言わせなかった。

 34節に「悪霊にものを言うことをお許しにならなかった悪霊はイエスを知っていたからである」とあります。悪霊は主イエスが誰であるのかを知っており、それを語ることで、最終的なに救いの実現の計画が狂ってしまうのを配慮して、禁止されたのです。これは先週の箇所の24節で悪霊が主イエスに「私たちを滅ぼしに来た。神の聖者だ」と言い、主イエスが「黙れ」とその悪霊を叱って追い出したこととつながっています。人々はよく分かっていませんが、悪霊は、主イエスが誰であるか、知っているのです。悪霊がそのことを語るのをお許しにならない背景には、人々が、主イエスのことを苦しみや悲しみ、病気をいやす方としてだけ求めてしまわないようにするという配慮があります。主イエス・キリストは、人を罪から救い、神の国の実現のために働かれるのです。救いへと私たちを招いて下さる方、神の国の福音を告げ知らせて下さる方なのです。主イエスによるいやしは、この福音を宣べ伝えるための宣教の一環です。いやしは神の国の恵みとイエス様の愛のしるしなのです。

 

 お祈り 

2021年10月17日

「権威ある新しいお教え」マルコの福音書1:21-28   小高政宏牧師

<説教要旨>

 はじめに

 

 最初の四人の弟子たちと一緒に、主イエスの宣教の働きが始まりました。きようの聖書箇所は、カペナウムかの会堂で起きたの出来事を通して、ガリラヤ全地にイエス様の評判が広まったことを記しています。ここから、「権威ある新しい教え」について学びたいと思います。私たちが身近に読み、学び聞いている聖書の教えこそ「権威ある新しい教え」であり、その権威は少しも衰えることはなく、また古くなることもありません。ここに私たちの救いがあるからです。

 

1.会堂での教えた

 カペナウムはガリラヤ湖の北西にある岸辺の町です。そこに主イエスの最初の弟子たちの家がありました。そして、イエス様はシモンとアンデレの家に滞在しました。しかし、この家に人々を集めてそこで伝道を始めたのではありません。「イエスは安息日に会堂に入って教えられた」のです。安息日に会堂で教えることによって伝道が開始されました。四人の漁師を弟子としていろいろな準備をしたのではなく、会堂で毎週行われている礼拝の場で、すぐに教え始めたのです。

 

 主イエスが会堂でどんなことを話されたのかは何も記されていません。しかし、15節に「時は満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」と書いてありますから、会堂でもそのことを話されたと思われます。もう神の国は近づいている。だから、「悔い改めて福音を信じなさい。」会堂というのは、「シナゴーグ」という言葉で、ユダヤ人たちが集会をする場所です。もともとは「集まり」という意味でした。ユダヤ人たちは、安息日には一つ所に集まって、聖書を共に学んでいました。まだ新約聖書はありませんでしたから、旧約聖書です。エルサレムの神殿が破壊され失われてからは、このシナゴーグにおいて律法を学ぶ集会がユダヤ人たちにとって唯一の、主なる神様を礼拝する場となりました。ユダヤ人は神殿を失い、 国が滅ぼされ世界の各地に散らされていっても、それぞれの場所に会堂をつくりに安息日 の礼拝が行ないました。

 主イエスはこの安息日の会堂における礼拝に出席して、そこで教えを語られました。それ

は、多くの人が集まるから多くの人に伝えるのに都合が良いだけでなくて、主イエスの教えは、イスラエルの民の礼拝において語られるべきみ言葉だからです。

 

2.律法学者たちのようではなく、権威ある者として

 このようにして人々は、安息日に会堂で主イエスの教えを聞きました。そして、「その教えに驚いた」とあります。主イエスの教えを聞いた人々はびつくりしたのです。それまでこんな教えは聞いたことがない、と思った。それは主イエスが、「律法学者のようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」とあります。

 権威ある言葉とはどんな言葉なのでしようか。私たちはふつう、その分野における専門家、学者の言葉には権威がある、と思っています。その事柄についてよく知っており、深い知識がある人の言葉を、権威ある言葉と言うのです。しかし、主イエスの言葉に権威があったというのは、それとは違うことです。

 

