説教 2021年7月

2021年7月25日

「粘り強いとりなし」 創世記18:16 -33     小高政宏 牧師

<説教要旨> 

はじめに

 私たちは、お祈りで、感謝し、自分のお願いを神様に申し上げます。それとともに、他の人のために、必要な励ましや恵みを求めます。そのキリスト教の祈りの特徴は、神の右におられるイエス・キリストのとりなしによって支えられています。また、祈りは聖霊の導きがなければできません。アブラハムは旧約の時代に、とりなしの祈りの姿勢を神様から教えられました。

 その姿勢を学び、私たちみんながとりなしあう仲間であることを覚えたいと思います

 

1.神の友として神との交わりの深さ

 今日の聖書箇所は、アブラハムが3人のお客さんとの親しい交わりをもった後のことです。アブラハムは見送りに行きました。3人と言うのは、主と2人のみ使いとあります。3人がアブラハムを訪問した目的は「来年の今頃妻のサラに男の子が生まれる」ことを告げるためでした。それからもうーつのことがありました。主は「歓楽の町ソドムとゴモラを滅ぼすこと決めておられた」。そのことをアブラハムに話すかどうか、迷っていました。

 アブラハムは主とみ使いに、礼を尽くし最高のもてなしをしました。もっとも忠実なしもべとして仕えました。それに対して、主はアブラハムをしもべとしてではなく友として、心の内にあった「ソドムとゴモラを滅ぼす計画を」打ち明けます。

ムチ打たれながら命じられたことをするしもべは自分の損得しか考えません。しかし、本当に主に忠実な しもべは主のみこころを深く知り、その使命を成し遂げようとします。仕えるものであると同時に、友と言って良い関係をもつわけです。

 主がアブラハムに言画を話されたのは、「アブラハムは必ず大いなる強い国民になり、」「地のすべての国々は彼によって祝福されるようになる」ためである。そして、アブラハムの子孫に信仰を引き継ぐためである。アブラハムは諸国の民に祝福を伝え、自分の子孫が主のみことばに従った生活をし、神に祝福された「神の民」とする使命であった。そして、そのために、神はみこころを打ち明けられた。

 20節「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また、彼らの罪はきわめて思い。」これを聞いて、アブラハムがソドムとゴモラのために必死にとりなしをします。普通ですと、神が言われたのであればそれであきらめるよりほかない。それなのにとりなしをしようとしたのはなぜソドムとゴモラの多くの罪ある人々が、神様の憐れみによって赦されるために、必死にとりなしをするのは、この「とりなし」こそ、神様がアブラハムに期待しておられることだからなのです。神は人間の罪を裁かれます。しかし、アブラハムには罪人のための執り成しをすることを求めておられるのです。それはアブラハムだけに求められていることではありません。イスラエルが神様の民として選ばれたのは、このとりなしの使命のためなのです。 そして今、この使命を受け継いでいるのは、新しい神の民、真のイスラエルである教会です。私たち信仰者です。私たちも、アブラハムがソドムとゴモラの罪に満ちた人々のために神様の前に進み出てとりなしをしたように、私たち自身が生きているこの社会の人々の罪の赦しのために、とりなしの働きをすることを求められているのです。

 

2.神の正義とあわれみに信頼して

 アブラハムはどのようにしたか。

 第一は、神の正義に目を向けました。ソドムとゴモラの罪は大きく、彼らには救われるべき理由は何一つない。滅ぼされて当然である。そのことはアプラハムも分かっていた。しかし、アブラハムは「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼし尽くされるのですか。」と問い掛けました。「そのようなことをあなたがなされるはずがありません。」と言います。主は正義の方であり、正し、者と悪い者を区別して、それぞれに相応しいさばきをなさるなる方です。全部を一緒に滅ぼすことはないはずです。そのように、アブラハムは主に訴えました。神が正義の方であることに、希望があるのです。

 神の正義とともに、第二の根拠は主のあわれみです。「その中にいる50人の正し、者のために、その町をお赦しにならないのですか。」と言っています。本来なら、50人の正しい者は救われても、ほかの悪い人たちは滅ぼされるべきです。ところが、アブラハムは主のあわ れみによって、この50人のために町全体を救って下さるように求めています。私たちが、とりなしの祈りをする根拠は、主の正義と主のあわれみの二点です。私たちは主の裁きが正しいことを心から認めなくてはなりません。主のさばきは決して不当なことではありません。しかし、主は大いなるあわれみの方であり、罪人が救われることを求めておられます。私たちの信じる真実の神を深く知れば知るほど、とりなしこそが、主のみ心であることが分かります。

 