「律法学者のようにではなく」とありますが、主イエスの権威と学者の権威との違いは何か。律法学者とは、律法についての広く深い知識によっていろいろな疑問に答えてくれる。そういう意味で律法学者たちの教えには専門家としての権威があった。

しかし、主イエスの言葉の権威は、それとは全く違うものでした。汚れた霊に命じると、出て行くような力を持っていることです。主イエスの言葉の権威とは、当時のユダヤの国の宗教の状況に対するはっきりと違ったものだったのです。神殿の儀式も会堂の礼拝も形骸化し、停滞し、人々の心に訴えるものを失っていた。汚れた霊に命じると、汚れた霊は出ていった。そういう力を持っていたのです。

 律法学者たちはどのような教えを語っていたのでしようか。彼らは文字通り律法の専門家で学者です。律法について詳しく学び、専門的な知識を持っています。その知識を土台として人々に、律法を守って生きるためにこのように生活しなさい、と教えていたのです。律法には様々な細かい規定がありますから、日々の生活の中で、このことは律法ではどう教えられ ていただろうか、と迷うことが出てきます。そのような時に、律法はこう教えているからこうしなさい、と教えてくれるのが律法学者です。また時代の移り変わりの中で、昔はなかった問題が生じてきて、律法にはその問題に直接的にはあてはまる掟が見当たらないようなことも起ります。そのような時に、その問題にはこの律法をこのように解釈して応用すればよい、というふうに律法の解釈と応用を教えてくれるのも律法学者です。しかし、そういう働きは実質的に人々の生き方や幸せとは無縁なね福音とはかけ離れたものになってしまっていました。

 つまり律法学者の教えは常に律法の条文を前提としており、それをどう解釈し、応用するか、という教えなのです。その解釈や応用が広く人々を納得させ、支持されると、権威ある優れた学者といわれます。ユダヤ人たちはそのような律法学者たちの教えをいつも聞いていました。しかし、そういう教えと、主イエスの教えは明らかに違っていた。主イエスの教えを、聞いた人たちは、「権威ある者として教えている」と感じました。それは律法学者たちの教えに権威がない、ということではありません。律法にしつかり根ざし、その正しい解釈がなされるのなら、彼らの教えは権威あるものです。しかし、律法学者たちの教えは、無力な形式的なものとなっていたのです。それと違い、主イエスは人々の救いを正面から語りました。救い主としての使命をもって、語りました。そのことが人々に分かったのです。

 

3.人々はその教えに驚いた

 律法学者のような教えからは驚きは生まれません。基本的に私たちが既に知っていることだからです。その人の全人格が問われるようなものはありません。根本から自分が救われるような教えもありません。驚くというのは、それまで全く知らなからた、聞いたことのなかった、自分の常識にないことが示されるときにおこるのです。

 

4.汚れた霊に取りつかれた人のことば

 なぜ、悪霊につかれた人のことを第一に取り上げたのでしようか。苦しんでいる人や病気の人を癒すことなど、救いについて教えるとき、そのほうが分かりやすいと思います。しかし、それよりも先に悪霊を取り上げました。それは、主イエスのみことばが霊的な力を持っことをまず第一に示したかったからではないでしようか。救いは根本において、霊的なことです。そして、当時の宗教は霊的に無力であった。

 しかし、人々は主イエスの話に無力でないことを感じ取り、驚いた。それは信仰の始まりとなると同時に、つまずきと反発の始まりにもなります。主イエスが権威ある者として話され、人々が驚いた。するとすぐにまた、一人の男が叫んで言った。

 24 「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしよう。わたしはあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」

 

 この言葉は、この人自身の言葉と言うよりも、この人に取りついている悪霊の言葉です。語っているのはこの人ですが、その内容は悪霊の言葉なのです。「私たちを滅ぼしに来たのでしよう」というところからそれが分かります。「私たち」とは悪霊のことであって、この人のことではありません。悪霊に取りつかれた人は、自分自身の言葉を語れなくなっているのです。しかしそれは、ロをあやつられて、自分が思ってもいない言葉を語らされているというのとも違います。この人は、自分の言葉で自分の考えや思いを語っているつもりです。しかしそれは明らかに悪霊の言葉です。つまり、自分の言葉と悪霊の言葉の区別がっかなくなってしまっているのです。