 隣人のためのとりなしの祈りをしていく中で、私たちも同じことを体験します。罪ある隣人のためにとりなし祈っていくことで、私たちは神様の憐れみの心を深く身近に知ることができるのです。逆に言えば、隣人のために執り成し、祈ることをしないならば、神様の憐れみの深さはも本当には分からないのです。神様の憐れみによりすがって必死にとりなしをしたアブラハムは、そのことによってこそ、神様の憐れみの大きさをはっきりと知ることができたのです。

 

3.祈りの姿勢

 二人のみ使いは先に行き、アブラハムと主だけになり、やり取りが始まります。この対話は祈りの場合と同じだと言ってよいと思います。

 アブラハムの祈りの姿はどんなであったでしよう。第一に覚えたいことは、滅びるものへの愛です。彼は、減びるものに対して無関心でいられなかったことです。ペテロの手紙第二2:6-8を見ると、「無節操な者たちの無好色な振る舞いに悩まされ、…義人口トは彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていた。」

 アブラハムにとってロトは、若くして死んだ自分の兄弟の子で、故郷を一緒に出て苦労した。 豊かになり別れて20年位になるが、いつも心配し、幸せを祈っていた。そのロトとその家族への愛がとりなしの原動力です。愛がないと祈りは始まりません。

 しかし、アブラハムはロトと家族を救ってくださいとは、一言も言っていません。50人正しい人がいたら、その町の人全部を救ってくださいと求めています。

 それから、第二は、「私はちりや灰にすぎませんが」と27節で告白していますが、自分の正しさに頼る事なく、自分を無力、無価値な者と認めて主の前にヘりくだっています。へりくだることによってさらに主に近付いていきます。祈らなければ主の前へりくだることができない。

 それから第三は、どこまでもあきらめない姿勢です。最初は「50人の正しい者がいれば」と言い、次に45人、40人、30人、20人、10人とその数を少なくして、主に赦しを願っています。アブラハムは、主が願いを聞いて赦そうと言う言葉を聞くと、ますます主の愛とあわれみに対する信頼を大きくしていきました。執り成しの祈りは、まだ願いは聞かれないと思ってだんだんあきらめてしまうのではなく、祈り続ける中で、主への信頼をだんだん高めていくものでなければならない。そうしているうちに、周囲への配慮や直面していることの意味が分かってくる。実際的な自分の願う解決ではなくとも、事態を受け止める心が備えられる。それは、主の愛と忍耐を知るための訓練であるからです。

 主はアブラハムが正しい者の人数を少なくして赦しを願うたびごとに「その町全部を赦そう」と言われました。主は決してアブラハムがしつこいといって怒りませんでした。とりなしの祈りを受け入れて下さったのです。

 

4.信仰者のとりなしの意味

 十人の正しい人、つまり神様に従う人がいれば、その町の他の全ての罪人たちを赦して下さる、この神様の憐れみの心を知る時、私たちは、自分たちが信仰者として立てられていることの大きな意味を思わされます。こんな少ない人で何が出来るか、と気落ちさせられることがたくさんあります。しかし、たとえ少数でも、神を信じ、従っている者たちが存在していることは、この町全体にとって大きな意味のあることなのです。神様は私たちを通して、町全体を救ってくださるのです。その私たちに与えられている重大な使命を覚えたいと思います。そのときには、自分の信仰が根本から問われます。

 なぜ、10人でアブラハムは主に願うことをやめたのでしようか。不思議だと思いませんか。

 それは主のアブラハムへの配慮のためであったと考えられます。後に正しいものが一人いるかと、と主からアブラハムに問う時が計画されていたからです。

 エレミヤ5:1-2に、「エレミヤが、一人でもエルサレムに正しい人がいたら、赦すといわれ、さがしたが、いなかったので、バビロンに滅ぼされた。」とあります。聖書に義人として、ノア、ダニエル、ヨブの名があるが、その人の義によって、他の人が救われるような義人は一人もいないことが教えられています。そして、人には人を救う力はない。罪とその結果である死を人間のカではどうすることもできない。そのために父なる神はイエス・キリストの十字架の死によって、罪を許され、復活の力によって生きる道を切り開いた。信仰者は自分の十字架を 負ことで、神の復活の力を与えられるのです。

 その事を、アブラハムはひとり子イサクをモリヤのヤマデ全焼の生け贄としてささげなさい、と命じられました。そして、アプラハムはそれに従おうとした。神のみこころを本当に知る神の友と呼ばれました。

 この後、ソドムとゴモラの町は滅ぼされました。そして、ロトの家族は救い出されます。ロトを救ったのはアプラハムではありません。あくまで神ご自身です。しかし、人の救いは神に任せて、人は何もしなくてもよいというのではありません。 

 私たちは厳しい現実にいつも目を向けなければなりません。ソドムとゴモラはこの後滅ぼされてしまいました。十人の正しい人もいなかったのです。アプラハムのとりなしは結果的に実現しませんでした。それが私たちの現実です。この厳しい現実が教えているのは、私たちのとりなしの業や祈りがこの世を救うことはできない、ということです。

 人はみなソドムの住人なのです。私たちは世を救う者ではなくて、救われなければならない、赦されなければならない罪人なのです。それがイエス・キリストによって、とりなすことのできるものとされたです。

 今日の私たちは、とてもアブラハムと比べることはできるような信仰はありません。しかし、イエス様によって、「友」「兄弟とされて」、聖書を与えられて神のみこころを余すところなく示されています。新約聖書の時代では特別な人だけが神のみこころを示されているのではありません。すべてのクリスチャンは知らされています。神は私たちがその人々のためにとりなし祈ることを、期待し、待っておられます。

 

お祈り

2021年7月18日

「確かにあなたは笑った」創世記18:1-15     小高政宏 牧師

<説教要旨>

 はじめに

 きょうは、「笑い」という題ですが、サラは長い間心のそこから笑っていなかったのではないでしようか。女奴隷ハガルがイシュマエルを生んだ。サラの心には晴れないものがいつもあった。みなさんはどうでしょうか。いつも笑いながら感謝して生きているでしょうか。以前日本人のビジネスマンはめがねをかけ、暗い色のスーツを着て、うれしくなくとも笑っている。貧し い国の子供たちは本当に笑顔いっばい、目が輝いているのと比べられて、どっちが幸せなのかと言われた。クリスチャンの笑いは一時的な笑いではなく、心の中の平安と喜びが外に現れたものです。いつも水が尽きない泉のように、深いところにたくさんのめぐみが沸き起こってくる。

 笑いに入る前に前置きが長くなりますが、聖書に沿ってみていきたいと思います。

 

1.もてなしする心

 アブラハムの住んでいた中東の真昼はとうてい外にいられないような暑さです。そのため、横たわって昼寝をするのが習慣でした。アブラハムも天幕の入り口のところに身をひそめて昼寝していたのでしよう。ふと気が付くと、目の前に三人の人が立っていました。普通、旅は、朝か夕方の涼しい時にします。ところが、この三人は暑い日中にやってきました。アブラハムは走っていき、地に身をかがめると、非常に謙遜な態度で、皆さんがこの樫の木の下の涼しいところで休んで下さい、と迎えました。相手に対して「ご主人」とありますが、「主よ」と同じ言葉です。「わが主よ」という言葉は、神様に対してだけでなく、人間に対して使っても差支えありませんでしたが、最大の尊敬の言葉として特別な場合だけ使われました。

 当時のこの地域の接待の仕方は、まず丁寧に挨拶し、次にここに書いてあるように、足を洗う水を出し、それから食事を作ってもてなします。給仕は女がするのではなく、その家の主人がします。食事を終えて、見送りをして一区切りです。

 アブラハムはその型の通りにしていますが、迎え方、ご馳走の仕方など、どれをとっても最上のもてなしをしています。挨拶の仕方に続いて食事についてですが、パンは「3セアの上等の小麦粉」とありますが、最上級のものを、1セアが7.6リットルですから3セアは相当の量で、とても3人ではたべ切れません。それから、「柔らかくて、おいしそうな子牛」と、凝乳と牛乳です。 

 なぜ、アブラハムはこのようなすごいもてなしをしたのでしようか。アブラハムが神に対してもっていた信仰が、隣人に対する親切となって現れたのです。自分のところを通り掛かった三人の人に、神のような神聖さを感じ取ったからではないでしようか。

普通だれでも忙しかったり、疲れていたり、自分の事だけで精一杯で、見ず知らずの人に対して親切にする余裕をもちません。関わりを拒んでしまうか、あまりにひどいもてなしをしてしまうのではないでしようか。

 キリストは私たちを、様々な人との関わりを通してテストされます。当然恩があったり立場が上であったりすると失礼のないように、見栄を張って至れり尽くせりのもてなします。ところが、飢えて、汚い身なりの人がきたとき、どのように対応するでしょうか。

聖書はマタイ25:35-40で、実は、こういう人はキリストの代わりに来ていると教えています。神との親しい交わりをもつ人は、その人を知らない人は考えません。どんなに姿かたちが変わっていたとしても、その人にあわれみを示します。本当の意味で、神との交わりがない人は、その人を見分けることができないので、助けを与えないで去らしてしまいます。