 悪霊は、人間に取りつき、様々な病気を引き起こすものと考えられていました。病気になると、いつもとは人が変わったように、別人のようになってしまうことから、肉体が悪霊に乗っ取られて、悪霊の言葉を語るようになっているのだ、と考えられた。また複数の悪霊が取りついて、心が分裂してしまって、自分のことがわからなくなることもありました。今日は医学が進んで、心の病をそのように悪霊の仕業と考えることはなくなりました。病気の人を、悪霊の手先のように扱うのではなく、適切な治療をするようになっています。しかしだからといってこの悪霊を昔の人の無知の産物として否定してしまうことは出来ません。私たちの心を支配し、主イエスから離れさせてしまう働きは確かに今もあるのです。その悪霊に誘惑されると、主イエスを信じられなくなり、神様のみ心よりも自分の考え、願いを第一とするようになります。

 主イエスの悪霊との戦いは、ここで終わったのではありません。それは主イエスの十字架の死にまで至る戦いでした。神様の独り子、である主イエスが、人間となってこの世を生まれ、悪霊に支配され、神様に敵対する罪に陥っている私たちのために戦って下さり、その戦いにおいて私たちの全ての罪を負って、私たちの身代わりとなって十字架に死んで下さったのです。この主イエスの十字架の死によって、私たちを支配している悪霊は滅ぼされ、私たちの罪の赦しが実現したのです。主イエスの神の子としての権威は、十字架の死と復活によって、罪と死とサタンに勝利したのです。

 

5.権威ある新しい教え

 このようにして、主イエスが悪霊に勝利されたのです。私たちはこの救いの恵みと自分の命を捨ててくれた愛を覚えたいと思います。当時の霊的な戦いにはいろんなものがありました。まじない、秘法、祈りなどが行われていました。しかし、主イエスの十字架と復活によってしか悪霊に勝利することは出来ません。そして、聖霊がその勝利の恵みをもって私たち一人一人にあてはめて導いてくださいます。ただ権威あることばによってしか、サタンと死と罪に打ち勝ことは出来ません。 

 これを見た人々は、みな互いに論じ合って言った。「これはどうだ権威ある、新しい教えだではないか。汚れた霊さえ戒められる。すると従うのだ。」

 人々は、主イエスの教えられたこと、なさったことを、「権威ある新しい教えだ」と言いました。この「新しい」という言葉は、性質の新しさを意味で今までにない少しだけ新しいと言うのではなく、前代未聞の新しさです。神のみこころを実現する、神の御子の権威です。いよいよ神の救いの計画が実現する時が来たのです。

 

 お祈り

2021年10月10日

「人間をとる漁師」マルコの福音書1:14-20   小高政宏牧師

<説教要旨>

 はじめに

 

 きょうの箇所は、主イエスによって、最初の四人の弟子たちが召されるときのことです。まず、シモンとアンデレという二人の兄弟です。この二人は漁師で、ガリラヤ湖で網を打っていました。シモンは、後に主イエスに「ペトロ」と名前を付けられ、初代教会の代表となる人です。それを主イエスはご覧になりました。主イエスはこの二人の兄弟に、目を留め、声を掛けられました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」二人はすぐに網を捨てて従った」とあります。

 さらにガリラヤ湖のほとりを歩いていくと、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟が網の手入れをしていました。そして、ヤコブとヨハネの兄弟も、父ゼベダイや雇い人たちを残して、イ工スの後について行きました。

 きょうは、この箇所から信仰者の召命について学びたいといます。

 

1.なぜ四人が選ばれたのか。

 イエスによって、漁師だった四人がこの日から弟子となりました。まず、彼らがどのような理由で選ばれたかを、コリント人への手紙第一1:26-29をみたいと思います言

26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわり、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。

 この聖句は、招かれた漁師だった四人にも当てはまります。漁師であった彼らが特別な能力があったり、地位が高いとか特別に人に評価されるものがあったのではありません。また、性格も特に良いということもなかったと思われます。ヤコブとヨハネは「雷の子」と呼ばれて、激しい性格だったようです。また、後に主イエスのことを語るために、雄弁な者が選ばれた、ということもないと思います。意志が固く、忍耐強いから、とも言えません。それは、選ばれた弟子たちが後にみんな、主イエスの十字架の時に逃げ去ってしまったことからも分かります。選ばれた側には、何の理由も、条件も、思い当たりません。しかし、主イエスは、一人一人に 目を留め、じっとご覧になり、ご自分から近付いてこられ、「わたしについて来なさい」、わたしに従い、わたしと共に歩みなさい、と招かれました。ここで確かなのは、神の選びがあったことです。その時には、選ばれた者が神の招きに従うことができるように整えらているのです。

 

2.ヨハネが捕らえられた後

 主イエスの宣教の働きは、ナザレの村からおよそ30歳の頃にヨルダン川に行って、ヨハネから洗礼を受け、その後すぐに荒野に追いやられ40日間サタンの誘惑を受けました。そして、ヨハネが捕えられた後、ガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝え始めました。「時は満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」とあります。 

 このメッセージは、バプテスマのヨハネの宣教と共通しています。しかし、二人の活動は違っています。バプテスマのヨハネが荒野で活動を開始すると、5節にあったように、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」のです。多くの人々がヨハネのところに押し寄せて来ました。ところが、神の福音を宣べ伝え始めた主イエスのところに、人々が押し寄せることはありませんでした。

 それは、ヨハネが捕えられたことによって、ユダヤの社会の状況が変わってしまったからです。人々は弾圧され、自分も捕らえられるかもしれない。そういう危険を感じ始めたのです。しかし、そういう状況が、主イエスの働きのための道を備えることになっていったのです。

 16節には「ガリラヤ湖のほとりを通られると」とありますが、この時主イエスは一人でした。周りに人が集まっていませんでした。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい』という言葉は、人々に聞かれず、誰の心をも動かさなかったように見えます。しかし、その主イエスのメッセージを受け止め、主イエスに従う四人の弟子が備えられていたのです。バプテスマのヨハネのもとには、「ユダヤの全国の人々とエルサレムの全住民」が来ましたが、主イエスはたった四人にら出会うだけでした。しかし、その四人は主イエスの言葉に 応答して弟子となり、従って行ったのです。主イエスを信じて従っていく人々は、後に教会を作り、福音を世界に広める人たちになっていきます。そこには、神の召命があり、弟子たちはその召命にふさわしく成長していったのです。

 福音は自分から遠く離れたところで語られているだけではありません。自分に向けて迫ってきます。神に遣わされ、この世に人となってこられた神の御子イエスは、一人一人に近づいてきます。日常の生活しているところにやってくるのです。そして、一人一人に目を留め、声をかけ、「わたしについて来なさい」と招いて下さるのです。バプテスマのヨハネのもとに 来た人々と主イエスの弟子となった人たちには、大きな違いがあります。ヨハネのもとに来た人々は、ヨハネの言葉を聞いて、自分からやってきました。しかし主イエスの弟子たちは、自分から主イエスのもとに行ったのではありません。主イエスが彼らの所に来られたのです。そして、「わたしについて来なさい」と声をかけられたのです。彼らは自分の思いによってではなく、主イエスに召され、それに応えて弟子となったのです。このように、シモンとアンデレにおいても、ヤコブとヨハネにおいても、主イエスが彼らのところに来て、彼らを見つめ、そして語りかけ、従うことによって彼らの人生は大きく変わりました。主イエスの弟子となったのです。しかし、バプテスマのヨハネの所で洗礼を受けた弟子たちにはそういう人生の転換はありません。彼らは教えや活動のことを聞き、悔い改めました。しかし、そこから先に進めませんでした。進むためには、主イエスの召しが必要だったのです。

 

3.わたしについて来なさい

 主イエスはシモンとアンデレに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と語 りかけました。ヤコブとヨハネに対しては「お呼びになった」とだけありますが、同じことを語りかけたと考えられます。「わたしについて来なさい」という主イエスの語りかけによって、彼らは弟子となったのです。この「わたしに」と「ついて来なさい」という言葉は、有名なマタイ福音書11:28の「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、もわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と同じ意味を持っています。主イエスが、「わたし」 というのも、「わたしはこころやさしく、ヘりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいの安らぎがきます。」を踏まえ考えるとよくわかります。