 また時には反対に、だましてお金をもらおうとする人もいます。そういう人も見抜くことができません。大抵うまいことを言って、お金をせびっていく。そして、お金が少なかったり、あげないと、愛がないひどい教会だと文句を言う人もいる。そういう人も、逆の意味でイエス様が送ってくれた人だと思います。

 

2.神は必ず借りを返される

 聖書では「愛のほかに借りがあってはなりません」と、教えられています。この世の原則では、借りたら必ず返さなければならない。しかし、愛によって与えられたものは、感謝して受ければよい。それは、神がその愛によってなされたことをちゃんと記録して、天国の貯金通帳に蓄えて下さっているので、この世のどんな貯金よりも確かなものだからです。しかし、愛の奉仕やささげものをしても、この世で栄光を受けてしまったら、天には蓄えられません。

 天国で報いを受けるだけでなく、私たちの思いを越えた形で、主が働いて与えた恵みが自分のところに大きくなって返ってくることもあります。ペテロはイエス様が伝道するために 夜中働いて一匹も魚が捕れない時に船を貸しました。その後、船が沈みそうになるほどたくさんの魚が取れました。預言者エリヤが、最後に残った粉と油でパンを作って食べ子供といっしょに死のうとした婦人に、まず神の人にたべさせなさい、と言いました。その言葉に従ったとき、「粉と油」は尽きず飢饉が終わるまで食べることができました。

 それでは、主はアブラハムにどの様にもてなしの借りを返されたでしようか。 

 9~10節を読む。

 三人の客人が座って食事をしていたとき、「妻のサラはどこにいますか」と問い掛けました。

 それは、アブラハムが一番求めていたものを知って、サラにも聞いてもらうためです。旧約では、恵みは長寿、土地、子孫に代表されるが、突き詰めると、永遠の命=天のみ国です。

「来年の今頃、サラに男の子が与えられるでしよう。」と言われました。サラは天幕の入り口で この言葉を聞きました。

 常識的に考えて有り得ないことであり、ずっと願ってきたがもうあきられてしまっていた。12 「それでサラは心の中で笑ってこう言った。老いぼれてしまったこの私になにのたのしみがあろう。」

 サラは、そんなことがあるものかと、心の中で笑った。サラは声を出しませんでしたが、三人には笑ったことが分かった。

 13 「そこで主がアブラハムに仰せられた」とあります。ここでは、三人ではなぐ主が仰せられたとなっています。三人はイエス・キリストと二人の御使いだったのです。そして、特に 重要なことなので、主が直接にアブラハムに言われました。なぜ、サラに直接言わないのかと言うと、二人に関わることであり、代表してアブラハムに言われたからです。

 ここでは、サラが心の中で思ったことに対してとがめています。少し厳しすぎるように思わ れますが、信仰は外側だけでなく、心の奥深くにまで関わっています。主は心が狭く少しの ことを厳しく責める方だと言うのではなく、心の奥底までも主は見られ、心の奥底からの交わりを求めておられるのです。アブラハムとサラは普通の信仰者としての生き方は、外側から見るか切りまったく問題がありません。模範的と言ってよいと思います。しかし、そういう人だからこそ、主はその人の内面をご覧になるのです。 

 それは、「主に不可能なことはない」と言うことをアブラハムとサラが本当に信じているかどうかが問われたのです。具体的には、年老いた二人に子が与えおられるという神の約束を信じることができかということです。信仰は最終的には、主の信頼ですから、このことを信頼できるかどうかが、問われるのです。恐らく、主は厳しく言われたのでしよう。サラは怖くなって、自分が心の中で思ったことを打ち消しました。

 15 「私は笑いませんでした。と言って打ち消した。恐ろしかったからである。しかし、主は仰せられた。いや確かにあなたは笑った。」

 サラがうち消したので、主は分かったと理解してはくれませんでした。「確かにあなたは笑った。」と念を押しています。この言葉によって、サラは今までとは違う一段高い信仰 と導かれました。そのために、主は厳しく言われたのです。

 ヘブル11:11「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束して下さった方を真実な方と考えたからです。」

 主は、サラの心の中の笑いに不信仰を御覧になった。サラは主の約束よりも自分を取り巻く現実のほうが確かだと思っていた。そして、自分に男の子が与えられることを有り得ないことだと笑った。この笑いは神が全知全能であることをまだ知らないことから起こった笑いです。普通ですと、だれが考えてもサラのように思うのではないでしようか。

 しかし、サラのように思う限り、主がサラを通して教えようとした本当の信仰者の笑いを体験 することはできません。人間の心はいろんな姿があります。それは笑いと結びついて、いろんな笑いがあります。日本人では外国人が見ると、嬉しいときも悲しい時も辛いときも、おかしいときも、つまらないときもいつも不思議に笑っていると言われることがあります。いろんな 笑いがあっても、それらには、良いものも悪いものはあります。しかし、主がもたらそうとする笑いは根本的に違っています。