 招きを受けて主イエスのもとに来た者は、主イエスのくびきを負い、主イエスに学ぶのです。「くびき」という道具は二頭の牛などの家畜を並べてつなぎ作業をさせるためのものです。そのとき、イエス様が一方になってくださるのです。そして、主イエスが共に重荷を負って下さるのです。そして、くびきのもう片方を私たちが負って、主イエスの導きに従って歩んでいくのです。それが並んで進みますが、主イエスの後について従うということなのです。そのように歩むことによって、私たちは休むことができるのです。そして、魂の安らぎを与えられるのです。その時、恐れたり、強いられたりするのではなく、与えられた使命を担うことができます。ですから「わたしについて来なさい」というのは、「疲れた人者、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と同じ意味の言葉なのです。

 

4.人間をとる漁師にしよう

 主イエスは彼らに、「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われました。この言葉は分かりにくく、誤解されやすい面があります。人間をとると言うのは、人間を魚と同列にしているように感じられます。また、「魚よりも人間をとる方が尊い仕事だから、あなたがたを今よりもっと大事な働きをする人にしてあげる」という待遇をよくすることの意味に理解されそうです。

 しかし、人間をとる漁師にするというのは、主イエスの後について行く者となることによって新しい歩みをすることです。人間をとるとは、一つには、主イエスが神様の独り子、救い主としてこれから成し遂げようとしている救いの働きを担うことです。それによって実現する神の 国に人々を招き、人々が主イエスの救いにあずかって新しく生きることができるように導くこととです。

 また、この「人間をとる漁師」という言葉には、旧約聖書の背景があります。それはエレミヤ書16:16に、「見よ。わたしは多くの漁夫をやって、―主の御告げ―彼らをすなどらせる。」とあります。人間を釣り上げる漁師が神様によって遣わされる、と言われているのです。どうして漁師なのかというと、17節に「わたしの目は彼らのすべての行いを見ているからだ。彼らはわたしの前から隠れることはできない。また、彼らの咎もわたしの目の前から隠されはしない。」とあります。つまり、魚が水の中に、また岩場の陰に身を隠しているのを巧みな漁師が釣り上げるように、神様の前から身を隠している罪人たちをこの漁師が皆釣り上げる、ということです。つまりこの漁師たちは、罪人に対する神様の働きのために遣わされるのです。神様によるイスラエルの民の救いの働きのことです。ガリラヤ湖はたくさん魚が取れました。そして、塩漬けにされて遠くまで売られて行きました。それを再び天の故郷へと導く働きをするのです。神の国が近づいた。そして、そのための仕事をするために「人間をとる漁師」が遣わされるのです。主イエスの後について行く弟子たちは、主イエスによる神の国の実現を告げ知らせ、人々が悔い改めて救いにあずかるように、「人間をとる漁師」としての働きをしていくのです。

 

5.すぐに網を捨てて

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という主イエスの言葉に、シモンとアンデレは「すぐに網を捨てて従った」とあります。またヤコブとヨハネは「この二人も父ゼペダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」とあります。ここで二つのことを覚えたいと思います。一つは、彼ら四人が皆、主イエスの招きを受けてすぐに従って行きました。また、「網を捨て、父と雇い人を舟に残して」とあるように、自分の大事なものを 捨てて、また家族を離れて従いました。どうしてそんなにすぐに従って行くことができたのだろうか、不思議に思います。大事なものを捨てたり家族と別れたりできたのだろうか、と思います。

 「すぐに」ということは、あれこれ条件を確認したりせずに、ということです。主イエスにつ いて行くとどうなるのか、こんな場合にはどうか、あんな時にはどうすればよいのか、などと一切質問をしていないのです。また、ついて行くことによってどういう利益があるのか、主イエス  は自分に何を約束してくれるのか、という確認もしていません。また、ついて行くことができるように自分の側の状況を整えたいので、もう少し待って、ということも言っていません。それは「献身」という一言で言い表されます主イエスに、そして神様に自分自身をお献げし、委ねたのです。彼ら四人は献身したのす。そこに、彼らの人生の転換、それまでとは全く違う新しい歩みが始まりました。

 