 

3.主のもたらす「喜びの笑い」

 それでは、主はサラにどんな「笑い」を与えようとしたのでしょうか。きょうの聖書箇所だけ見たのでは分かりませんが、創世記21章を見ると分かります。

 神の約束通りに、男の子が与えられました。名前はイサクです。「彼は笑う」と言う意味です。有り得ないと言って笑ったのに、主が赤ちゃんを与えて「笑わせて下さった。」その時の笑いです。

 主に会い、主によって自分の恐れが取り除かれ、願いがかなえられた事によって起こる「笑い」が、サラの笑いです。罪が赦され、救われて希望をもって生きることができるようにされた喜びと感謝の表れとしての「笑い」です。

 今は、不安をだれもがもっている時代です。孤独な時代です。そういう時こそ、クリスチャンの笑いが家庭にも職場にも必要ではないでしようか。福音を伝えることは、この笑いを分かち合うことです。私たち、まず自分から笑い、そして、共に笑い、さらに笑いの輪を広めていきたいと思います。

 

お祈り

2021年7月11日

「家の者たち全員の割礼」 創世記17:9-14 22-27     小高政宏 牧師

 

<説教要旨>

 はじめに

 アブラハムが99歳のときに13年ぶりに主が現れて「わたしは全能の神である」と告げ、アブラハムに「全き者であれ」と命じました。そして、アブラハムとサラに名前を改めるように指示されました。神のほうから再出発させるために恵みとして名前を与えられたのです。まもなく一人の男の子がサライを通して与えられる。その子を通して星の数のように子孫が増え広がり、人々の上に立つ王も多くでるようになる。それに相応しい名前をアブラハムとサラに与えて、信仰の父と母にして下さったのです。

 きょうは、その契約のしるしとして「割礼を受ける」ように命じられたことから、その意味と後にイエス・キリストによってい召された洗礼について、学びたいと思います。割礼は、人間的な儀式ではなく、全能の神が命じたことです。

 

 1.割礼の意味

 割礼は、アブラハムのいた地方の民族的な習慣でした。ヨーロッパから来たペリシテ人を除くパレスチナー帯の諸民族はみな割礼をしていました。また、エジプトでもエチオピアでも、広く行われていました。バビロンやシリヤではしていませんでした。鋭い石器を使って、石器時代からあったと推定されています。どの様な意味で行っていたかは、はっきりとしませんが、多くは、種族共同体に正式に加入する儀式として、一定の年齢になると、多くは13歳くらいですが、大入として政治的な権利を得て、結婚もでき、兵役の義務、納税の義務を負うけじめとしての意味があったようです。また、衛生上の意味や、宗教的な意味もあったと考えられますが、詳しいことは不明です。

 アブラハムが主から命じられた割礼は、周辺諸種族の習慣と共通する面もありますが、信仰的な意味がはっきりと示されています。アブラハムの割礼は体の一部に神の恵みの約束を明記するためのものです。種族の儀式としての単なる切り傷や消えない印ではありません。それでは、主が命じた割礼はどのような意味をもっているのでしょうか。

 

 ①神への献身

 身体の一部を傷つけますから、血が流れ痛みます。その事で自分を犠牲する覚悟を表明する意味を持っていました。周辺諸部族にあっては、その 自己犠牲の精神は、共同体に対するものでした。しかし、アブラハムに示された割礼では、神の愛と恵みへの応答です。

 モーセは、40年の荒れ野の生活で、燃える柴が燃え尽きないのを見て、主によって、忘れかけていた自分の同胞を救うという使命を思い起こさせられました。そして、妻と子を伴って、エジプトに旅立ちました。奴隷として苦しむ民を救うためです。その途中、割礼を受けることを命じられて、その通りにしましたのそれを見た妻は「あなたは血の花婿です」と言って、エジプトに向かうモーセと別れて実家に戻っていきました。

 

 ②新しい人として生きる

 傷つけるだけでなく、包皮の一部を切り取る事によって、新しい立場に立ち、新しい人として生きる。コロサイ2:11(P.359)を読む。

 肉の体を脱ぎ捨て、新しい人として生きる。罪を赦され、私たちを責め立てている債務証書を無効にされ、自由に人として生きる。

 ヨシュア記5章に、40年荒れ野の生活の後、モーセやエジプトを出たとき20歳以上の人達は皆死に、新しい世代がヨルダン川を渡って、約束の地に入った。その時、まだ割礼を受けていなかった人達すべてに割礼を受けさせた。そして、過ぎ越しの祭りを行いました。そして、もうマナは降ってこなくなり、約束の地の産物を食べるようになった。

 

 ③家の者全員が割礼を受ける

 10節にすべて男子が受けなければならない。生まれて8日目に、家で生まれたしもべも、外国から買った奴隷もみな同じように受ける。男子だけに行われましたが、男子が代表として責任を取り、エバが先に罪を犯しても男のアダムが責任を取ったのと同じです。第二のアダムとしてイエス・キリストが男として来られた。洗礼は男も女も同じ様に受けるようにしてくださいました。

 祝福の約束には、どこの国の人も身分も関係なく、救いの恵みの契約に入ることができるのです。

 しかし、諸種族の割礼は、仲間とそうでないものを区別して、仲間の中の結束を強めるためで、自分たちの祝福を外に広め、分け与えようとする意思はありません。ところが、割礼は神の救いの計画の一つであり、最初から祝福を分かち合い、広めようとしていう意味を持っています。その点で、新約聖書の洗礼の精神に通じています。新約聖書の時代は、復活したイエス・キリストによって、共に生活する人達だけでなく、全世界に出て行って、すべての人を弟子として洗礼を授けるように命じられています。

 

 ④無割礼のものには契約を破ったものとされる。

 割礼を受けない場合は、神の約束を破るものとして、祝福に預かることはできません。神の民とされないで、仲間から外されます。「その民から断ち切られる」と言うのは、律法に違反した場合のように死刑にするというのではなく、交わりから追放されて、生活の基盤を失うと言う事です。

 

 ⑤永遠の契約

 親から子へと引き継がれていく。まわりが偶像だらけの中にあって、アブハムの子孫は歴史から消えてなくなりませんでした。歴 史に現れた大国、優秀な民族がみな消えてしまいましたが、ユダヤ人はずっとユダヤ人として続いてきました。それは信仰を継承したからです。律法という今日から見ると、あまりにも非合理に見える決まりを守り続けてきたからです。ある時には無意味で負担 にしか思えないことであったかも知れませんが、長い歴 史を通してみるとき、何にも勝る恵みであったのです。大きな富を得るよりも、戦争に勝ち大国になるよりも、素晴らしい文化や知恵を与えられるよりも、大きな恵みであったのです。

 アプラハムに命じられた割礼は、モーセの律法に繋がり、律 法を守り行う者のしるしだったのです。そうして、旧約聖書の時代イスラエルの民は滅びる事なく生きてきました。どんなに試練にあっても神に立ち返りました。国を失って、また戻ってきて国を建て直した民族などありません。

 

2.割礼から洗礼に

 しかし、旧約の時代が終り、新しいイエス・キリストによってもたらされる救いの時が来た。そして、割礼は洗礼へと変わりました。愛によって働く信仰こそが大事であり、信仰によつて救われたしるしとして、私たちはこの地上の見える教会にあって、洗礼を受けるのです。

 

洗礼は、神の命じた儀式として、人の一生のすべてにかかわるものです。

 

誕生祝 ・・・ 新しい人として生まれる

成人式 ・・・ 求道者ではなく、信仰者として教会生活を始める

結婚式 ・・・ キリストの花嫁として、主と共に歩む

葬式  ・・・ 古い自分が十字架にかかって死ぬ。そして、復活する。

出所祝い・・・ 罪の牢獄の支配から、キリストの十字架によって自由になる

 

 しかし、ユダヤ人は新約聖書の時代もどうしても割礼をやめることが出ない。律法違反として神の民から断ち切られる、と考えました。パウロはユダヤ人以外の旧約聖書の教えを知らない人々に福音を伝え、多くの人が信仰 に導かれました。その人達は洗礼を受けましたが割礼は受けませんでした。そして、宣教報告をした後のエルサレム会議で、その事を認めました。もはや割礼を受けなくとも良いと決められたのです。しかし、その後もユダヤ教の影響から抜け切れないたくさんの人達が、パウロの宣教したところにいつて割礼が必要だ、律法を守るべきだと教えました。パウロは断固戦いました。

 

ピリピ3:2-3を読む (新約 P.385)。

「肉のだけの割礼の者に気をつけてください。神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼りにしない私たちのほうこそ、割礼のものなのです。」

 こうして、キリスト教会では割礼を行いません。しかし、アブラハムに主が命じた割礼の精神は、しっかりと受け継がなくてはなりません。

 

 アブラハムは、主の言葉を受け止め、襟を正して「割礼」の儀式を執り行ないました。この時までは、羊や牛をほふり、捧げたことはあっても、自分の体にも、共に生活する者たちの体にも石の小刀を当てて切り捨てることはありませんでした。アブラハムは緊張して、主の約束を覚えて「その日のうちに」「ただちに」行いました。