 お祈り

2021年10月3日

「主イエスの洗礼の意味」マルコの福音書1:8-13   小高政宏牧師

<説教要旨>

 はじめに

 洗礼はどういう意味を持っているでしようか。もし、まだ信仰を持っていない方に、洗礼について質問されたら、どのように説明したらよいでしようか。今日は私たちに授けられた洗礼の素晴らしい恵みと特権を、主イエスの洗礼のことを通して、学びたいと思います。

 

1.ヨハネの洗礼と主イエスの洗礼

 ヨハネは、来るべき救い主のために道を準備することを自分の使命としていました。そして、「私の後から来られる方のくつのひもを解く値打ちもない。」と言いました。私は水であなたがたに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」からです。

 ヨハネの洗礼は、救い主の聖霊による洗礼の備えです。主イエスによる救いにおいても、悔い改めること、神様の方に向き変わり、立ち帰ること抜きに救いを考えることはできません。ですから主イエスの聖霊による洗礼もやはり、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」です。その点で変わりがありません。しかし、根本的な違いがあれます。主イエスの洗礼は、罪が贖われ、救いが実現したことのしるしです。ヨハネの洗礼は悔い改めて救いに備えさせるものですが、主イエスは救いを成し遂げ、そのしるしとしての洗礼です。

 

2.私たちの罪を贖う一歩として

主イエスはガリラヤのナザレで生活していました。そこからヨハネのいるヨルダン川に来ら れ、洗礼を受けました。ヨハネが授けていた洗礼は「罪が赦されるための悔い改めの洗礼」です。人々は、ヨハネのところに来て、自分の罪を言い表し、赦しを願って洗礼を受けました。ヨハネの洗礼は罪人が受けるものでした。

 その洗礼を、神の子である主イエスが受けたのは、何故でしようか。イエス様には罪はありません。そして、ヨハネから自分のよりもはるかに優れた方だとされていました。マタイによる福音書3:14には、主イエスがヨハネから洗礼を受けるためにヨルダン川に来られた時、彼は主イエスを思いとどまらせようとしました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるはずですのに。」と言いました。ですから、受ける必要はありません。しかし、主イエスが洗礼を受けられたことははっきりと記されています。

 

 ヨハネの洗礼を、神のひとり子の主イエスがお受けになったのは、私たちの罪の贖いをし

て下さるために必要だったからです。私たちの罪と様々な苦しみや悲しみを、ご自分の身に引き受けて下さる、ためなのです。ですから、主イエスが洗礼を受けたのは、ご自分のためではありません。私たちの救いを実現するためでした。罪人と共に洗礼を受け、罪人と共に歩み、苦しみ悲しみをご自分の身に負って、私たちの身代わりとなって十字架にかかって死ぬ第一歩として、洗礼を受けられたのです。

 

3.父なる神と聖霊とイエスが一つ

 ヨハネの洗礼は、全身を川の水につけました。そして、イエスが「水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。」とあります。ご覧になったのは主イエスご自身です。ここに、父なる神と御子イエスと聖霊の神の三つが一つになっています。

 

①天が裂けて

 「天が裂ける」というのは、どういうことでしようか。イザヤ書64:1に「あなたが天を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしよう。」とあります。民を代表して預言者が救いを求めると、神が天を裂いて、地上に臨まれることを言った言葉です。天が閉ざされて、神様との交わりが失われてしまっているために人々の苦しみは続いている。神様に祈り願い、どうか天を裂いて降ってください、と祈り求めた。「天が裂けて、霊が鳩のように降った」という言葉は、この祈り願いがかなえられたことを表しています。

 

②聖霊が鳩のように

 聖霊が鳩のようにとあるのは、創世記8章のノアの洪水の時のことを覚えさせます。ノアが箱舟から鳩を放っと、鳩はオリーブの葉をくわえて戻って来た、それによって、水が引き、新しい地が現れ始めたことがわかった。神様が新しい恵みを与えて下さるときに、鳩が出てくるのです。聖霊 が鳩のように降ったのも、このような神様の恵みが新しく始まろうとしているということを表しています。

 

③天から聞こえた声

 また、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」という声が、天から聞こえてきました。これは主イエスの父なる神様の声です、聖霊が下り、この声が聞こえてきたのです。父なる神様が主イエスに聖霊を遣わし、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」という宣言をされたのです。