 イシュマエルも受けました。イスラム教では今でも割礼をしているそうです。アブラハムは今日の私たち信仰者が主の十字架と復活を覚えて、信仰者として生きる喜びを持って洗礼式に臨むのと同じ喜びをもって、割礼の儀式に臨んだのではないでしょうか。痛みに勝る恵みを覚えたに違いありません 。

 

お祈り

2021年7月4日

「水の上にパンを投げよ」 伝道者の書11:6     小高政宏 牧師

2021.7.4世界宣教週間

<説教要旨>

 はじめに

 今日は、日本長老教会の世界宣教週間です。宣教師や海外奉仕者を覚え、礼拝をおささげします。具体的なことは、海外宣教報をご覧くださり、お祈りや献金をお願いいたします。先週末に今日の主日礼拝の説教で、宣教に関するものを取り上げてくださいとのメールをいただきましたので、伝道者の書から世界宣教の使命と恵みを学びたいと思います。

 

 1.水の上にパンを投げよ

 「あなたのパンを水の上に投げよ」というと、小さな川で泳いでいる鯉にパンをちぎってあげたことや、池に来た白鳥にパンをあげたことを思い出します。この有名な聖書の言葉を宣教の教えとして読みたいと思います。まず第一は、前向きな姿勢を持つということです。パンは食糧、穀物のことで、水は海や川のことです。投げるというのは、捨てることではなく、送り出すと言う意味で、危険を恐れず、穀物の貿易に大胆に投資しなさい。そうすれば時が来れば大きな成功を収めることができると考えることができます。海外貿易は危険と大きな儲けが背中合わせであった。ソロモン王は、この海外貿易で大成功を収めた。当時の世界の富の半分は、ソロモンのものになったと言われるほどです。外国の良い物が入ってくればどうしても欲しくなる。高い値段でも買う。安く買って高く売れば儲かる。ソロモンはこの貿易のネットワークを独占した。もともとはフェニキア人が貿易を得意とした。ソロモンはペリシテの国を支配下に置き、彼ら以上に貿易を発展させた。そして、富だけでなく、いろんな国の文化や宗教がユダヤに入って、国の力は絶大になったが、信仰的には弱くなってしまった。危険を冒して、しかも十分に備えて行えば大きな成功を収めることができる。人生は手をこまねいて、安定しているだけでは、決して成功しない。しかし、富と権力で救いは実現しないことを晩年には知っていたのではないかと思います。

 次に、この言葉を信仰の姿勢として、特に伝道の勧めとして読みたいと思います。パンは生活の糧のことで、文字通りのパンもそうですし、もっと広くお金や能力、地位もパンの一部と考えます。人は富んでいても貧しくてもパンを求め続けます。富んでいる人はもっと多くのパンがあればもっと幸せになれると思い込んで求めます。人はパンを必要とします。パンがなければ生きられません。その「パンを水の上に投げなさい」と伝道者は言います。

 普通ですと、自分がたべる以外のものは。もっと儲けるために使う。儲けるのが危険なときにはしまっておく。それを水の上に投げれば、むなしく流れ去ってしまいます。いいタイミングで魚が食べる力もしれないが、それでも投げた人の得になるとは考えられません。しかし、そうしなさい。そうすれば、「ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。」と言われています。なぜ、そういうことができるのか。それは神の救いの契約、神の約束があるからです。神の民イスラエルは、目先の利益や 日先の安定を求めて信仰を忘れ、何度も失敗しました。目先の利益や成功をもたらしそうな偶像にこころを奪われた。何度も苦しみに会い、そのたびに神は預言者を送って助けてくれた。そして、メシヤと呼ばれる救い主があらわれて救いが実現すると教えた。

 新約聖書を知っている私たちは、神の御子イエス・キリストによって実現した救いを知っています。人としてこの世に来られ、十字架の死と復活の後、昇天されて代わりに聖霊が下り、新約聖書の時代の教会が作られました。そして、この世界の終わりの時に再び来られ、天の栄光へと導いてくださいます。2節に「あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ。」とあります。あなたの受ける分というのは、「あなたのパン」と同じで、神から与えられた恵みと言ってよいと思います。それを「7~8人に分けておけ」というのは、貸すとか預けておくということではなく、分けて与えるということだと思います。ふつう金持ちは先を読み、戦争や飢饉、疫病などを予測して、それに対応できるように自分の財産を分けておきますが、そういうことではありません。