 父なる神様が主イエスに聖霊を遣わし、「あなたは私の心にかなう神の子であり、父なる神のみこころを実現していく者だ」と告げた、ということです。このことを通して主イエスは、 自分が神の子であり、父である神のみ心を成し遂げていくものだという自覚と使命感を与えられ励まされたのです。

 「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という天からことばは、旧約聖書のみ言葉をその背景に持っています。王様の即位の時に歌われた詩篇にあります。神様が王の即位式において、その国を支配する権威を与えるときに「わたしの子」と言われました。もうーっは創世記22:2に「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクをつれて、モリヤの地にいきなさい。」とあります。信仰の父アブラハムに与えられたひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさいと、神が命じたのです。神は、主イエスに「あなたは、アブラハムにとってのイサクのように、私の愛するひとり子だ」と語りかけられたのです。それはアブラハムが最愛のイサクを殺して献げなければならない、という苦しみを受けたように、神も苦しみをもってイエスのことを愛していることを示しています。父なる神様のみ声が天から聞こえたということは、主イエスが洗礼を受け、罪人の罪を背負うことを、父である神様が喜び、それこそ神ご自身のみ心であると表しています。

 

 聖霊の力によって主イエスは、罪人である私たちとただ共に歩み、私たちの罪と苦しみ悲しみの全てを、私たちに代わって引き受け、それらを全て背負って下さること言うことです。主イエスの十字架の死はそういうことなのです。聖霊が下ったことによって、主イエスは特別な使命を与えられたのです。その使命への飯が天からの声によって明らかにされているのです。

 

4.すぐに荒野でサタンの誘惑を受けたのは

 洗礼を受けた後すぐに主イエスを荒野に追いやられました。それは聖霊によってあります。このことは、洗礼とサタンの誘惑がひと続きだと言うことを示しています。洗礼を受けてすぐに天国に行くのではありません。この地上を生きて行くのです。その地上で受けるサタンの誘惑とそれに勝った恵みを、13節は教えています。

 洗礼は、教理的に

①十字架の血による罪の赦し

②聖霊による再生

③神の子とされる

④死に勝利し永遠のいのち、天国の栄光を受け継ぐことなどの」しるし。

⑤洗礼を受けた者が信仰を公に宣言し、見える教会の会員とされる

 と教えられています。

 

 私たちも、洗礼を受けて、イエス様と同じように荒野に導かれます。そして、新しい人である神の子として、サタンの誘惑と戦います。主イエス・キリストの救いにあずかり、神様を信じて生きる者として歩み出します。洗礼を受ければ悲しみや苦しみがなくなるととうことではありません。最終的な救いと勝利は約束されていますが、私たちを取り巻く現実は相変わらず厳しいのです。信仰者も、信仰のない人々と違う世界を生きているわけではありません。現在のこの社会のいろいろな困難な現実の中で私たちも生きていくのです。その中で、信仰の戦いをし、成長していくのです。

 

 マルコでは、主イエスご自身が、洗礼を受けてすぐに、このような誘惑を体験なさったのです。そして、マタイやルカにあるような主イエスがサタンの三つの誘惑を受け、それに打ち勝ったことは省かれています。

 マルコはここで、主イエスが洗礼を受けてすぐに聖霊によって荒れ野へと追いやられ、そこでサタンの誘惑を受けたと記しています。それは洗礼を受け、主イエスを信じる信仰者としてこの世を様々な誘惑にさらされつつ生きていく私たちの姿と同じです。私たちの信仰の歩みに主イエスが共にいて下さることを教えているのです。

 また、主イエスはその荒野の40日間サタンによる誘惑の中で、神様による救いの完成において与えられる恵みを記しています。それは野の獣との間に平和を実現していたことです。主イエスによって、荒野が生きることのできないような苦しい場所ではないことを示しています。この地上の荒野の中で天の恵みを体験し、神の子として生きて行くことができると教えているのです。

 

 私たちは誘惑にいつも勝っことができるのではありません。いつも誘惑にさらされながら、サタンの攻撃を受けながら、共にいて下さる神の恵みによって、一歩一歩前進し成長していくのです。マルコ福音書は、主イエスのご生涯もそうだったということを示し、最終的に勝利したことを教えているのです。主イエスは、この世を去り、天に帰られるときに弟子たちに「全世界に出て行き、全ての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。」と告げました。

 

 お祈り