 この言葉を宣教の勧めと理解するためには、この世の生活の糧としてのパンだけではなく、「いのちのパン」について知らなければなりません。イエス様は、「人はパンたけで生きるのではない。神の国からでる一つ一つの言葉によつて生きる」と教えられました。エジプトで奴隷の苦しみの中にいたイスラエルの民が助け出されました。しかし、彼らが本当に奴隷ではなく自由な民として生きるためには、パンに対する姿勢をしっかりと学ぶことが必要でした。そのために、マナと呼ばれる食べ物が空から降ってきた。それを毎日その日の分を拾って食べる。安息日の前の日は2日分を拾った。ほかの日にたくさん余るほど拾っても腐って食べられなくなってしまった。この体験は、奴隷の生き方から自由になるためにどうしても通らなければならない体験であった。パンの問題は簡単そうで、なかなか解決できない問題です。その人の生き方のすべてがかかわっています。「あなたのうける分を七人か八人に分けておけ」とありますが、パンが神から受ける分として自分のものになったという思いがなれば、豊かであっても、貧しくても、この世のパンの奴隷です。

 水の上に投げるパンは、物やお金など一時の困難を助けるだけでなく、いのちのパンを分け与えるこという神のみこころにかなった事をすることです。使徒の働き4章で「エルサレム神殿で物乞いをしていた足の悪い人に、私たちには金銀はないが、私たちにあるものをあげよう。主イエス・キリストの名によって歩きなさい。」この伝道者の書は、空の空で始まって、空の空で満ちているが、そういう中にあって、「パンを水の上に投げる人生、一見まったくむなしいとしか思えない事が、けっしてむなしくないと教えています。

 

 2.種を蒔け(3-6)

 パレスチナでは、秋の雨の降った後で種蒔きをします。そして、春から夏にかけて刈り入れをします。種蒔きは、日本のように土を掘って種を埋めるのではなく、ミレーの「種蒔く人」の絵のように、手から畑にばら蒔かれる。そのため風が強いと飛ばされてしまうので普通種蒔きはしない。また、雨の日には刈り入れをしません。雲は雨の前兆です。雲や風を恐れ、心配していたら、種蒔きも刈り入れもできないことになり、収穫のチャンスを失ってしまいます。

 人生においても、雲も雨も心配ないという時はほとんどない。不安がありながらも種を蒔くときに実りを得ることができる。風や雲は自分の力ではどうすることもできない。しかし、困難を恐れず、失敗を恐れず、挑戦すべきである。自分にはどうすることもできないこともあるが、風や雲をもつかさどる神がおられる。その生ける神を信じて種をまけと言う。これは、事業やいろんな事に対するチャレンジ精神の勧めとも考えられるが、伝道の在り方についての教えとしてもっともぴったりするように思います。地域や隣人・家族への伝道は何時でもできると思いつつ、いつも風があるとか雲が出ていると言うような具合でなかなかできないで時間が過ぎてしまいます。

 

3.神の愛と救いへの信頼

 神への信頼がないと伝道することはできません。5節「あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたはいっさいを行なわれる神のみわざを知らな。」とあります。自分で納得がいくように条件を整えてから伝道を始めるのではありません。信仰によって神に信頼して宣教は始まります。胎児は神の賜物であり、神が創造される神秘なる命です。風と同じように、人には分からない。分かっているのは、ただ胎児が生きていると言う事、風が吹いていると言うことで、神が一切を行っているということです。胎内で、新しい命は着実に成長し、やがてこの世に誕生する。6節「朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。」神に信頼し、ゆだねて、種を蒔けばよい。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」(詩篇126:5)

 

 例話 プロテスタント教会で初めにインドの内地の宣教を始めたのは、ウイリアム・ケアリーという人です。彼は少年時代、靴職人となるために親方のもとに弟子入りしました。親方からほかの誰よりも真面目で仕事も信仰も生活もしっかりとしていて、親方の自慢の弟子でした。しかし、一生忘れることのできない罪を犯しました。クリスマスに貧しい人や 一人ぼっちの人、つらい思いをしている人たちにブレゼントするために、親方は執事だったので献金を集めることになった。献金は執事さんの仕事でしたが、親方はケアリーを信頼して、彼にも協力してくれるように頼んだ。たくさんの献金があり、籠からあふれそうになっていた。そのお金の中から、ケアリーはギリシャ語の聖書を買ってしまった。その後で心を痛めた。親方に知られ、ひどく叱られたが、親方はだれにも知られないように、そのお金を自分で入れてくれた。毎日恐れて過ごした。自分は罪びとだとはっきり分かった。この体験が、後に、インド人などに福音を伝える必要はないという中で、ケアリーはそれは違う自分のようなものを神は救ってくださった。だから、無自分はインドに宣教 に行きたいと思った、という。

 

お祈り